屋上の鍵を開ける音が、校舎の静寂を裂いた。
 晩秋の夜、吹き上がる風はすでに冬のにおいを含んでいる。夜間警備の見回りをやりすごし、雅也は薄手のフードを深くかぶったまま階段を上がった。両手には段ボールで補強した紙袋。中には布ガムテープと黒いロウソク、懐中電灯が数本。演劇部の備品倉庫から、ギリギリばれない範囲でくすねてきた。
「ほんとにやるんだ……」
 萌美の声は、すでに屋上にいたことを示していた。
 彼女は防寒用のマフラーを首に巻き、コードを束ねた照明スタンドを持ち込んでいる。スイッチを入れれば、即席の舞台照明になるはずだ。だけど、その電源コードは繋がれていない。屋上には電源タップもない。つまりこれは――
「……電気、使わないんだよな?」
「そう。全部、光源は自然の範囲で」
 萌美は頷いた。手には持ち込んだロウソクが数本。壁に設けられた縁のスペースに一本ずつ立て、風よけの空き瓶で囲って火を灯していく。
「台詞はなし。物音もなるべく立てない。点数も、評価も、誰の拍手もない……それでも、届けるものがあるって、証明したいんでしょ?」
 雅也は黙って、紙袋から無地のマントを引き出すと、肩にかけた。
 それは灰色のスウェットを何枚か裂いて縫い合わせたものだった。原色を避け、布の質感もバラバラ。きっちり縫い揃えるのは避けたという。
「『無音劇』って名前だけど、俺たち、演劇部でもなけりゃ、音響でもないんだよな」
「そういうの、全部捨てるのが今日でしょ」
 萌美の口調は、冷静だがどこか高揚していた。
 昨夜、突然届いた雅也からのLINEにはたった一言「劇をやる」とだけ書かれていた。場所も、時刻も、内容もなかった。ただ、それだけの文に彼の切羽詰まった何かを感じ取って、萌美は電源コードをリュックに詰めていた。あの文が冗談であったとしても、きっとこの冬、何かを残す気だったに違いないと、そう信じて。
 雅也が黒い紙のようなものを広げ始める。いくつかの破られた台本のページ。脚本らしい場面指示や登場人物名の記載が、鉛筆で殴り書きされた跡がある。
「俺、台本書いたことなかった。でも、やってみたら……気づいた。誰かに評価されるために、書いてるって」
 その言葉は、風にかき消されそうだった。
 萌美は黙って、それらを受け取ると、そっと破りはじめた。ページを一枚ずつ裂きながら、雅也に視線を向ける。
 何も言わずに、彼も同じ動作を始めた。
 静かに、ゆっくりと、破られる台本。その音さえ、夜の帳に吸い込まれる。破片は風に乗って舞い、屋上から降りていった。

 照明がついた。
 萌美がライターでロウソクに火を灯すと、校舎屋上に、オレンジ色の揺らぎが生まれた。風に煽られないよう瓶のなかで揺れる小さな火。炎が、雅也のマントに当たって布の凹凸を浮き上がらせる。表情は見えないが、彼の呼吸のリズムが変わったのを萌美は感じ取った。
 演技が始まる。
 台詞はない。動きだけだ。雅也は両手を広げ、月光の下を歩く。重たい足取り。何かを引きずっているようにも見えた。途中、壁際でしゃがみこみ、掌で地面をこする。そのまま、立ち上がれない。
 萌美は一歩、後ろに下がると、照明の角度を微調整した。光を向けるというより、影を際立たせるように。彼の表情ではなく、姿勢の傾きに、葛藤の輪郭を宿すように。
 雅也は、ふと空を仰いだ。
 見上げたその視線の先には、校舎を囲む高い柵。
 手を伸ばす――届かない。踏み台もない。柵の向こう側を指差す。あそこに「何か」があるらしい。
 萌美の指先が、準備していた手のひらサイズの反射板を動かす。月光を微妙に反射させ、柵の先に光が走る。ほんの一瞬だけ。
 雅也が走る。柵にぶつかる。全身で何度も体当たりする。だが、静かに崩れる。
 まるで、誰にも聞こえない叫びを、誰かに伝えようとしたようだった。
 次の瞬間、雅也は地面に手を伸ばし、小石を拾う仕草をした。手を大きく振り上げ、見えない壁にそれをぶつけるような演技。
 跳ね返される。そのまま手を抱える。傷ついたことを、言葉なしで演じる。
 だが――
 再び立ち上がる。今度は足元のマントを脱ぎ、丸めて投げた。それもまた、柵を越えることはできない。けれど、彼は前を向いたまま動きを止めない。
 萌美が最後の一本のロウソクに火を灯す。
 その瞬間、雅也は膝を突き、床に何かを描き始めた。人差し指で、コンクリートの上をなぞる。
 見えない文字。誰にも読めないはずの言葉。
 それでも、萌美にはわかった。
 ――「ここにいる」
 それだけだった。

 演技は、突然終わった。
 雅也が照明に背を向け、階段側に歩き出す。萌美はその背を追いかけず、しばらく動かなかった。
 その場の空気が、確かに何かを刻んだのを感じていた。
 拍手もなければ、誰も感想をくれない。録画もしていないし、観客もいない。いや――もしかすると、どこかの窓から、誰かが見ていたかもしれない。けれど、それもどうでもよかった。
 萌美は残されたロウソクを順に吹き消していった。
 一つ、また一つ、闇に溶ける炎。
 最後の一本に口を近づけたとき、背後で小さな声がした。
「……ありがとうな」
 雅也だった。階段の入口に立ち、振り返らずに言った。
「誰にも言えなかったこと、言えた気がする。声を使わずに」
 萌美はうなずいた。その声は届かなかったかもしれないが、たぶん、彼には伝わった。
 ふたりは、夜の屋上からゆっくりと姿を消していった。
 点数も評価もない世界。
 それでも、何かが確かに生まれた。
 ――無音の舞台で、灰色の叫びが、月に届いた夜だった。
(第17話「月下の無音劇」完)