昼休みの校舎一階、職員室のドアの前。涼平は、左手の親指で紙の角を何度も弾いていた。白い封筒に収められたそれは、確かな証拠であり、誰かにとっての致命傷になる可能性もある。だが、握り締めたまま、彼は動けなかった。
職員室の窓越しには、教員たちの雑談と書類の音。笑い声に混じって聞こえる「偏差値」「提出率」「加点項目」――その一つひとつが、涼平の背中に針のように突き刺さる。
優也が来たのは、そんな沈黙の中だった。
「止めるなら今しかないぞ」
唐突な低音。振り向くと、制服の襟元をきっちり締めた優也が、ドア横の消火栓に寄りかかっていた。足元にはペットボトルと、開けかけの弁当箱。昼食を中断して来たのだろう。
「俺が何をするか、わかってるのか」
涼平の問いかけに、優也は小さく頷く。
「点数シートの改竄疑惑、だろ。生徒個人の評価が、内部で操作されていた。それを証明する資料……それがその封筒か」
返答は淡々としているが、その目は涼平の拳を見つめていた。震えていたのだ。彼自身が、知らずに。
「確かなのか?」
「……三件。全員、灰色同盟のメンバー。しかもタイミングが不自然すぎる」
涼平は懐からもう一枚の紙を出す。表計算ソフトをプリントアウトした一覧表。提出日、点数、備考欄。その中に、異様な傾向があった。
「この三人、前日まで点数が平均以下だったのに、ある日を境にいきなり十点以上の加点が入ってる。それも、提出物もないのに」
「その“ある日”ってのが、俺たちが体育祭で横断幕を出した次の日ってわけか」
優也が口の端を引き上げる。笑いというより、皮肉に近い。
「つまり、“見せしめ”だ。上げておいて、あとで落とす。点数操作が可能だと生徒に気づかせないように、一時的に吊り上げる――そしてまた『真面目にやらなきゃ』と思わせるように」
「教師が? まさか」
「いや、わからない。操作したのが教師とは限らない。事務職員か、もしくは……AI入力支援システム側の仕様かもしれない。だが、それが“意図的”だった場合、話は違う」
言葉が宙で止まった。
涼平は唾を飲み込むように息を吸い、口を引き結ぶ。
「だから、確かめたいんだ。――正面から」
「正面ってのは、“これ”を見せて問いただすって意味か?」
「……ああ。公開でな」
涼平の目が、力強さを取り戻していた。
「視聴覚室。金曜の放課後。校長には“再検討会”とだけ伝える。正式な会議形式で、俺たちが“質問”する側に立つ」
優也は、しばし黙っていた。眉間にわずかな皺を寄せ、何かを天秤にかけている様子。だが、やがて彼は涼平の肩に手を置いた。
「――わかった。お前が出るなら、俺も出る」
それは、灰色同盟の言葉だった。
放課後の視聴覚室には、異様な空気が流れていた。
ホワイトボードの前に立つのは涼平。そしてその隣には、腕を組んでやや後方に構える優也。教員側は教務主任の藤原、情報科の三宅、そして校長代理として教頭の中嶋が出席。普段は静かな視聴覚室に、プロジェクターの冷却音だけが響く。
「今回の再検討会は、学内のデータ処理に関する質問と意見交換を目的としています」
教頭の前置きのあと、涼平が一礼して前に出た。手元のリモコンでスライドが切り替わる。画面には三枚のシート画像――各生徒の“キラメキチェックシート”の点数履歴だ。
「ご覧ください。これは、ある三名の生徒におけるここ三か月のシート得点推移です。いずれも、体育祭前後で急激な点数変動が見られます」
スクリーンの横に、棒グラフと日付表が並んでいく。
「ご指摘の意図がわかりかねますが、点数は提出物や活動参加によって変動するものです」
三宅が眉を上げて割り込む。だが、涼平は即座に応じた。
「その点については、各生徒の提出記録と照合済みです。三名ともにその期間、特別な課題提出やイベント参加はありませんでした」
「偶然の一致とは考えられませんか?」
今度は藤原が静かに口を開く。
「偶然にしては出来すぎです」
優也がその場で立ち上がった。
「なぜなら、その“上昇”のあとの“下降”がさらに異常だからです。上がった点数は二週間後にまた落とされている。つまり、加点も減点も“操作”できるってことを意味するんです」
「そのような操作は、原則としてシステム外部からは不可能です」
教頭が断言する。しかしその言葉に、涼平はにじり寄るように声を重ねた。
「では、内部の人間が関わった可能性については? 教職員アカウントでログインし、改竄した記録は、ログに残りますか?」
一瞬、空気が凍った。教頭がわずかに眼鏡を押し上げ、唇を引き結ぶ。
「……確認は、可能です。ただし、生徒からの要請で監査ログを開示することは、本来の手続き上、特例にあたります」
「本件が特例ではないと言い切れる根拠があるのなら、どうかご提示ください」
涼平の言葉に、誰も返せなかった。
沈黙。
その沈黙を破ったのは、傍観者だったはずの三宅だった。
「私の方で、初期設定に関する技術的なミスがないか調査します。――正直、君たちの指摘はかなり鋭い」
「三宅先生……」
「誤解しないでくれ。私は制度の信奉者じゃない。ただ、生徒が自分の力で制度の矛盾を突く――それ自体は、俺は嫌いじゃない」
淡々とした声の中に、微かな笑みがあった。
涼平は、ゆっくりと呼吸を整えた。
全員の視線が彼に向いている。いや、彼の後ろ――その背後に立つ、同盟十人の“無言の信頼”に。
ここが、正念場だった。
翌週――。
月曜の朝、職員室の奥にある校務データ室にて。壁一面に設置されたログ監視用のモニターに、教頭と三宅、そして校長が揃っていた。画面には、点数データ管理ソフトのアクセス履歴が、分単位で流れていく。
「……ここです」
三宅がマウスを止める。とあるアカウントが、午後六時過ぎに“涼平”“萌美”“泰輝”のデータへアクセスしたログが記録されていた。しかも、同じ端末で、連続して三件。
教頭が顔をしかめた。
「教員用アカウントですが……この時間、該当教員は会議に出ていたはずだ」
校長は無言で指を組み、画面を凝視した。やがて、かすかに頷く。
「再発防止のため、入力権限の見直しと、アクセスログの外部監査を入れる。……その方針で進めよう」
三宅はため息交じりに頷き、静かにモニターを閉じた。
――そして、同じ頃。
視聴覚室では、涼平と優也、丈太郎、由衣の四人が、机を囲んでいた。手元には、生徒会発行のプリント案。そこには、こう記されていた。
《点数制度の信頼性に関する精査と改善のため、各クラスから一名、自由参加の再検討会を設けます。》
「俺らの言葉が、校内に届いたってことか」
丈太郎がぽつりとつぶやく。
涼平は、小さく笑った。
「まだ“届いた”とは言えないさ。けど……“無視はされなかった”」
優也が、椅子の背に手をかけて立ち上がる。
「なら、次は“見せる”番だ。制度が間違ってるんじゃなくて、制度の“使い方”に意思があるってことをな」
「私も、“見た目”で評価されない世界を、ちゃんと作りたい」
由衣が、いつになく強い声で言った。
そのとき、涼平は確信した。これは、ただの“改竄騒動”ではない。制度の裏側にあった、目に見えない“支配”に、風穴を開けた出来事だったのだと。
封筒に詰めた“証拠”は、ただの紙に過ぎなかった。けれど、あの日、自分があの職員室前で立ち止まった時間――その震えまでを含めて、あれが確かに“はじまり”だったのだ。
全員が席を立ち、教室へ戻る。
廊下の窓から差し込む春の光。そこに、淡く灰色の埃が舞っていた。
けれど、もう誰も、それを“濁り”とは呼ばない。
それは――自分たちが進もうとする道に、確かに差し込んだ“問いの光”だった。
(第18話「シート改竄疑惑」完)
職員室の窓越しには、教員たちの雑談と書類の音。笑い声に混じって聞こえる「偏差値」「提出率」「加点項目」――その一つひとつが、涼平の背中に針のように突き刺さる。
優也が来たのは、そんな沈黙の中だった。
「止めるなら今しかないぞ」
唐突な低音。振り向くと、制服の襟元をきっちり締めた優也が、ドア横の消火栓に寄りかかっていた。足元にはペットボトルと、開けかけの弁当箱。昼食を中断して来たのだろう。
「俺が何をするか、わかってるのか」
涼平の問いかけに、優也は小さく頷く。
「点数シートの改竄疑惑、だろ。生徒個人の評価が、内部で操作されていた。それを証明する資料……それがその封筒か」
返答は淡々としているが、その目は涼平の拳を見つめていた。震えていたのだ。彼自身が、知らずに。
「確かなのか?」
「……三件。全員、灰色同盟のメンバー。しかもタイミングが不自然すぎる」
涼平は懐からもう一枚の紙を出す。表計算ソフトをプリントアウトした一覧表。提出日、点数、備考欄。その中に、異様な傾向があった。
「この三人、前日まで点数が平均以下だったのに、ある日を境にいきなり十点以上の加点が入ってる。それも、提出物もないのに」
「その“ある日”ってのが、俺たちが体育祭で横断幕を出した次の日ってわけか」
優也が口の端を引き上げる。笑いというより、皮肉に近い。
「つまり、“見せしめ”だ。上げておいて、あとで落とす。点数操作が可能だと生徒に気づかせないように、一時的に吊り上げる――そしてまた『真面目にやらなきゃ』と思わせるように」
「教師が? まさか」
「いや、わからない。操作したのが教師とは限らない。事務職員か、もしくは……AI入力支援システム側の仕様かもしれない。だが、それが“意図的”だった場合、話は違う」
言葉が宙で止まった。
涼平は唾を飲み込むように息を吸い、口を引き結ぶ。
「だから、確かめたいんだ。――正面から」
「正面ってのは、“これ”を見せて問いただすって意味か?」
「……ああ。公開でな」
涼平の目が、力強さを取り戻していた。
「視聴覚室。金曜の放課後。校長には“再検討会”とだけ伝える。正式な会議形式で、俺たちが“質問”する側に立つ」
優也は、しばし黙っていた。眉間にわずかな皺を寄せ、何かを天秤にかけている様子。だが、やがて彼は涼平の肩に手を置いた。
「――わかった。お前が出るなら、俺も出る」
それは、灰色同盟の言葉だった。
放課後の視聴覚室には、異様な空気が流れていた。
ホワイトボードの前に立つのは涼平。そしてその隣には、腕を組んでやや後方に構える優也。教員側は教務主任の藤原、情報科の三宅、そして校長代理として教頭の中嶋が出席。普段は静かな視聴覚室に、プロジェクターの冷却音だけが響く。
「今回の再検討会は、学内のデータ処理に関する質問と意見交換を目的としています」
教頭の前置きのあと、涼平が一礼して前に出た。手元のリモコンでスライドが切り替わる。画面には三枚のシート画像――各生徒の“キラメキチェックシート”の点数履歴だ。
「ご覧ください。これは、ある三名の生徒におけるここ三か月のシート得点推移です。いずれも、体育祭前後で急激な点数変動が見られます」
スクリーンの横に、棒グラフと日付表が並んでいく。
「ご指摘の意図がわかりかねますが、点数は提出物や活動参加によって変動するものです」
三宅が眉を上げて割り込む。だが、涼平は即座に応じた。
「その点については、各生徒の提出記録と照合済みです。三名ともにその期間、特別な課題提出やイベント参加はありませんでした」
「偶然の一致とは考えられませんか?」
今度は藤原が静かに口を開く。
「偶然にしては出来すぎです」
優也がその場で立ち上がった。
「なぜなら、その“上昇”のあとの“下降”がさらに異常だからです。上がった点数は二週間後にまた落とされている。つまり、加点も減点も“操作”できるってことを意味するんです」
「そのような操作は、原則としてシステム外部からは不可能です」
教頭が断言する。しかしその言葉に、涼平はにじり寄るように声を重ねた。
「では、内部の人間が関わった可能性については? 教職員アカウントでログインし、改竄した記録は、ログに残りますか?」
一瞬、空気が凍った。教頭がわずかに眼鏡を押し上げ、唇を引き結ぶ。
「……確認は、可能です。ただし、生徒からの要請で監査ログを開示することは、本来の手続き上、特例にあたります」
「本件が特例ではないと言い切れる根拠があるのなら、どうかご提示ください」
涼平の言葉に、誰も返せなかった。
沈黙。
その沈黙を破ったのは、傍観者だったはずの三宅だった。
「私の方で、初期設定に関する技術的なミスがないか調査します。――正直、君たちの指摘はかなり鋭い」
「三宅先生……」
「誤解しないでくれ。私は制度の信奉者じゃない。ただ、生徒が自分の力で制度の矛盾を突く――それ自体は、俺は嫌いじゃない」
淡々とした声の中に、微かな笑みがあった。
涼平は、ゆっくりと呼吸を整えた。
全員の視線が彼に向いている。いや、彼の後ろ――その背後に立つ、同盟十人の“無言の信頼”に。
ここが、正念場だった。
翌週――。
月曜の朝、職員室の奥にある校務データ室にて。壁一面に設置されたログ監視用のモニターに、教頭と三宅、そして校長が揃っていた。画面には、点数データ管理ソフトのアクセス履歴が、分単位で流れていく。
「……ここです」
三宅がマウスを止める。とあるアカウントが、午後六時過ぎに“涼平”“萌美”“泰輝”のデータへアクセスしたログが記録されていた。しかも、同じ端末で、連続して三件。
教頭が顔をしかめた。
「教員用アカウントですが……この時間、該当教員は会議に出ていたはずだ」
校長は無言で指を組み、画面を凝視した。やがて、かすかに頷く。
「再発防止のため、入力権限の見直しと、アクセスログの外部監査を入れる。……その方針で進めよう」
三宅はため息交じりに頷き、静かにモニターを閉じた。
――そして、同じ頃。
視聴覚室では、涼平と優也、丈太郎、由衣の四人が、机を囲んでいた。手元には、生徒会発行のプリント案。そこには、こう記されていた。
《点数制度の信頼性に関する精査と改善のため、各クラスから一名、自由参加の再検討会を設けます。》
「俺らの言葉が、校内に届いたってことか」
丈太郎がぽつりとつぶやく。
涼平は、小さく笑った。
「まだ“届いた”とは言えないさ。けど……“無視はされなかった”」
優也が、椅子の背に手をかけて立ち上がる。
「なら、次は“見せる”番だ。制度が間違ってるんじゃなくて、制度の“使い方”に意思があるってことをな」
「私も、“見た目”で評価されない世界を、ちゃんと作りたい」
由衣が、いつになく強い声で言った。
そのとき、涼平は確信した。これは、ただの“改竄騒動”ではない。制度の裏側にあった、目に見えない“支配”に、風穴を開けた出来事だったのだと。
封筒に詰めた“証拠”は、ただの紙に過ぎなかった。けれど、あの日、自分があの職員室前で立ち止まった時間――その震えまでを含めて、あれが確かに“はじまり”だったのだ。
全員が席を立ち、教室へ戻る。
廊下の窓から差し込む春の光。そこに、淡く灰色の埃が舞っていた。
けれど、もう誰も、それを“濁り”とは呼ばない。
それは――自分たちが進もうとする道に、確かに差し込んだ“問いの光”だった。
(第18話「シート改竄疑惑」完)



