真冬の校庭を、ほのかはブーツのまま一歩ずつ歩いていた。
 足元の芝は白く凍りつき、朝日を受けてパリパリと音を立てる。吐く息が薄く流れるたび、背中のリュックに詰めた「七色の粉袋」がほんの少し跳ねる感覚があった。
「ねえ、本当にこれで意味あるのかな」
 萌美の声が背後から聞こえる。彼女はほのかの足跡を辿って歩きながら、腰に手を当てていた。肩に掛けたトートバッグの中では、袋詰めしたチョーク色粉が小さく擦れ合っている音がする。
「うん。たぶん……でもやってみなきゃ、わかんない」
 ほのかは振り返らずに答えた。声は控えめだけど、歩幅は一定だった。
 今日の計画は、フェア告知の“地上プロモーション”。校庭の正門から生徒玄関までを、色付きの足跡で染めていく。素材は、美術準備室から持ち出した色粉。乾いた校庭に振りかければ、靴裏に付いた粉が次々と後方に転写され、歩くだけで道にグラデーションが描かれる。事前に靴裏に布を貼って“定着ゾーン”を作るなど、数日前から準備を重ねた。
 フェア開始まで残り三週間。点数制度の反対派といえど、無許可で大掛かりな掲示活動は避けなければならない。だからこそこの方法――色の足跡だけを静かに残す手段――が採用された。
「ほのか、もうちょっと右寄って。校舎の壁からラインがズレてきてる」
「……うん」
 靴の向きを一歩だけ調整して、再び歩き出す。ほのかの頬には、緊張なのか寒さなのか、うっすらと赤みが差していた。だけどその眼差しは、どこか誇らしげだった。
 萌美はふっと笑う。
「すごいじゃん、ちゃんと軌道守れてる」
「泰輝が、地面の傾斜考えた線引いてくれてたから……」
「それでも難しいって。私、昨日やったとき超ズレたもん。ほのか、よくここまで練習したね」
 ほのかは少しだけ振り返って、小さく笑った。
「……ありがと。でも、みんなでやったほうが、もっとすごくなる」
 その声には、確かに芯があった。
 遠くから朝のチャイムが鳴る。校舎の窓が次々と開き、登校してきた生徒たちの気配が少しずつ増えていく。
 そしてそのときだった。
「おい、あれ……何か描いてない?」
「虹? いや、足跡じゃね?」
「え、なにこれ。すげえ……」
 ざわめきが、徐々に広がる。ほのかと萌美の作った“足跡の道”が、灰色の校庭を背景に、くっきりと浮かび上がっていた。
 最初は赤、そして橙、黄、緑、青、藍、紫……歩くたびに少しずつ色が変わり、足跡がグラデーションで続いていく。人工的な形じゃない。誰かの人生そのものが地面を染めているような、そんな風景だった。
「ほのか、止まらないで!」
 萌美が後ろから急かす。ほのかは頷いて、最後の紫粉を踏みしめた。
 ちょうどその時、由衣が校門をくぐった。
「……え?」
 彼女は思わず立ち止まり、口を開けた。虹色の足跡が校庭のど真ん中を貫いていた。
「すご……こんなにきれいに……」
 萌美がほのかの隣に並び、呼吸を整えながら言った。
「由衣、見た? これ、ほのかが考えたの」
 由衣はその場にしゃがみこみ、手袋越しに粉の跡をなぞる。指先に少しだけ紫色がついた。
「すごい……ねえ、この色、私が縫った制服のスカートと同じ色かも」
「そう? うれしい」
 ほのかが照れくさそうに笑うと、萌美が一歩前に出て言った。
「これ、フェアの告知だよ。“色は選べる”って。言葉じゃなくて、歩いた足跡で見せたかったの。点数なんてなくても、誰でもこうやって歩いていいんだって」
 ちょうどその時、体育館から職員の誰かが顔を出した。
「おい、そこの三人! 朝から何をやってるんだ!」
 空気が一瞬凍る。由衣がビクリと肩をすくめ、ほのかの手をぎゅっと握る。
 萌美は視線を逸らさず、まっすぐ言った。
「この足跡は、私たちの意思表示です。壊すなら壊して。だけど、見た人の記憶までは消せません」
 職員は唖然としていたが、何も言えなかった。



 ホームルームの時間になっても、教室ではざわざわとした空気が残っていた。
「見た? 今朝の校庭」「あれって、あの同盟の子たちだよね?」
 話題は完全に“足跡の虹”に移っていた。普段は無関心を装っていた生徒たちも、今日ばかりは言葉を隠さない。
「俺、ちょっと感動したわ……なんか、普通の朝じゃなかった」
「写真撮った? あれ、一瞬で消えそうだから」
「色、選べるってこと? どういう意味なんだろ」
 丈太郎は自席でノートを開いたまま、ぼんやりと耳を澄ませていた。教卓では担任が点数管理アプリのバージョン確認をしている。誰も、今朝のことについて教師側から言及しないのが、逆に奇妙だった。
 チャイムが鳴り終わる直前、優亜が遅れて教室に入ってきた。席に着くやいなや、すぐ丈太郎の方に顔を向ける。
「ねえ、ほのかたち、すごかったじゃん」
「……うん。あんなにちゃんと、形になるなんて思わなかった」
 優亜は机に肘をついて、にやっと笑った。
「“形になる”んじゃなくて、“形にした”んでしょ。あんた、もっと喜んでいいのに。仲間だろ?」
 丈太郎は小さく笑ってから、手帳の端に〈色の選択=行動の自由〉とだけメモした。
 放課後になり、再び校庭に集まった灰色同盟のメンバー十人。足跡の色は少し風で飛び、グラデーションが柔らかく滲んでいた。それでも、ラインは生きていた。
「見た人、結構多かったみたい」
 泰輝がそう言って、校門に向かって一歩歩く。
「やってよかったと思う」
 雅也が深く頷く。「だってあれ、さ。説明なんかいらない。自分で色選んで、自分の場所歩けるって、それだけで、俺、やっと自由になった感じしたもん」
 宏美が珍しく何も言わず、しばらく足跡の最後を見つめていた。
 そしてふっと言う。
「私、今朝、この足跡の上を歩いてから、今日一日、自分を飾る気にならなかった」
「それ、いいこと?」
「……たぶん。初めて、“見た目以外の自分”で過ごして、あんまり居心地悪くなかった」
 ほのかは黙ってそれを聞いていた。けれど表情は明るかった。
 そのとき、由衣が取り出したカメラでそっと足跡を撮影した。
「これ、ポスターに使えないかな。“フリーカラー・フェア”のね」
 涼平が頷いた。
「それ、採用。俺が印刷所にデータ持ってく」
 最後に、優也がぽつりとつぶやいた。
「点数じゃなくて、選んだ色の足跡が評価になるなら……俺も、もっと自分を見てやってもいいかもしれない」
 ほのかはその言葉を聞いて、空を見上げた。
 薄く漂う夕焼けの光の中、彼女の描いた色の足跡が、ゆっくりと溶けていく。
 でも、その痕跡は、もう誰かの記憶に残った。たった一人の歩みが、世界を少しだけ染めた。
 これが、「灰色同盟」の新しい一歩だった。
――第29話了