冬の中庭は、やけに広く感じる。校舎の影が白いタイルに長く伸び、乾いた北風が部活の掛け声をかき消していく。灰色同盟の十人が、ただの一筆のために、ここに集まっていた。
 「――ほんとに、やるの? これ」
 萌美が手にした色チョークを眺めながら、寒そうに指先を揉む。彼女の足元には、大きなスケッチボードと配色見本が並べられていた。鮮やかなオレンジ、深い紺、かすれた緑。けれど、この寒空の下では、どの色も心許なく見える。
 「やるしかない。視覚に訴えるって、涼平も言ってたろ」
 雅也が、パーカーのフードを被ったままタイルにチョークを押しつけ、ギリギリと擦る。線が音を立てて描かれるたび、空気が張りつめていくようだった。萌美はその様子を見つめながら、あえて小さくため息をついた。
 「でも、これ、あまりに……衝動的すぎるわ」
 「衝動でいいんだよ。あいつらが作った『青春偏差値』ってやつは、そうやって一人ずつの気持ちを無視してきた。だったら、俺たちは感情をぶつけてやる」
 そう言い切る雅也の声に、いつもは冷静な萌美も押し黙った。彼女はノートの端に描いていた構成案を破り、線の引き直しに取りかかる。無駄なく、効率よく、そして確実に。
 「だったら、せめて色は意味を持たせたい。闇雲に虹を描いても、届かない」
 「……意味なんて、後からついてくる」
 雅也は苦笑するように言ったが、次の瞬間、萌美の出したスケッチに目を留めた。線が交わる位置には、「枠」ではなく「拡がり」が意図されている。決して囲わず、あくまで開くデザイン。
 「これ、お前が考えたのか」
 「当然よ。私は、“何を描くか”のほうが大事だと思ってる」
 二人の会話は静かに交錯し、徐々に周囲のメンバーも集まってきた。
 「手伝うぞ。って言いたいけど、寒くてすでに死にそう」
 優亜が震える手でホッカイロを差し出す。丈太郎は、その横で慎重にペンキ用のラインテープを剥がしながら言った。
 「ここ、通路だからな。描いたあと数日は通行止めになるかも。先生にバレるリスクも上がる」
 「いいよ、バレても。バレた方が逆に宣伝になるし」
 宏美がポニーテールを揺らしながら、スマホのカメラで「Before写真」を撮っていた。冷たい風が髪を巻き上げるが、彼女は平気な顔でスマホをポケットに戻す。
 「やっぱ、目立つ色が中心?」
 由衣がそっとチョークを握る。萌美が一つ頷く。
 「ううん。最初は、灰色。そこから広がっていくグラデーション。『点数からの脱却』って、単色からの脱却でもあるから」
 「つまり……“塗る”のではなく“混ぜる”んだね」
 ほのかが空を見上げながら言った。白い雲の向こうに、やがて色が浮かぶように。
 「……で、結局走るの俺かよ!」
 雅也が叫んだ。配色されたチョークのラインを使い、実際に“走って”一気に校舎の壁面に描画する。冬の冷気が肺に刺さるが、それを忘れさせるように、仲間の声が背中を押す。
 「よーい、スタート!」
 優亜の号令と同時に、雅也は一歩を踏み出した。白い校舎の壁、そこに引かれた一本目のラインは、まっすぐ、そして迷いがなかった。


 雅也のスニーカーがコンクリートを蹴るたび、色が走る。チョークの粒が空気を裂いて舞い、線が壁を横断していく。赤、青、緑、紫、そして重なる灰色。壁一面に広がるのは、点数ではなく感情が走った証。
 「すご……」
 宏美が思わず息を呑んだ。無骨な男子の腕が、寒風を切って描いたのは、どこか繊細で、どこか衝動的な、線の集合体だった。
 「もう一回、東側から交差ライン引いて。今度は萌美のパターンで!」
 丈太郎が息を整えながら指示を飛ばす。萌美が用意した配色案のとおり、全員が役割に分かれて動き始めた。
 由衣がゆっくりと線の隙間に淡いトーンを加えていく。「一緒にやればできる」と言わんばかりに、周囲と合わせながら、丁寧に、慎重に。
 ほのかは手に色をつけ、直接指で模様を加え始めた。「こういうのって、感情を直にぶつけるのがいいの」と呟きながら、遊び心に満ちた曲線を描いていく。
 泰輝は、全体の構図を黙って見守っていたが、少しするとスプレー缶を手に取り、「安全上、人通りが増える前にここは完成させた方がいい」と静かに告げた。
 全員がその言葉にうなずき、再び動き出す。今だけは、点数も評価も関係ない。彼らの時間と手と体温が、壁に刻まれていく。
 ――そして。
 最後の一筆は、優亜だった。
 「任せた」
 萌美が色を選んだ。涼平が指で校舎壁の中心点を示した。優亜が無言でその場所へ歩くと、白く残された部分に、灰色の一文字を引いた。
 「なに、これ……?」
 宏美が眉を寄せたが、萌美は笑った。
 「“灰”って漢字じゃない。これは、“線の起点”よ。そこから色が生まれるって意味で、一本、だけ」
 「点じゃなくて、線から始めるってこと?」
 「うん。だって、私たちの青春は“混じり合って”る。ピンクとブルー、光と闇、強さと弱さ。全部の境界線が、ここから始まってる」
 静まり返る空気の中で、優亜が振り返った。口元に笑みを浮かべ、ひとことだけ言った。
 「……最高だな」
 そのときだった。職員室の方角から、スーツ姿の教師が数人、小走りでこちらに向かってきているのが見えた。
 「……やばい。逃げる?」
 宏美が言ったが、誰も動かない。
 「……いや、逃げない。俺ら、悪いことしてない。これは、自分たちの“今”を描いたんだ」
 丈太郎のその言葉に、全員が背筋を伸ばす。
 教師たちは厳しい表情で立ち止まり、完成した壁画を見上げる。その色と線に、何かを言いかけたが、言葉を選ぶように口を閉じた。
 「……後で、呼び出しかもな」
 涼平がぼそりと言うと、優亜が笑って答える。
 「上等だろ。“灰色上等”って、私たちが言ったんだし」
 冬の寒風が吹き抜ける中、壁に刻まれたラインが、午後の陽に照らされて少しだけ輝いていた。それはまだ未完成なままだったが、誰にも消せない“色のはじまり”だった。
 誰かの評価でも、点数でもない。
 自分たちの青春に、自分たちの手で、最初の色を塗った。
(第23話「寒風のチョーク戦」完)