校舎の屋上を見上げると、ちょうど図書室の奥から斜めに伸びた陽の筋が、二階の階段窓に掛かっていた。影は細く、けれど迷いなく一直線だった。
 その光の先にあるのは、図書室の最奥。古い百科事典が眠る棚のさらに奥、学年末の入れ替えで忘れられた参考資料が積まれる、半ば物置と化した区画だ。
 丈太郎は、そこの古机に向かっていた。
 鉛筆を走らせる手元に置かれたのは一枚の紙。そこには、どこかで見覚えのある枠組みが印刷されていた。
 ──チェックシート。だが、配布されたものとは違う。
 それは、灰色同盟のメンバー全員が、手探りでつくりはじめた「自己評価ワークシート」の原案だった。
「……えーっと、自分の“正しさ”を証明するために、他人の評価を利用していた節がある、か」
 自分で項目を読み上げ、自分で頷く。
 長い時間をかけて、ようやく辿り着いた“問い”だった。
 教室の評価軸、点数、偏差値、先生からの承認。すべてをいったん横に置き、ただ「自分がどうありたいか」を試す、ための下書きだった。
 その隣に、同じく古びた椅子に静かに座る泰輝が、黙って紙を眺めていた。
「……“君は、君自身を救う準備があるか”って、すごいな。これ」
 ぽつりと泰輝が言った。表情に変化はない。ただ、その声には微かな揺れがあった。
「うん。でも、これ、自分で作ったというより……たぶん、誰かの顔が浮かんだ結果なんだよね」
「誰の?」
 丈太郎は言葉に詰まり、少し笑った。
「……みんな、かな。優亜の無鉄砲も、宏美の見栄も、涼平の論理も、萌美の冷静さも……誰かの目線を借りてるんだ、たぶん、自分の輪郭って」
「自分一人で作れないのは、悪いことじゃない」
 泰輝は静かに言った。
「この項目、“誰の目線が自分を構成してるか”って欄、入れよう」
「おお……それ、絶対あった方がいい」
 書架の隙間から、光が差す。その光は、紙の上の黒鉛の線をやさしく照らした。影はさらに濃く、しかしあたたかく伸びた。
 その瞬間、丈太郎の手が止まった。
「なあ、泰輝」
「うん?」
「俺、点数がない世界、やっぱり少し怖いんだよな」
 言葉にした瞬間、胸の奥がざわついた。
「だって……曖昧だし、自分が間違ってる気もするし。でも、こうやって誰かと一緒に問いを考えると、“曖昧でもいいか”って思える。……それ、すごいことだよな」
 泰輝は、紙の上に視線を落としたまま、ぽつりと返す。
「それが……灰色ってやつかもな」
 丈太郎は、小さく頷き、また鉛筆を動かし始めた。



 陽の角度が変わるにつれ、机上の光もゆっくりと移動した。
 丈太郎は鉛筆を置き、一度深く息を吸った。図書室の奥は静まり返っており、二人の呼吸音が、紙を擦る音よりも際立って聞こえる。
 泰輝が背を伸ばし、腕を組んだ。
「点数じゃなく、“問い”を持ってるやつが残る。俺は、そういう社会のほうが強いと思ってる」
「問いかあ……」
「評価される側って、つい答えを出したくなるだろ。でも、その答えが用意されたものだったら、何も変わらない。問いが残る方が、ずっと面倒だけど、強いんだ」
 丈太郎は頷く代わりに、黙って「項目の追加」をメモに書き込んだ。
──【問いのストック】:最近、自分に浮かんだ「正しいかどうかではなく、気になっていること」
「じゃあさ」
 丈太郎は椅子から少し身を乗り出して言った。
「逆に“問いを持ってない時間”って、どう思う?」
「……ただ、休むべき時じゃない?」
 即答だった。丈太郎は少し驚いたように目を見開いた。
「……あ、なんかそれ、沁みた」
「丈太郎、お前さ、気を利かせすぎなんだよ。いろんな問いを背負いすぎて、答えを渡したくなって、でもそれが報われないと、“自分が間違ってる”って思うだろ」
「……」
「そんなときは、問いごと置いとけ。しんどい時に、自分の中から問いを搾り出す必要はない」
 丈太郎はうつむいた。
 泰輝の声は、静かだが力がある。聞き慣れているはずなのに、そのたびに胸の奥に届くのはなぜだろう。
「でも、俺……」
「知ってる。だから、ここでこうして“形にしてる”んだろ」
 丈太郎は、メモにある一文を見つめた。
──【他人からもらった問い】──
 その下に、「君は、君自身を救う準備があるか」と記してある。
「……これ、優亜が叫んだのが最初だった気がする」
「体育祭のときか」
「あのとき、何も考えてないように見えたのに、核心を突かれた気がして……怖かった」
「でも、ちゃんと響いてるだろ。だから、今お前の手の中にある」
 丈太郎は鉛筆を握り直した。
 質問のリストは、まだ白紙の部分が多い。けれどその余白が、かえって自由を感じさせた。
 思えば、“点数”はいつもすべての欄が埋まっていた。余白がなくて、息ができなかった。
 ──自由って、余白のことなんだな。
「泰輝、ありがとな」
「礼を言う相手、俺じゃない気がするけどな」
「……たぶん、全員、だな」
 微笑むと、図書室の入口に小さな気配がした。
 誰かの足音。パタンと閉じられる本の音。誰かが、何かを探している。
 丈太郎は紙をまとめて立ち上がった。
「よし。これ、みんなに渡す前に、もう一回、精査してくるわ」
「校舎裏のベンチにでも行くか?」
「いや……今日はもう一人で書きたいかも」
 泰輝は頷いた。
「必要になったら、声かけろ」
「うん」
 紙を胸に抱え、丈太郎は静かに図書室を後にした。
 窓から差す光が、彼の背に長い影を落とす。
 それは、確かに“悩んでいる人間”の影だった。だが同時に、“考え抜こうとする人間”の影でもあった。



 中庭を抜け、校舎裏の小道を歩く。夕陽のオレンジが芝の先端に反射して、丈太郎の視界に小さな金色の点がいくつも揺れていた。
 足元には影が二つ。ひとつは自分の、もうひとつは持ち歩く紙束のもの。
 ベンチに腰を下ろすと、冷たい風が頬をかすめた。春の手前にある、どこか冷たい空気。けれど、もう冬の冷たさではなかった。
「……春か」
 小さく呟いて、丈太郎は紙束を広げた。
 “自己評価ワーク”と題された紙には、たくさんの欄がある。だが、それぞれの項目の下には、回答欄だけでなく、「書かなくてもいい」「時間をかけて埋めてほしい」といった注釈が添えられている。
 ──書けないことも、問いの一部だ。
 それを忘れないように、丈太郎は最後の項目を追加した。
【最後の質問】
「今日、自分を少しでも大事にできた瞬間は?」
 何も書けない日があっても、それは生きた証だと、誰かに伝わればいい。
 ペンを置いて、空を見上げた。
 雲の切れ間に、淡い群青が浮かんでいた。まだ陽は落ちきっていない。
 そして、ふと、ポケットの中のスマホが震えた。メッセージが一通、届いている。
 ──From:萌美
 《教室で由衣が、丈太郎の「問い」、泣きながら読んでる。ありがとう、って言ってるよ》
 丈太郎は、スマホをそっと伏せた。
 言葉にはしなかったが、胸の内側に、ぬくもりのような何かが広がった。
 たった一人で考えた問いが、他人の涙になる。
 そのとき丈太郎は、気づいた。
 自分の言葉は、誰かを救おうとしなくてもいい。ただ、その人が「自分自身と向き合うきっかけ」になれたら、それでいい。
 ──点数は、救いにならない。でも、問いは、きっかけにはなる。
 ベンチを立ち、紙束を胸に抱き直す。影はさっきよりも濃く、長くなっていた。
 けれど、丈太郎の歩幅は、先ほどよりも確かだった。
 光のない午後にも、問いを灯して進むことはできる。
 ──それが、灰色を生きるということだ。
(第26話 了)