夜の校舎には、不思議な種類の静けさがある。照明が落ちた廊下は暗く、どこかで水滴の落ちる音が響いている。誰もいないはずの空間に、息を潜めて歩くと、自分の足音さえ不法侵入者のように思える。
 そんな中、旧校舎の二階、閉鎖されたままの美術室前に二人の人影があった。
「まさか、ほんとに来るとは思わなかった」
 低く笑いながら言ったのは泰輝だ。リュックを背負い、右手には懐中電灯を持っている。廊下の壁を照らすと、そこにいたのは由衣。手には画材の入った袋を持っていた。
「……やるって言ったから」
 由衣の返事は相変わらず小さく、それでも迷いはなかった。
 〈灰色同盟〉の提案で、校舎に少しでも「個の色」を残すために、夜の黒板アート計画が立ち上がったのは先週のことだった。放課後の美術室使用は禁止。ならば、誰もいない夜に“秘密の展示”を完成させるほかない。
 「廊下でやるより、ここがいいと思ったんだ」
 泰輝が開錠したのは、旧校舎の奥、美術準備室の隣にある小さな教室だった。ほこりっぽい空気の中、二人は静かに窓を開け、月明かりを引き込んだ。 
 由衣は壁沿いの黒板に歩み寄り、触れた指先を見つめた。少しだけチョークの粉がつく。
「この黒、好きかも」
「……らしいな。無地のままも、完成の一つだからな」
 泰輝の声に、由衣は小さく笑った。
 ペンキではなく、チョークアート。それも、朝のチャイムと同時にすべて吹き飛ばされる一夜限りのもの。
 「だからこそ、残るんだよ」と、彼女は心の中でつぶやく。
 机をすべて後ろに寄せてスペースを空け、黒板の前に立つ。
「じゃあ、始めようか」
「合図いる?」
「いらない。描きたいものが、あるから」
 泰輝は懐中電灯を天井に向けて立て、即席のライト代わりにした。薄明かりの中、由衣がバッグからチョークを取り出す。色は、淡いグレーと青、それから、くすんだ金。
 一筆目を置いた瞬間、音はなかったが空気が震えたように感じた。黒板に現れたのは、灰色の街並みに差し込む一本の光。それはまるで、夜明けの道標のようだった。
 由衣は迷わない。普段のように、誰かの背中に隠れている彼女ではなかった。黒のキャンバスに、彼女は自分の意思を投げつけていた。



 泰輝は、チョークの粉が空中に舞うのを見ていた。由衣の背中は小さくても、手はぶれずにまっすぐだった。描いているのは、ただの建物ではない。彼女がずっと“色”を感じた場所たち――校舎の裏庭、図書室の窓辺、体育館の入り口。
 それらが、どれも“今のままじゃ見過ごされる”空間であることに、彼は気づいていた。
「由衣。おまえ、こういうのずっと考えてたの?」
「うん。……うまく言えないけど……わたしが覚えてる場所って、どれも“点数”の外側にあるんだよね」
 彼女の声は柔らかくて、それでいて芯があった。
「キラメキチェックシートには、書けなかった」
 黙っていた泰輝が、ふっと笑った。
「……俺もだ。書いたことない。“誰かといることで前に進めた”なんて、数字になんかできない」
 チョークが折れる音がした。由衣は少し眉をひそめたが、折れた欠片を拾い、また描きはじめた。全体像はまだ不明だったが、輪郭が重なり、黒板の隅からじわじわと“灯り”のようなものが広がっていった。
「朝、みんなに見てもらいたい」
「そのために俺が来た」
 泰輝はリュックからミニ脚立とカメラを取り出した。設置された三脚にタイマーを仕込み、黒板全体をタイムラプスで記録する。映像として残るのは、彼の提案だった。
「でも……映像は残せても、粉は消える」
 由衣はそう呟いた。
 泰輝はうなずく。
「残らなくていい。……消えることを恐れずに、何かを描くって、たぶん“青春”ってやつだ」
 彼女が手を止めて振り返った。初めて見る顔だった。あの由衣が、自分の描いた世界を見て笑っていた。まるで、描いたものよりも自分の手を信じられるようになったみたいに。
 窓の外で、空が白みはじめた。
「由衣、あと十五分だ」
「うん。急ぐ。でも、雑にはしない」
 彼女の目が光る。白チョークで最後に線を加えたのは、中央の塔の頂点。そこにだけ、淡い虹がかかっていた。
 灰色から始まる物語。その一夜限りの展示が、校舎に静かに灯った。
(End)