七月の終わり、熱波のような午後。
 校舎裏手、廃部になった軽音楽部の防音練習室。
 薄暗く、エアコンのないそこは、ただの倉庫として扱われていたが、今日だけは別の使い方をされていた。
 「ふん、こんなもんか……」
 部屋の中央で、優亜がギターアンプの埃を払っている。
 校内放送にすら聞こえないほどの、厚い壁。音が漏れない場所。
 「ここなら、点数にされない“音”が録れる」
 優亜がこの部屋を見つけたのは、偶然だった。
 何かを叩き壊したくなるほど、むしゃくしゃしていた放課後。
 人気のない部屋を開けたら、埃とギターが出迎えた。それだけだ。
 だがそのとき、ふとひらめいたのだ――「音楽なら、点数で評価されなくて済むかも」と。
 「ここで、あたしたちの“声”を録る。点数ゼロの合唱。キレイにハモらなくていい。怒ってていい、ヘタでもいい。そんな“音”があるって、学校に見せつけるんだよ」
 優亜はドアの隙間から覗き込む。
 廊下の向こうに、来た。
 ゆっくりと歩いてくるのは、萌美。
 彼女は、細長い箱を抱えていた。中には、コンデンサマイクとケーブルがある。
「……本当に、私でよかったの?」
 萌美は立ち止まり、優亜を見た。
「あたし、前に……ちょっとキツく言いすぎた。
 無意識だったけど、多分あんたに“刺さった”んだと思う。
 だから……今日、一緒にやりたかったんだ。ちゃんと、向き合いたくて」
 優亜はあえて、ふざけたように鼻を鳴らした。
「ふーん、真面目モードか。
 だったら、今日くらい“言葉”より“音”で勝負しない?」
 萌美は数秒だけ黙り、にこりと笑った。
「それ、乗った」
 防音練習室の扉が閉じられ、世界がひとつ、音に包まれた。
 機材の準備は、ほぼ萌美に任せた。
 優亜はコード進行を覚え、歌詞の断片を紙に書いた。
「タイトル、どうする?」と萌美が尋ねた。
 優亜は即答した。
「“怒鳴るように歌え”ってタイトルで。点数ゼロに相応しいでしょ」
 二人の笑い声が、外には一切漏れなかった。



 マイクをスタンドに立て、レベルメーターがわずかに振れるのを確認してから、萌美は録音ソフトの「REC」をクリックした。
 練習室の中にあるのは、折りたたみ机一つと簡素な椅子、壁に立てかけたエレキギターとアコースティックギター、それと二人分のペットボトルだけ。
 照明もやや暗く、外界との接点は完全に遮断されている。
「……よし。じゃ、行こうか。最初は、ユニゾンで」
 萌美が言った。
「ユニゾンって?」
「同じメロディを二人で一緒に歌うの。ハモる前に、まず音をそろえたほうが、声の違いが見えるから」
「へえ、理屈っぽいなー」
 そう言いながらも、優亜はすっと立ち上がる。
 歌詞カードを見ずに、目を閉じた。
 ――イントロは無い。
 いきなりアカペラで、曲が始まる。
「怒鳴るように 叫んだんだ
 あたしはここにいるって
 誰にも届かなくても
 息が枯れるまで」
 最初の1フレーズ。
 優亜の声は、少し掠れていたけれど、芯があった。感情を、音に殴りつけるような声。
 萌美が重ねて歌う。
 こちらは抑えた、安定した響き。まるで優亜の“荒波”に、一定のリズムを与える“岸壁”のようだった。
 2フレーズ目で声が絡む。
 高音と低音が分かれ、自然とハーモニーになった。
 録音ブースの中で、言葉ではなく、声が謝罪を交わしていた。
 最後のフレーズで優亜が目を開けた。
「この声が 誰かを変えたら
 もう一度、笑えるかな」
 萌美の声と重なって、二人の息がぴたりと揃う。
 その瞬間、録音ソフトの波形が、美しい山なりを描いた。
 沈黙。
 再生はしない。あえて、今の音を“記憶”に残すために。
 萌美が、小さく呟いた。
「……ごめんね。前に、“頑張るだけじゃ変わらない”って、突き放すような言い方して」
 優亜は少しだけ眉をひそめて、それからふっと目を逸らす。
「覚えてない。……って言ったら嘘だけど、
 あの時のあたし、怒られて当然だったと思ってるし」
「でも、今日のあんたの声……すごく“前”に出てた。ぶっつけでも、気持ち届いた」
「ありがと」
 二人はようやく、正面から向き合って笑った。
 窓のない練習室。音だけが、二人の関係をつなぎ直した。
 点数じゃない、“個の叫び”が、そこに確かに刻まれた。



 録音を終えた二人は、機材を片づけながらもどこか名残惜しげだった。
 「音って、消えるからいいんだよな」
 優亜がぽつりと呟いた。
 「え?」
 萌美は指を止めた。
 「だって、さっきの歌、録ったとはいえさ……空気に触れてた音は、もう無いじゃん。残るのは波形だけ。けどさ、あたしの中では確かに“生きてた”わけ。消えたけど、生きてた。なんか、それがいいなって」
 言葉にすると薄くなる気がして、優亜はそれ以上多くは語らなかったが、萌美は静かに頷いた。
 「うん、私も……あの瞬間、歌ってて、ちょっと泣きそうになった。声にして初めて、自分が何を抱えてたか、わかった気がするから」
 「へぇ、真面目モードまた出たな?」
 「出るでしょ、これだけ本気で歌ったら」
 くすっと笑い合うふたり。
 録音ファイルをUSBメモリに移し終えたところで、萌美がふと思い出したように尋ねた。
 「この録音、どう使うの?どこに出す?」
 優亜はしばらく考え込んだあと、にやっと笑って答えた。
 「“提出物”として、校長室に送りつける」
 「……校長に!?」
 「そう。“キラメキチェックシート”じゃ測れない“声”を聞かせてやるの。
 点数で管理できないものが、確かにこの学校に存在するってこと、認めさせるために」
 大胆すぎる作戦に、萌美は思わず沈黙したが、目を伏せたままぽつりと呟いた。
 「……いいかも。それ」
 「え、マジ?」
 「うん。言葉で文句を言うより、“無点数の作品”をぶつける方が、ずっとまっすぐだよ」
 優亜は心底嬉しそうに笑い、肩をすくめた。
 「ね?天才でしょ、あたし」
 「自分で言う?」
 USBメモリをラベル付きの紙箱に入れる。
 白い封筒の表には、手書きで一言――
 『点数ゼロの合唱です。ご査収ください』
 優亜が文字を書き終えると、練習室に静けさが戻った。
 音が消えたのではない。
 “伝えた”という確信が、二人の間にあった。
 照明を落とし、扉を閉める。
 その瞬間、部屋に残っていたのは、ほんのわずかな熱と、録音された声だけだった。
(第10話「真夏の練習室」End)