月曜の五時間目、美術室。教卓にどん、と置かれたスケッチブックと水彩セット。
中島先生がチョークで黒板に「課題:自分の“内面”を色で描く」と書きながら、言った。
「今日は“写生”ではなく、“想像”です。心の中の風景を、キャンバスに」
静かな美術室の空気が、わずかに揺れる。
ほのかは、後ろの窓際の席でひとつ深く息を吐いた。机の上にはまっさらなスケッチブック。筆はある。絵具もそろっている。けれど、彼女の手は動かなかった。
隣の席では、由衣が静かにパレットを広げている。彼女は絵が得意だというわけではないが、“やり方がわかる人”だった。几帳面に水入れを整え、筆の毛先をくるくると馴染ませている。
「……ほのか、最初、どうする?」
由衣が声をかけた。ほのかは、ほんのわずか口元をゆるめて答える。
「うーん。まず空を描こうかな。水色で、でっかいやつ。空想って、やっぱ空から降ってくる感じするし」
「うん、それ、わかるかも」
二人の前に広がるキャンバスには、まだ何も描かれていない。けれど、心の中ではもう、いくつものイメージが浮かび始めていた。
「でも……」
ほのかは水色のチューブをにゅるりとパレットに絞り出しながら、ぽつりと言った。
「これ、ほんとの私なのかなって、ちょっと迷う」
由衣は筆を止めて、隣を見る。
「空想してるときの私って、なんか……“強い”じゃん? “想像上では何にでもなれる”っていうか。大空も飛べるし、魔法も使えるし、言いたいことも全部言える。……でも、それって、“本当の私”なんかなって思ったら、手が止まっちゃった」
「……本当って、なに?」
その問いかけは、意外なほど、鋭かった。由衣は、ほのかの顔をじっと見た。
「空想してるときのほのかも、怖くて描けないときのほのかも、どっちも“ほんと”じゃないの?」
「え」
「だって、私はそのどっちのほのかも、知ってるし。嘘じゃない。だから、どっちも“いる”でいいじゃん」
由衣の声は淡々としていたが、芯が通っていた。
ほのかは、ぽかんとしたあと、ふっと笑った。
「……やば、涙出そう。由衣って、たまに刺さること言うよね」
「たまに、ってなに」
「ほめてんの」
二人は小さく笑い合った。
その瞬間、スケッチブックが、まるで“描いていいよ”と言ってくれてるように見えた。
ほのかは、水色を筆に含ませ、大胆に白紙の中央に一筆を走らせる。空の色、夢の始まり。
隣で由衣も、淡いピンクを混ぜ始めた。由衣の色は、どこか透明感があって、優しくて、それでいて確かだった。
教室の中で、他の生徒たちはそれぞれに筆を動かしていた。ざわつきはない。ただ静かに、心の音がスケッチブックへ落ちていく時間。
「ね、ほのか」
「ん」
「私、強い色はあんまり使えないんだけど……薄い色を何枚も重ねてみたいんだ。うまくいかなくても、少しずつ変えていく感じ」
「いいじゃん、それ。すっごく“由衣”っぽい」
「ありがとう。でも……一緒に重ねたら、どうなるんだろうって、思ったの」
由衣は自分のスケッチブックから目を離し、ほのかのキャンバスを覗き込んだ。
「私の色と、ほのかの色。並べるんじゃなくて、透けさせて重ねたら、どんな絵になるかな」
ほのかは、息を飲んだ。
「……それ、めっちゃ良い。やろうよ、それ。半透明の紙、先生にあるか聞いてみる!」
椅子から立ち上がると同時に、まるで何かの迷いを脱ぎ捨てたように軽やかだった。
由衣はそんなほのかの背中を見つめながら、自分の心もすっと軽くなるのを感じていた。
「先生、トレーシングペーパーありますか? ……あ、半透明の紙でもいいです!」
そう言ってほのかは、前の棚を覗き込みながら声をかけた。中島先生は少し驚いた顔で振り返る。
「珍しいな、星野さんがそんな積極的に質問に来るなんて」
「えっ、そうですか?」
「うん、いつもは静かに、自分の世界で描いてる感じだったから」
「あ、そっか……でも、今日はちょっと、やってみたいことがあって」
ほのかは笑った。にっこりと。
先生は棚の中をごそごそ探して、何枚かの薄い紙を取り出した。
「これならあるよ。少し厚手だけど、色は重ねられるはずだ」
「ありがとうございます!」
その手を持って席に戻ると、由衣がパレットに新しい色を出して待っていた。
「できた?」
「うん。先生、協力的だった。ちょっとびっくりした」
「ふふ、先生、意外と優しいから」
二人はスケッチブックを並べるのではなく、各自の絵を描き終えてから紙を重ねる計画を立てた。
ほのかは、空の下に紫の山を描き、その上にオレンジの浮遊する家を加えた。「想像上の隠れ家」らしい。どこかで見たことがあるようで、でも絶対に現実には存在しない景色。
由衣は、淡いピンクとグレーを滲ませた湖のような背景に、小さな黒い線で“何か”を描き続けていた。
「それ、なに描いてるの?」
ほのかが聞くと、由衣は一瞬だけ黙って、照れくさそうに答えた。
「心臓のかたち……じゃなくて、心音、かな。拍動のイメージ」
「すごい……音を絵にできるんだ」
「いや、全然……でも、色で感情を描くって、こういうことかなって思って」
描かれた線はとても細く、震えるように規則的で、それでいてどこか頼りなさげだった。
でも確かに、見ていると“聞こえて”くるような気がする。
チャイムが鳴り、五時間目が終わる。
「……そろそろ重ねてみる?」
ほのかが、少し息を呑むようにして言った。
由衣も、目を閉じて一度深呼吸してから、うなずく。
二人は互いのスケッチブックを見比べ、どちらの上に紙を重ねるか悩んだ末、白紙の新しい紙を一枚挟んで、その上に各自の絵をトレーシングペーパーごとそっと重ねていく。
空色の世界の上に、淡く広がる湖と、黒い心音の線。
浮遊するオレンジの家の下から、透明な感情がゆっくりと染み出してくる。
「……これ、なにかに似てる」
ほのかがぽつりとつぶやいた。
「何?」
「今の“私たち”みたい。まだ全部わかってないけど、でも、一緒にいると色が変わる感じ」
由衣は照れくさそうに目を逸らしながら、それでも小さく「うん」と言った。
そのとき、中島先生が教卓から声をかけた。
「提出するスケッチブックには、最後にひと言“タイトル”をつけてくださいねー」
二人は顔を見合わせた。
「……タイトル、どうする?」
「……うーん……」
しばらく考えた末、由衣が一枚の紙のすみにペンを走らせた。
『透ける色、交わる音』
それは、二人の今日の対話と表現すべてを凝縮したような言葉だった。
自分一人では描けなかった絵。見えなかった線。聞こえなかった心音。
ほのかは静かにうなずいて言った。
「この授業、今日が一番好きかも」
(/End)
中島先生がチョークで黒板に「課題:自分の“内面”を色で描く」と書きながら、言った。
「今日は“写生”ではなく、“想像”です。心の中の風景を、キャンバスに」
静かな美術室の空気が、わずかに揺れる。
ほのかは、後ろの窓際の席でひとつ深く息を吐いた。机の上にはまっさらなスケッチブック。筆はある。絵具もそろっている。けれど、彼女の手は動かなかった。
隣の席では、由衣が静かにパレットを広げている。彼女は絵が得意だというわけではないが、“やり方がわかる人”だった。几帳面に水入れを整え、筆の毛先をくるくると馴染ませている。
「……ほのか、最初、どうする?」
由衣が声をかけた。ほのかは、ほんのわずか口元をゆるめて答える。
「うーん。まず空を描こうかな。水色で、でっかいやつ。空想って、やっぱ空から降ってくる感じするし」
「うん、それ、わかるかも」
二人の前に広がるキャンバスには、まだ何も描かれていない。けれど、心の中ではもう、いくつものイメージが浮かび始めていた。
「でも……」
ほのかは水色のチューブをにゅるりとパレットに絞り出しながら、ぽつりと言った。
「これ、ほんとの私なのかなって、ちょっと迷う」
由衣は筆を止めて、隣を見る。
「空想してるときの私って、なんか……“強い”じゃん? “想像上では何にでもなれる”っていうか。大空も飛べるし、魔法も使えるし、言いたいことも全部言える。……でも、それって、“本当の私”なんかなって思ったら、手が止まっちゃった」
「……本当って、なに?」
その問いかけは、意外なほど、鋭かった。由衣は、ほのかの顔をじっと見た。
「空想してるときのほのかも、怖くて描けないときのほのかも、どっちも“ほんと”じゃないの?」
「え」
「だって、私はそのどっちのほのかも、知ってるし。嘘じゃない。だから、どっちも“いる”でいいじゃん」
由衣の声は淡々としていたが、芯が通っていた。
ほのかは、ぽかんとしたあと、ふっと笑った。
「……やば、涙出そう。由衣って、たまに刺さること言うよね」
「たまに、ってなに」
「ほめてんの」
二人は小さく笑い合った。
その瞬間、スケッチブックが、まるで“描いていいよ”と言ってくれてるように見えた。
ほのかは、水色を筆に含ませ、大胆に白紙の中央に一筆を走らせる。空の色、夢の始まり。
隣で由衣も、淡いピンクを混ぜ始めた。由衣の色は、どこか透明感があって、優しくて、それでいて確かだった。
教室の中で、他の生徒たちはそれぞれに筆を動かしていた。ざわつきはない。ただ静かに、心の音がスケッチブックへ落ちていく時間。
「ね、ほのか」
「ん」
「私、強い色はあんまり使えないんだけど……薄い色を何枚も重ねてみたいんだ。うまくいかなくても、少しずつ変えていく感じ」
「いいじゃん、それ。すっごく“由衣”っぽい」
「ありがとう。でも……一緒に重ねたら、どうなるんだろうって、思ったの」
由衣は自分のスケッチブックから目を離し、ほのかのキャンバスを覗き込んだ。
「私の色と、ほのかの色。並べるんじゃなくて、透けさせて重ねたら、どんな絵になるかな」
ほのかは、息を飲んだ。
「……それ、めっちゃ良い。やろうよ、それ。半透明の紙、先生にあるか聞いてみる!」
椅子から立ち上がると同時に、まるで何かの迷いを脱ぎ捨てたように軽やかだった。
由衣はそんなほのかの背中を見つめながら、自分の心もすっと軽くなるのを感じていた。
「先生、トレーシングペーパーありますか? ……あ、半透明の紙でもいいです!」
そう言ってほのかは、前の棚を覗き込みながら声をかけた。中島先生は少し驚いた顔で振り返る。
「珍しいな、星野さんがそんな積極的に質問に来るなんて」
「えっ、そうですか?」
「うん、いつもは静かに、自分の世界で描いてる感じだったから」
「あ、そっか……でも、今日はちょっと、やってみたいことがあって」
ほのかは笑った。にっこりと。
先生は棚の中をごそごそ探して、何枚かの薄い紙を取り出した。
「これならあるよ。少し厚手だけど、色は重ねられるはずだ」
「ありがとうございます!」
その手を持って席に戻ると、由衣がパレットに新しい色を出して待っていた。
「できた?」
「うん。先生、協力的だった。ちょっとびっくりした」
「ふふ、先生、意外と優しいから」
二人はスケッチブックを並べるのではなく、各自の絵を描き終えてから紙を重ねる計画を立てた。
ほのかは、空の下に紫の山を描き、その上にオレンジの浮遊する家を加えた。「想像上の隠れ家」らしい。どこかで見たことがあるようで、でも絶対に現実には存在しない景色。
由衣は、淡いピンクとグレーを滲ませた湖のような背景に、小さな黒い線で“何か”を描き続けていた。
「それ、なに描いてるの?」
ほのかが聞くと、由衣は一瞬だけ黙って、照れくさそうに答えた。
「心臓のかたち……じゃなくて、心音、かな。拍動のイメージ」
「すごい……音を絵にできるんだ」
「いや、全然……でも、色で感情を描くって、こういうことかなって思って」
描かれた線はとても細く、震えるように規則的で、それでいてどこか頼りなさげだった。
でも確かに、見ていると“聞こえて”くるような気がする。
チャイムが鳴り、五時間目が終わる。
「……そろそろ重ねてみる?」
ほのかが、少し息を呑むようにして言った。
由衣も、目を閉じて一度深呼吸してから、うなずく。
二人は互いのスケッチブックを見比べ、どちらの上に紙を重ねるか悩んだ末、白紙の新しい紙を一枚挟んで、その上に各自の絵をトレーシングペーパーごとそっと重ねていく。
空色の世界の上に、淡く広がる湖と、黒い心音の線。
浮遊するオレンジの家の下から、透明な感情がゆっくりと染み出してくる。
「……これ、なにかに似てる」
ほのかがぽつりとつぶやいた。
「何?」
「今の“私たち”みたい。まだ全部わかってないけど、でも、一緒にいると色が変わる感じ」
由衣は照れくさそうに目を逸らしながら、それでも小さく「うん」と言った。
そのとき、中島先生が教卓から声をかけた。
「提出するスケッチブックには、最後にひと言“タイトル”をつけてくださいねー」
二人は顔を見合わせた。
「……タイトル、どうする?」
「……うーん……」
しばらく考えた末、由衣が一枚の紙のすみにペンを走らせた。
『透ける色、交わる音』
それは、二人の今日の対話と表現すべてを凝縮したような言葉だった。
自分一人では描けなかった絵。見えなかった線。聞こえなかった心音。
ほのかは静かにうなずいて言った。
「この授業、今日が一番好きかも」
(/End)



