教室に入った瞬間、空気が凍っているのがわかった。窓の外は快晴なのに、ここだけ氷点下の空気に包まれている。優也は赤ペンを指に挟みながら、教壇の端に立った。ノートを閉じた生徒たちの顔はどこか警戒していて、まるでこれから始まるのが授業ではなく、処刑か何かだと言いたげだった。
 今日のホームルームは、いつもと違う。
「この前の模試、返却する。平均点は——五十八点。例年より七点、下がっている」
 静かな声が、チョークで書くよりも鋭く黒板を突き刺した。生徒たちの間に、ざわつきは起きなかった。ただ無音のまま、視線だけが一斉に下を向いた。
 優也はノートの束を片手で掲げると、机の列に沿って歩き出した。彼の足音はきっかり八歩ごとに曲がり、配り終えるたびにひとつ深呼吸をした。
 ノートの角に貼られた赤い付箋紙。そこには採点者の名と点数がある。それだけならまだいい。問題は、その右側に付けられた大きな赤文字だ。
——「努力不足」「要反省」「ここを直せ」
 見慣れた赤い言葉たちは、どこか説教臭く、そして何より、冷たかった。
 優也は自分の席に戻らず、黒板の前に立った。視線を、あえて全員の頭上に置くようにして口を開いた。
「この赤ペン、俺が引いた」
 ざわりと空気が揺れた。
「今までは、先生たちが採点してた。だけど今回だけは、俺が希望して、全員の答案を見た。——理由はひとつ。点数がすべてじゃないって、ずっと思ってたからだ」
 生徒たちの間に、微かな息の音が混ざる。
「でも、正直に言うと……この結果には、俺もがっかりした」
 あえて感情を押し殺すような口調。それが逆に、生徒たちの胸に引っかかる。
「がっかりしたのは、点数じゃない。ここに、誰一人として——自分の言葉がなかったことだ」
 黒板に、自分で描いた「問い」がある。——「今の社会において、必要なものとは何か?」
 答えは、どれも似通っていた。「情報」「技術」「コミュニケーション能力」——まるで模範解答集からコピーしたように。
 それに対して、赤ペンで容赦なく線を引いた。なぜそう思うのか、あなたの言葉で語ってほしかった——という優也のメッセージを、果たして何人が受け取ったのか。
「これから、同じ問題をもう一度配る。今度は——点数はつけない。代わりに、自分に向けたコメントをひとこと添えて提出してくれ」
 生徒たちの目が一斉に上がる。
「“点数がない”ってことは、“間違いがない”ってことじゃない。“自由”ってことでもない。だけど、“どう思ったか”を、自分で決めるってことだ」
 言い終えると、教室の奥で誰かが鉛筆を落とす小さな音がした。それが、静寂に亀裂を入れる。
 手を挙げたのは、教室の隅にいた女生徒だった。
「……それ、先生に怒られない?」
 声の主は宏美だった。いつもは外見に気を使い、授業中に発言などしない彼女が、迷いを押し殺すように口を開いていた。
 優也は少し笑って、答えた。
「怒られるかもしれない。でも——俺たちは、誰かの顔色より、自分の考えに責任を持つべきじゃないか?」
 宏美は、何か言いかけてやめた。彼女の爪先が机の下で動いたのが見えた。恐らくその小さな一歩が、彼女にとっては教室の壁を越えるくらいの大きさだった。
 優也は黒板の端を指さす。そこには小さく書いてあった。
——「点数より、問いの余白に心を」
 それを見た瞬間、教室の温度が、ほんの少しだけ上がった気がした。



 その日、霧山高校の三年生ホームルームには、誰一人として教科書を開かなかった。
 配られたのは、模試の解答用紙と、まっさらな一枚のルーズリーフ。真っ白なその紙に、「自分自身へのコメントを書いて提出」とだけある。点数欄には、赤い斜線が一本引かれていた。
 教室の空気は静かだった。しかし、ただの沈黙ではない。何かが育つ前の、土の中のざわめき。筆箱のチャックを開ける音や、紙をめくる音が、やけに大きく響いていた。
 優也は、配り終えたあと教室の後ろで立ち尽くしていた。赤ペンはすでに机の上に置いてある。もう、それで誰かを裁くことはない。今日の優也は、採点者ではなく、見届ける人だった。
 ——評価しない。だからこそ、向き合う。
 それが、優也なりの「青春への反抗」だった。
 しばらくして、最初に立ち上がったのは、泰輝だった。彼は無言で答案を持って前に来ると、優也の前にそっと置いた。
 その紙にはこう書いてあった。
「今日の答えは、昨日の僕じゃ書けなかった。そう思えただけで、価値はあった」
 優也は、思わず紙の端をそっと押さえた。何かがじんわりと胸の奥で広がっていく。
 次にやってきたのは宏美だった。彼女は答案を差し出しながら、ぽつりと言った。
「本当は、あの問題を“必要ない”って書こうとした。でも……“怖い”が先にきた。でも、それ書いた」
 受け取った紙には、
「今の社会に必要なのは、たぶん、“安全”。でもそれって、本音を隠すってことかも。……まだ自分でもよくわからない」
 そう記されていた。
 それが、どれほど彼女にとって勇気の要る選択だったか。優也は答えなかった。ただ、小さくうなずいて、受け取った。
 そのあとも、生徒たちは一人、また一人と立ち上がり、自分の紙を手に前に出てくる。そのすべてに、点数はない。ただ、「自分の声」が載っていた。
 ——評価のない場所で、人は初めて自由になる。
 教室の最後列。優也の視線が届くその端に、丈太郎と優亜が並んで座っていた。
 丈太郎は珍しく前髪が目にかかっている。手元にある紙に、まだ何も書いていない。迷っているようだった。
「なんかさ」
 隣の優亜がぼそっと言った。
「“点数をつけないこと”って、逃げだって言う人いるよね」
 丈太郎は顔を上げた。
「でも、それって逆じゃないかな。“点がつかない”って、誰にも褒められないってことだよ。自分で、自分を決めなきゃいけないってこと」
 優亜は、肩をすくめるようにして笑った。
「まあ、でも書くのは難しいけどさ。だから今、めっちゃ真剣」
 その言葉が、丈太郎の迷いをほどいた。
 彼はゆっくりとペンを取り、紙に書き始めた。
「今の社会に必要なもの——“わかんない”。でも、“わからない”って書けることが、必要なことかもしれない」
 そのあとに、小さく付け足した。
「今の俺には、それしか書けないから」
 ——それが今の丈太郎の、精一杯だった。
 そして、それでよかった。
 ホームルームの終わりのチャイムが鳴ったとき、優也の机の上には、色とりどりの“無点数”答案が積み上がっていた。
 赤ペンの出番は、もうなかった。
 けれどその代わりに、生徒たちの目の奥には、かすかな熱が宿っていた。
 評価ではなく、対話の種。それを残すことが、この日の“授業”だった。
 ——氷点下の空気が、すこしだけ春の匂いを含んだ気がした。
(第25話 了)