冬の朝は、窓の外よりも胸の内が冷える。
いつもより少し早く登校した由衣は、音楽室の鍵を借りて、静かにドアを開けた。教室内は、誰の音も匂いもしない、まっさらな白紙のような空気に包まれていた。
ひと呼吸だけ、立ち止まる。
ピアノのカバーを外し、椅子を引き、譜面を開く。いや、今日は譜面などない。
由衣の前にあるのは、何も書かれていない五線譜と、無音の楽想。
灰色同盟の活動が、年明け以降もあわただしく続いている。点数制度の廃止に向けた説得、フリーカラー・フェアの準備、校長との綱引き——そのどれもが、由衣の胸の奥を静かに波立たせていた。
「私、何ができるんだろう」
ぽつりと独り言をこぼす。
萌美のように論理的に反論はできない。優亜のように情熱で人を動かせない。涼平や優也のように教師と対峙する勇気もない。
だから、せめて。
せめて、私なりに「これでいい」と言える表現で、最後まで音楽室に残したい——。
今日の課題は、冬休み明けの提出作品としての「自由作曲演奏」。評価シートには「完成度・表現力・構成点・独創性・成績加点対象」の欄が並んでいる。成績に加味される、れっきとした評価対象。
にもかかわらず、由衣の提出譜面には、一音たりとも記されていなかった。
無音。白紙。全て空白。
ただし、楽譜の右下には、鉛筆でこう書いてあった。
《この曲は、音がなくても、心の中で響きます》
まっすぐに鍵盤を見つめた由衣は、譜面通りに——つまり、音を出さずに両手をそっと構えた。
ピアノのふたは開いている。だが鍵盤に触れず、彼女はゆっくりと、想像上の旋律をなぞり始めた。
(イントロ。四拍休符。まだ誰も知らない物語のはじまり)
手だけが、そっと動く。まるで空気にピアノを描くように。
ふいに、音楽室のドアが開いた。
入ってきたのは音楽教師・沢木だった。腕時計を確認しながら、「おはよう」とだけ言って、演奏を見ていた。
「……音、出てないね?」
その声に由衣はビクッと肩を震わせたが、すぐに深く頭を下げた。
「音は、心の中で出してます。だから、これは無音演奏です」
「……なるほど。じゃあ、譜面は?」
「白紙です。でも、提出します」
沢木は少し眉を寄せたが、怒りでも侮蔑でもない、困惑と戸惑いを混ぜた視線で、由衣の手元を見つめていた。
教卓の上に、点数シートと評価票が置かれていた。沢木はそれにペンを走らせ、ひとつひとつの欄を埋めていく。
完成度→「未提出扱い」
構成点→「判定不能」
成績加点→「対象外」
由衣の肩に、何か冷たい水がぽとりと落ちた気がした。だけど、次の欄を見て目を見開く。
表現力→「聴こえないのに伝わった」
独創性→「白紙の勇者」
「……先生?」
声が震えた。沢木は苦笑しながら答えた。
「私はね、由衣さん。昔、楽譜がない音楽に心を打たれたことがあるんだよ。『音を使わない演奏』は、それだけで反則って言う人もいる。でも、私にはちゃんと“演奏”だった。だから、点数じゃなく、言葉で評価した」
「でも……これ、成績にはならないですよね?」
「うん。でも、“記憶”にはなるよ。誰よりも鮮やかに、白いままで」
由衣の目に、涙がにじんだ。
点数をもらわなくても、存在を記憶される。
誰かに認められるだけでなく、誰かの中に“残る”。
それだけで、十分だった。
チャイムが鳴った。外から生徒たちのざわめきが聞こえる。日常が戻ってくる。
沢木は由衣の白紙譜面をそっと持ち上げ、「これは私が預かろう」と言って職員室へ向かった。
音楽室に再び静寂が訪れる。
でもそこは、無音ではなかった。
由衣の中で、確かにひとつの旋律が鳴っていた。
誰にも聞こえないけれど、自分にはわかる。勇気の音だった。
昼休み。
食堂の奥の隅、長机に教科書と筆箱を並べて黙々とお弁当を広げる由衣の姿を、萌美はすぐに見つけた。
「ここ、いい?」
お茶のボトルを手に、萌美が向かいに腰を下ろす。
由衣は箸を置いて、小さく頷いた。
「今日、ピアノ……弾いたんでしょ?」
問いかけに、由衣は驚いたように目を丸くする。
「どうして、知ってるの?」
「沢木先生が、音楽準備室で言ってた。“今日の由衣の音楽は、音がなかった”って」
萌美は、おにぎりを一口かじって、ゆっくり咀嚼しながら続けた。
「でも先生、笑ってた。“ちゃんと聴こえてきた”って」
由衣は俯いたまま、お弁当箱のすみの卵焼きを箸でつついた。
「わたし、点数……もらえなかった」
「それで?」
「だから、もう、意味ないのかなって」
ぽつりとこぼれたその言葉は、ふわりとした昼の空気に、痛々しいほど静かに響いた。
萌美は真っすぐに由衣を見つめ、少しだけ口を尖らせた。
「由衣は、“もらう”ことばっかり気にしてる。でもさ、自分から“渡す”ことって、すごく勇気いるんだよ」
「渡す?」
「白紙を渡すって、一番怖いことじゃない? “何もないです”って言ってるようで、本当は、“全部ここにある”って見せてるのと同じ」
由衣はその言葉に、少しだけ首をかしげる。
「……でも、私には何もないよ?」
萌美は目を細めて、やさしい笑みを浮かべた。
「じゃあ、その“何もない”って言葉を、誰かが必要とする時が来るかもね」
教室へ戻る道すがら、由衣は考えていた。
萌美の言葉が、胸の奥でリフレインする。
“何もない”は、欠けているんじゃなくて、選んだ余白なのかもしれない。
放課後。
昇降口に向かう途中、掲示板の前で立ち止まった生徒たちのざわめきが耳に届く。
「なにこれ……空白?」
「点数が……書いてない?」
由衣もそっとその輪の中に入ると、そこには掲示板の中央に貼られた、一枚のA3用紙。
真っ白。まるで大きな譜面のような、完全な白紙。
その左下に、小さな文字だけがあった。
《点数で何かを証明しなくても、誰かの記憶に残ることがある。
それを私は、音のない音楽で知りました。》
署名はない。
でも、誰の手によるものかは、周囲の何人かが察していた。
萌美がそっと由衣の肩を叩いた。
「由衣の“白紙”は、もう響いてるよ。ね」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
——白紙は、始まりの色。
だからきっと、まだ何も描いていないだけ。
「明日、もう一度ピアノを弾いてみる。今度は、音を出してもいいかな」
ぽつりと由衣が言うと、萌美は少し目を細めた。
「うん。聴きに行く」
歩き出した由衣の背中には、何も背負っていないようで、確かに何かを手にした誰かの歩き方があった。
その姿こそが——
まっさらな勇気そのものだった。
(第27話・完)
いつもより少し早く登校した由衣は、音楽室の鍵を借りて、静かにドアを開けた。教室内は、誰の音も匂いもしない、まっさらな白紙のような空気に包まれていた。
ひと呼吸だけ、立ち止まる。
ピアノのカバーを外し、椅子を引き、譜面を開く。いや、今日は譜面などない。
由衣の前にあるのは、何も書かれていない五線譜と、無音の楽想。
灰色同盟の活動が、年明け以降もあわただしく続いている。点数制度の廃止に向けた説得、フリーカラー・フェアの準備、校長との綱引き——そのどれもが、由衣の胸の奥を静かに波立たせていた。
「私、何ができるんだろう」
ぽつりと独り言をこぼす。
萌美のように論理的に反論はできない。優亜のように情熱で人を動かせない。涼平や優也のように教師と対峙する勇気もない。
だから、せめて。
せめて、私なりに「これでいい」と言える表現で、最後まで音楽室に残したい——。
今日の課題は、冬休み明けの提出作品としての「自由作曲演奏」。評価シートには「完成度・表現力・構成点・独創性・成績加点対象」の欄が並んでいる。成績に加味される、れっきとした評価対象。
にもかかわらず、由衣の提出譜面には、一音たりとも記されていなかった。
無音。白紙。全て空白。
ただし、楽譜の右下には、鉛筆でこう書いてあった。
《この曲は、音がなくても、心の中で響きます》
まっすぐに鍵盤を見つめた由衣は、譜面通りに——つまり、音を出さずに両手をそっと構えた。
ピアノのふたは開いている。だが鍵盤に触れず、彼女はゆっくりと、想像上の旋律をなぞり始めた。
(イントロ。四拍休符。まだ誰も知らない物語のはじまり)
手だけが、そっと動く。まるで空気にピアノを描くように。
ふいに、音楽室のドアが開いた。
入ってきたのは音楽教師・沢木だった。腕時計を確認しながら、「おはよう」とだけ言って、演奏を見ていた。
「……音、出てないね?」
その声に由衣はビクッと肩を震わせたが、すぐに深く頭を下げた。
「音は、心の中で出してます。だから、これは無音演奏です」
「……なるほど。じゃあ、譜面は?」
「白紙です。でも、提出します」
沢木は少し眉を寄せたが、怒りでも侮蔑でもない、困惑と戸惑いを混ぜた視線で、由衣の手元を見つめていた。
教卓の上に、点数シートと評価票が置かれていた。沢木はそれにペンを走らせ、ひとつひとつの欄を埋めていく。
完成度→「未提出扱い」
構成点→「判定不能」
成績加点→「対象外」
由衣の肩に、何か冷たい水がぽとりと落ちた気がした。だけど、次の欄を見て目を見開く。
表現力→「聴こえないのに伝わった」
独創性→「白紙の勇者」
「……先生?」
声が震えた。沢木は苦笑しながら答えた。
「私はね、由衣さん。昔、楽譜がない音楽に心を打たれたことがあるんだよ。『音を使わない演奏』は、それだけで反則って言う人もいる。でも、私にはちゃんと“演奏”だった。だから、点数じゃなく、言葉で評価した」
「でも……これ、成績にはならないですよね?」
「うん。でも、“記憶”にはなるよ。誰よりも鮮やかに、白いままで」
由衣の目に、涙がにじんだ。
点数をもらわなくても、存在を記憶される。
誰かに認められるだけでなく、誰かの中に“残る”。
それだけで、十分だった。
チャイムが鳴った。外から生徒たちのざわめきが聞こえる。日常が戻ってくる。
沢木は由衣の白紙譜面をそっと持ち上げ、「これは私が預かろう」と言って職員室へ向かった。
音楽室に再び静寂が訪れる。
でもそこは、無音ではなかった。
由衣の中で、確かにひとつの旋律が鳴っていた。
誰にも聞こえないけれど、自分にはわかる。勇気の音だった。
昼休み。
食堂の奥の隅、長机に教科書と筆箱を並べて黙々とお弁当を広げる由衣の姿を、萌美はすぐに見つけた。
「ここ、いい?」
お茶のボトルを手に、萌美が向かいに腰を下ろす。
由衣は箸を置いて、小さく頷いた。
「今日、ピアノ……弾いたんでしょ?」
問いかけに、由衣は驚いたように目を丸くする。
「どうして、知ってるの?」
「沢木先生が、音楽準備室で言ってた。“今日の由衣の音楽は、音がなかった”って」
萌美は、おにぎりを一口かじって、ゆっくり咀嚼しながら続けた。
「でも先生、笑ってた。“ちゃんと聴こえてきた”って」
由衣は俯いたまま、お弁当箱のすみの卵焼きを箸でつついた。
「わたし、点数……もらえなかった」
「それで?」
「だから、もう、意味ないのかなって」
ぽつりとこぼれたその言葉は、ふわりとした昼の空気に、痛々しいほど静かに響いた。
萌美は真っすぐに由衣を見つめ、少しだけ口を尖らせた。
「由衣は、“もらう”ことばっかり気にしてる。でもさ、自分から“渡す”ことって、すごく勇気いるんだよ」
「渡す?」
「白紙を渡すって、一番怖いことじゃない? “何もないです”って言ってるようで、本当は、“全部ここにある”って見せてるのと同じ」
由衣はその言葉に、少しだけ首をかしげる。
「……でも、私には何もないよ?」
萌美は目を細めて、やさしい笑みを浮かべた。
「じゃあ、その“何もない”って言葉を、誰かが必要とする時が来るかもね」
教室へ戻る道すがら、由衣は考えていた。
萌美の言葉が、胸の奥でリフレインする。
“何もない”は、欠けているんじゃなくて、選んだ余白なのかもしれない。
放課後。
昇降口に向かう途中、掲示板の前で立ち止まった生徒たちのざわめきが耳に届く。
「なにこれ……空白?」
「点数が……書いてない?」
由衣もそっとその輪の中に入ると、そこには掲示板の中央に貼られた、一枚のA3用紙。
真っ白。まるで大きな譜面のような、完全な白紙。
その左下に、小さな文字だけがあった。
《点数で何かを証明しなくても、誰かの記憶に残ることがある。
それを私は、音のない音楽で知りました。》
署名はない。
でも、誰の手によるものかは、周囲の何人かが察していた。
萌美がそっと由衣の肩を叩いた。
「由衣の“白紙”は、もう響いてるよ。ね」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
——白紙は、始まりの色。
だからきっと、まだ何も描いていないだけ。
「明日、もう一度ピアノを弾いてみる。今度は、音を出してもいいかな」
ぽつりと由衣が言うと、萌美は少し目を細めた。
「うん。聴きに行く」
歩き出した由衣の背中には、何も背負っていないようで、確かに何かを手にした誰かの歩き方があった。
その姿こそが——
まっさらな勇気そのものだった。
(第27話・完)



