鏡が一枚、廊下に立てかけられていた。
 その鏡に、宏美は自分の姿を映した。ピンと伸びた背筋。きっちりまとめた前髪。スマホのカメラアプリで何度も調整したメイクが、蛍光灯の下では少し青白く見える。だが、それでも今日の自分は“見られる側”としての完成度が高いと、宏美は確信していた。
 しかし——その鏡のすぐ横には、小さな貼り紙があった。
《本日より校内での自撮り・写真撮影は禁止されます。違反者は減点対象です。生徒会より》
 貼り紙の角が風に揺れるたびに、宏美の胸の奥で何かがざらりと音を立てた。
 ——これは、宣戦布告だ。
 「減点って、何よそれ」
 宏美は小さく呟いた。だがその声は廊下に反響して思いのほか大きく返ってきた。
 スマホをポケットから取り出し、カメラを起動して鏡の自分を構図に収める。ほんの数日前までは、そんな行為に誰も文句は言わなかった。廊下だろうが階段だろうが、背景が映える場所であれば撮ってよかった。実際、校内SNS「キラメキ投稿板」は、毎日が“自分の見せ方大会”だった。
 それが急に「撮るな」だ。
 「だったら、写すわよ。見せたい自分は、見せて何が悪いの?」
 そう言って、宏美は廊下の中央に鏡を立て直した。そして、その前に堂々と立ち、自分の目線を鏡にぶつける。
 カシャ、とシャッター音が鳴ったわけではない。撮影はしない。あくまで「映す」だけだ。それだけでも、誰かがこの姿を見る可能性があるのなら、それでいい。宏美にとって、それが一種の抗議であり、また自分への確認でもあった。
 ——私は私。誰かの評価で、自分の“見た目”を抑え込まれてたまるもんですか。
 そのとき、背後から足音が近づいてきた。
 「宏美さん……何してるの?」
 声をかけてきたのは由衣だった。鏡に映る彼女の表情は、困惑というよりも純粋な疑問そのものだ。リュックから糸くずがぴょこっと飛び出していて、宏美は思わずそれを直してやりたくなった。
 「抗議よ。写真を禁止するって、おかしいじゃない?」
 「でも……点数のために加工して、誰かわかんないくらい盛る人もいたから……」
 「それは“盛る”人の問題でしょ。全部禁止って、ただの逃げよ」
 宏美の声が鋭くなる。だが、由衣は怯えずに一歩前に出た。
 「宏美さんは、見せることで自信が出るんだよね?」
 「……まあ、そうね。見た目で損したくないの。……違う、得したいの。ちゃんと手入れして、努力した結果を“見て”ほしい。人に評価されるためじゃない。私自身が、納得できるかどうかの話」
 由衣はその言葉に、ゆっくりと頷いた。
 「だったら、その姿、私が見る。今ここで」
 宏美は驚いて、思わず視線を上げた。
 「……え?」
 「私が“見る”から。宏美さんの“見せたい自分”を、私の目でちゃんと受け止めるから。だから今、鏡じゃなくて……こっち向いてくれる?」
 静かな言葉だった。押し付けがましくもなく、演説でもない。ただ、そこにあったのは——“誰かに見てほしかった”という、宏美の奥底にある本音を、まっすぐ受け止めてくれる態度だった。
 ——なんなのよ、この子……。
 心の中でそう呟きながら、宏美はゆっくりと鏡から顔をそらした。
 由衣の目は、真っ直ぐだった。光が強いわけでも、揺れているわけでもない。でも、見えた。そこに「評価」ではなく「理解」を向けようとしている視線があると、わかった。



 ほんの一瞬、宏美は鏡を見た。だが、すぐに視線を戻す。
 そこに立っているのは、何の飾り気もない——けれど、確かに宏美を見てくれる“他人”だった。
 「……これ、今朝ね。必死に巻いたの」
 宏美は髪先を指でつまむ。毛先がふわりと揺れて、バターみたいな香りがほのかに広がった。柔らかな朝の時間、窓辺で何度もコテを回したことを思い出す。手首が痛くなるくらい、納得いくまで巻いたのだ。
 「すごく、きれい。ふわってしてて、でもちゃんと収まってて……」
 由衣は目を細めて、それを見た。
 「ありがとう。でも……写真に残せないのって、やっぱり悔しい」
 宏美の唇が、ほんのわずかにゆがんだ。
 「見られることって、悪いことじゃない。私、昔はどんなに手入れしても、“誰も見てくれないなら意味がない”って思ってた。でも、今は少し違う。……“誰か一人でも、ちゃんと見てくれるなら、それでいい”って、そう思えるようになったの」
 「それ、すごいことだと思う」
 由衣の言葉は、相変わらず淡くて優しい。けれど、その奥にある芯はぶれなかった。
 「だから……今日、やることがあるの」
 宏美はそう言って、スカートのポケットから銀色の細いパネルを取り出した。光沢のある鏡面板。これは、彼女がホームセンターで自費購入したものだ。学校の鏡と違って、軽くて安全性が高く、しかも割れにくい。
 「“私”を見て、って叫ぶんじゃない。“ここにいるよ”って、静かに伝えるだけ。そんな空間を、作りたいの」
 「手伝う」
 由衣が即答した。
 ——やっぱり、そう言ってくれると思った。
 心の中で苦笑しながら、宏美は首をかしげた。
 「ほんとに、地味な作業よ? 壁にこれ貼ってくだけだし、地味な場所だし」
 「宏美さんが“ここ”って決めた場所なら、そこが一番目立つ場所になると思う」
 その一言で、宏美は頬の力が緩むのを感じた。
 午後、旧校舎の渡り廊下。そこは普段、誰も立ち寄らない影のような空間だった。
 でも今は違う。銀のパネルが何枚も連なり、曇り空を反射して微妙なグラデーションを描いている。どこかのインスタレーション展示みたいだった。
 由衣は丁寧にひとつずつ磨きながら、小さな声で言った。
 「このパネル、誰かが立つと……映るよね」
 「そう。写真じゃないけど、ちゃんと映る。“写す”のはカメラだけじゃない。見る人の目、想像、記憶。みんながそれぞれに残せるの。だから……この空間は、“自由に写っていい場所”」
 宏美は立ち止まり、ふっと息を吸う。
 「私は……“撮られたい”んじゃなくて、“残したい”んだと思う。ちゃんと、生きてる自分を」
 パネルの中の自分が、小さく笑っていた。
 それを見て、宏美はようやく心の底から笑った。
 「ねえ、由衣。この空間、名前つけようよ」
 「うん。……“リフレクト・スポット”とか、どう?」
 「いいじゃない。映して、写して、反射して。誰かの中に、ちゃんと残る場所」
 そのとき、背後から足音がした。
 数人の生徒たちが、パネルの間を通りかかる。そして、立ち止まった。
 「……なにこれ。自撮りできんじゃん」
 「でも、撮影は禁止だよ?」
 「いや、見るだけでも、映えるな……」
 誰かが小さく笑った。
 宏美は静かに、それを聞いていた。
 もう、撮影が禁止でも構わない。だって、ここには「見せたい自分」をちゃんと残せる場所がある。
 そして、見る人がいる。
 ——たとえ写真がなくても。誰かの記憶に残るなら、それで十分。
 光のない渡り廊下が、ほんの少しだけ輝いて見えた。

(第24話・完)