バーベキューを終えたあとのお楽しみは花火だった。
 肝試しをする案もあったけれど、万が一、誰か戻ってこれなかったら洒落にならないという理由で花火案になったのだ。
 花火を調達する班が予め多くの花火を買ってくれていて、俺たちはコンクリートが敷かれた水辺の近くにやってきていた。

 俺たちがいるキャンプ場は管理棟とテントエリアを隔てるように人口の川が流れており、コンクリートの橋を渡って移動することができる。管理棟近くのコンクリートが敷き詰められた水路の近くであれば花火も可能ということで、俺たちはぞろぞろと花火を持って移動してきていた。
 ちなみに、酔っぱらって眠っている人や眠いからとテントに引っ込んでいった人、疲れたから風呂へ行くといって離脱した人もいるから、参加者は半分ほどである。

「はい、好きなの選んでー」

 テーブルの上には大量の花火がばらまかれている。カラフルな花火の中から、近くにあった一本を手に取った。
 あらかじめ地面に設置されたろうそくで火をつけ、シュッと音を立てて光の粒を散らす花火の先を見つめる。
 カラフルな持ち手だったので、てっきり派手な色かと思いきや、俺が選んだのは大人しい色のものだった。白っぽい光がコンクリートの上で跳ねて落ちる。

「じゃーん! 俺はふたつ!」

 手持ちの花火が終わりかけようかという頃、欲張って二つ持ってきたらしい深谷の花火がパッと地面を照らした。右手が青、左手がピンク色の光でなんとも深谷らしい派手な色をしている。

「花火すんの久々かも~。高校のときさ、文化祭の打ち上げで花火やったの覚えてる?」
「もちろん、覚えてるよ」

 高校三年生の文化祭終わりに、打ち上げで河川敷に行った。
 そのとき、たまたま別のクラスの人たちも打ち上げで花火をしており、気付いたら手持ち花火の打ち合いになっていたことを思い出す。
 危ないからやめるべきなのに、当時は若気の至りだったこともあり、怖いもの知らずで遊んでいた。幸い、すぐに危険な遊び方を改め、最後は他クラスのメンバーたちも入り混じって、誰が一番長く線香花火の火種を落とさずにいられるかの勝負が始まったけれど。

「花火の打ち合いみたいなことしてたのに、最後はみんな静かになって線香花火してたよね」
「輪になってやってたの、いま思い返すとシュールだよな。みんな静かにじーっと地面見てるの」
「わかる」
「てか、線香花火あるだろうから勝負しよーよ。負けた方が勝った方のいうこと聞くってことで」
「いいよ。俺、あのときも割と最後まで残ってたし」

 それでいうと、深谷はすぐに火の玉を地面に落としていた。もう一回、と駄々をこねていたような気がするけれど、線香花火が尽きてしまったのもあり、早々に勝負から離脱していたのを覚えている。
 昔、線香花火を長くもたせるコツを祖父に教えてもらったことがある。だから、勝負には自信があった。

「おっしゃ! 男に二言はないってことで持ってくる」

 いつの間にか燃え終わった花火をバケツに突っ込み、深谷が花火のあるテーブルに意気揚々と向かっていく。俺も使い終わった花火を捨てようとバケツへ向かったら、近くにいた女子たちに手招きされた。

「成嶋くん、これあげる」
「私のも。いっぱい持ってきたし」

 ナチュラルに輪の中へと引き込まれ、両手に花火を持たされる。右手は赤っぽく発光し、左手はいろんな色が混ざっているのかカラフルな色の花火だった。

「てかさ、マジで深谷と仲いいよね」
「そうかな?」
「そうそう。いつも一緒にいるじゃん」
「そんなことないよ。語学のときぐらいじゃないかな。そもそも深谷とそんなに講義かぶってないし……」

 たとえ深谷と講義が被っていたとしても、大講義室で行われる場合、参加人数が何百人にも膨れ上がるから探せない。他の生徒たちに埋もれてしまうため、誰か特定のひとりを見つけるのは容易でないのだ。
 仮に深谷を見つけたとしても、彼にも他に友人がいるとわかっているから、声をかけることはしないだろう。
 実際、俺は語学の時間以外に、深谷と大学内で共に行動することがなかった。

「まぁ、そう見えるのは高校が同じだからかな」
「それ、前も言ってたよね」
「三年間、ずっと同じクラスだったんだ。でも、高校の頃はほとんど話したことなくて……」

 むしろ苦手だったくらい、と言いかけたときだった。後ろからぐいっと首根っこを掴まれた。

「いた! ほら、線香花火持ってきたのに!」
「ごめんごめん」
「はやく! 勝負しよーぜ」
「わかったから引っ張んないでよ」

 いつも朗らかに笑っている深谷がムッとした表情で俺の腕を引っ張っていく。
 そんなに置いて行かれたことが嫌なのか、深谷はわかりやすくむくれていた。

「花火捨てに行ったら、女子たちに花火持たされちゃって」
「だからって、デレデレすんのかよ」
「別にそういうつもりは……。むしろ、深谷のほうがそういうのに興味あるんじゃないの?」
「は?」

 振り返った深谷に睨まれて、大蛇を前にした蛙みたいに身をすくめる。深谷は暫く無言でこちらを見つめたものの、ハァと深いため息をついてしゃがみ込んだ。

「ごめん、変なこと言った。あと、俺はそういうの興味ねーし」
「そうなの?」

 深谷の隣に俺もしゃがみ込む。線香花火を受け取り、同時にライターで火をつけた。
 すぐに小さな火の玉からぱちぱちと周りを囲むようにして、オレンジ色の光が弾ける。

「俺、そんなチャラく見えてるわけ?」
「……」
「そこで黙られると傷つくんだけどぉ」
「だって、見た目派手だし、昔からモテてるし……」
「まぁ、否定はしない」
「さらっとモテムーブいれたね」
「だって、本当のことだもーん。でも、だからって遊びまわってるわけじゃねーし。俺、一途なほうだもん」
「へぇ……」
「信じてねーな? マジで言ってんのに!」

 必死になってイメージアップを図ろうとする深谷がおかしくて笑える。俺の前でそんなことをしたって無意味なのに。
 滑稽に思えて、くすくす笑っていると、とんと肩を押しあてられた。

「で、そっちはどうなの?」
「何が?」
「薫は恋愛に興味あんの?」

 さらりと下の名前で呼ばれて、動揺が指先にまで伝わる。んぐっ、と喉から空気の潰れた音がして、すぐに焦りを吞み込んだ。

「……ないよ。俺、そういうのに疎いし、そもそも人と話すの得意じゃないし」
「そう? 今日とか普通に見えたけど」
「これでも頑張ってるんだよ……」
「ふーん、じゃあ、俺の前では?」

 緊張する? と聞かれて、そういえば深谷とは初めて家にお邪魔したときも、すぐに緊張が解けたことを思い出す。
 深谷の隣は居心地がよくて、変なところに体の力が入ることもない。彼の前だと、自然な自分でいられるような気がした。

「……蒼の前では、大丈夫かな」

 仕返しとばかりに名前を呼んでやれば、今度は深谷のほうがびっくりしている。口をぱくぱくさせて、う、あ、と声を漏らす深谷の線香花火がぽとりと地面に落ちた。

「やった、俺の勝ちだ」
「は……?」
「ほら、深谷の線香花火、下に落ちてる」
「うそ!」

 慌てて持ち手を確認する深谷だが、既に彼の線香花火はなんの光も発していない。一方の俺は、まだ僅かに火の玉がくっついていた。だけど、後を追うようにぽとりとアスファルトの上に光が溶け落ちる。
 深谷は悔しい! と膝を叩いて、もう一回! と勝負をねだった。

「こういうのは一回だけじゃないの?」
「回数決めてないもん。やれるだけやってやる!」
「はいはい、わかったから」

 すぐに花火があるテーブルに戻っていった深谷が、何本か線香花火を持ってくる。本気で勝つまでやるつもりらしく、俺は呆れて溜め息をついた。

「みんながやるかもしれないから返してきなさい」
「俺は子どもか! 全部なんて持ってきてねーよ。まだ、同じ束が三つぐらいあったわ」
「……じゃあ、いいか」

 やいのやいのと言いながら新しい線香花火に火をつける。
 途中、趣旨が変わって、線香花火をぶつけ合うこともあったけれど、最後の最後に深谷が勝った。

「うっしゃ! 俺の勝ち!」
「一勝四敗だけどね」
「一回勝てればいーの!」

 実際、最後の一勝もほぼ同時だったが、このままでは永遠に終わらない気がして、深谷に勝ちを譲った。だから厳密には俺の四勝一分だけれど、ここは深谷に勝ちを譲ろうと思う。

「じゃあ、俺のお願い聞いて♡」
「じゃあ、俺のお願い四つ聞いてくれる?」
「いやもう先払いしたから」
「うっ……」

 そう言われると返す言葉もない。鍵を忘れた俺を部屋に入れてくれたり、ご飯を作ってくれたり、それ以外のところでも深谷には世話を焼かれている。むしろ今までの仮が、この四勝で清算されるなら安い方だ。

「……わかったよ。でもひとつだけね」
「やった」
「で、お願いっていうのは?」

 お金がかかりすぎるものや、物理的にできないことは無理だと先に念を押しておく。
 そんな鬼みたいなこと言うわけないと深谷は反論したけれど、俺から差し出せるものがあまりない手前、何を言われるのか不安だった。

「俺のこと、さっきみたいに名前で呼んで」
「蒼って?」
「そ。俺も薫って呼ぶから」
「……なんだ、そんなこと」

 身構えていた分、拍子抜けする。
 呼び方そのものにこだわりなんてない。好きに呼んでくれたらいいし、俺も深谷のことをどんなふうに呼ぶことになろうが気にならない。
 だけど、どんなに親しくても今まで名前で呼び合うような友人はいなかった。だから、ちょっとだけむず痒い気持ちになる。

「そんなこと、って言うけど、結構大事なことじゃん」
「そういうもの?」
「そういうもの」

 この話は終わり、と深谷が立ち上がったのと同時に、買ってきた花火もほとんど尽きてしまったのか、周りには人が少なくなっている。
 残っている人たちで花火を片付け、それ以降はお開きになった。
 風呂へ行くのもよし、近くの散歩コースを楽しむもよし、余ったお菓子やデザートを食べるのもよしだ。

 俺たちがテントに戻ると、既に佐藤と七原が中にいた。

「お、戻ってきた」
「おー、ごめんごめん。てか、何してんの?」
「いや、ベッドどこにする? 的な話してて」

 そういえばキャンプ場に来たときに荷物を置いたきりで、ベッドの場所は決めていないのだった。そもそもテントの割り振りも男女さえ分かれていれば問題ないとのことで、なんとなく仲良し連中で集まるだろうと個々人に任せている。
 俺たちは荷物を置いた手前、必然的に同じテントになってしまった。

「俺は景色が見える方がいいかな」
「あ、佐藤ずりぃ、俺もそっちがいい」
「じゃあ、七原と俺は窓側にする?」

 窓側といっても、テントに窓はない。ドーム型になった天井のうち、半分だけ透明な作りになっていて、そこから夜空や景色が見えるようになっていた。
 正直、俺としてはそこまでこだわりがない。中央を起点に左右に分かれて並ぶベッドのうち、透明な天井の方を二人に、と思ったけれど、それに異を唱えたのは深谷だった。

「俺、薫の隣がいーんだけど」
「へ……?」
「だって、この二人、絶対寝相悪そうじゃん」
「失礼過ぎんだろ! まぁ、俺は寝相悪いけど」
「俺も蹴ったらごめーん」
「ほらぁ!」

 いや、俺だって寝相悪かったらどうすんの? なんて思わなくもないけれど、毎朝まっすぐ寝ているので隣の人を蹴るような心配はないだろう。
 シングルベッドとはいえ、スペースの関係か、しっかりとベッド同士がくっついているので、確かに寝相問題は深刻である。とはいえ一日だけだし、どこでもいいという気持ちが勝り、透明な天井ではないほうで、入口に近い側を選んだ。

「俺はこだわりないからここにするよ」
「じゃあ、俺たちはこっち」
「だーめ! 俺がここな!」

 二人がベッドにダイブする前に深谷が隣のベッドを占拠する。
 結局、折れてくれたのは佐藤で、さすがひとつ上と言うべきか、そこは丸く収めてくれた。

「わかった、わかった。てか、お前、本当は成嶋の隣がよかっただけだろ」
「それな」
「ちっげーわ! マジで蹴られたくねーの!」
「焦りすぎ。どんだけ成嶋のことが好きなんだよ!」

 アハハ、と佐藤が豪快に笑って、七原にも笑いが移ったのか、からかうようにニヤニヤしている。
 深谷は全力で否定したけれど、彼から好かれているのは悪い気がしない。むしろ、もっと自分のことを構ってほしいなどという、今まで生まれたことのない感情が湧いてきて、俺は、ハ、と困惑と共に息を吐き出した。

「薫? どした? 疲れた?」
「俺たちがうるさかったからフリーズしてるんじゃないの?」
「いや……ごめん。ちょっとぼーっとしちゃって」
「ならいいけど」

 ベッド争奪戦も落ち着いて、各々が自分に与えられたシングルベッドという小さな城で横になっている。そのうち、佐藤と七原は小腹が空いたからコンビニへ行くと言い、深谷は一応実行委員だからということで、火の始末や備品の確認、その他トラブルがないかを見て回ると言って出て行った。

 俺もやることがなくなり、ひとり着替えを持って管理棟にある浴場へ行く。
 この時間は人が少ないのか、脱衣所で一緒になった人はいたけれど、中はひとりだった。
浴場内は洗い場が十個と、内湯が二つあるだけのシンプルな作りになっている。
 俺はさっそく頭や体を洗うと、誰もいない内湯に肩まで浸かった。だけど、すぐに体が温まって熱くなる。
 浴室の中は、防犯やプライバシーのためか外は見えない作りになっていて、特に時間を潰すようなものはなかった。暫くぼんやりと虚空を眺めたのち、熱さに耐え切れなくなって風呂から上がる。
 濡れた体をタオルで拭い、寝間着に着替えていると、今から風呂に入るらしい深谷と脱衣所で鉢合わせた。

「あ、もう出てんじゃん! 慌てて追いかけたのに」

 俺のことを指さし、悔しそうに深谷が言う。深谷は残念だというと、俺が使っている隣の脱衣カゴに持っていた鞄を突っ込んだ。

「もう見回りは終わったの?」
「まーね。一応、全員いることは確認したし、トラブルもないことを確認してきた」
「そっか。お疲れ様」
「んー」

 衣擦れの音がして、深谷がカゴにぽんぽんと服を入れていく。
 俺はなるべく凝視しないように、視線をずらしながらタオルで頭を拭った。

「てか、ここの風呂、でかかった?」
「そこそこ。でも景色とか見えないし、誰もいないから、さっさと上がってきちゃった」
「そっか」

 一人なのはラッキーかも、と上機嫌に鼻歌を唄いながら、深谷が浴場に入っていく。俺は洗面台で髪を乾かすと、深谷が戻って来る前にテントへ戻った。

「あ、成嶋じゃん。おかえりー」

 テントに戻ると、先ほどコンビニへ行くと言っていた二人が戻ってきている。何やら二人でトランプをしていた。

「なにしてんの?」
「ババ抜き」
「二人だけで?」
「割と面白いよ。それにカード二枚抜いてるし」
「それ、勝負つくの……?」

 そんなことを言いながら、自分のベッドで横になる。佐藤たちから風呂のことを聞かれ、いまなら深谷しかいないことを伝えれば、早々にトランプをやめていた。
 風呂へ行くからとテントを出て行った二人を見送れば、俺だけの時間だ。ちょっとは息が抜けるかもと思ったけれど、すぐに深谷が戻ってきた。

「あー、いい湯だった」
「おかえりー」

 ラフな格好になって戻ってきた深谷がコーラーを片手にベッドに腰掛ける。
 どうやら、自販機で買ってきたらしい。俺も飲みたいな、と思ってそわついていると、気持ちが筒抜けになっていたのか、いる? と聞かれた。

「いや、買ってくるよ」
「一口ぐらいならいいのに」
「じゃあ、遠慮なく……」

 買ったばかりでよく冷えたコーラを深谷から受け取り、喉の奥に流し込む。口の中でしゅわしゅわと炭酸が弾けた。

「ありがと」
「ん」

 戻したコーラを一気に飲み干した深谷がぷはっ、と息を吐く。なんだかおじさんみたいだと笑えば、同じ年だろうがと怒られた。

「てか、薫はもう寝るの?」
「うーん。そんなに眠くはないけど……でもやることもないし横になろうかな」

 自然の中に来て、ネットに齧りつくのもなんだかもったいない気がする。液量画面を見たり、流行りの音楽を聴くぐらいなら、せっかくの自然を楽しみたい気持ちがあった。
 俺のベッドの位置からは横を向かないと星空や景色は見えないけれど、目を閉じて、耳を澄ませ、虫の声や木の葉が揺れる音を聞いて眠りにつくのも悪くないだろう。

 俺は早々に寝る準備を終えると、布団の中にもぐった。
 そうして暫く目を閉じていると、入口の方が騒がしくなって意識が覚醒する。頭だけを起こしたら、風呂に行った二人が戻ってきたようだった。

「お、成嶋はもう寝るのか」
「そんなすぐは眠れないと思うけど、やることもないし……」
「たまには早く寝るのもいいよな。俺なんていつも夜中までゲームしてるわ」
「俺はバイトしてる」

 そんなことを言いつつも、概ねみんな寝る方向になったのか、それから一時間も経たずに全員ベッドの中に入ってしまう。
 さっきまでよく話していた佐藤も七原もベッドに入ったら疲れがやってきたのか、すぐに寝息を立てていた。深谷も携帯を弄ることをやめて、こちらに背を向けている。
 俺が最初にベッドへ入ったというのに、気付けば取り残されていた。

(どうしよう、眠れない……)

 枕が違うからなのか、それとも人がいるからなのか。いつもとコンディションが違うこともあって、なかなか寝付けない。暑いわけでも寒いわけでもなく、テントの中は空調コントロールがしっかりされているというのに、俺は無意味に何度も寝返りを打っていた。

(ちょっとだけ外に出てこようかな)

 このキャンプ場の周りには天然のハイキングコースになっているという。綺麗に整備されているわけではないものの、散歩を楽しむ客たちが迷ったりしないよう、最低限の看板などはあるらしい。だから、迷子になることもないだろう。キャンプ場の近くであれば、ぎりぎり電波も拾える。
 だから、ひとりでも散歩を楽しむことができるだろうと判断した俺は、なるべく物音を立てないよう、忍び足でテントを出た。

「さむ……」

 テントを出てすぐに、長袖のTシャツ一枚で出てきたことを後悔する。
 日中は夏の名残を感じるほどに暑かったというのに、夜は肌寒かった。やっぱり戻ろうかとも思ったけれど、歩いているうちに体も温まるだろうとそのまま歩き続けていく。
 管理棟に繋がる橋を渡り、右手側へ行くとハイキングコースだ。一方で、左手側へ行くと大通りに出ていくルートになる。
 右手側のルートは自然のハイキングコースではあるものの、キャンプ場を一周するような形になっており、最終的には大通りの方へと繋がる。
 看板を見つつ、真っすぐに歩けば迷わない道になっていた。最悪、疲れてしまえば、また来た道を戻ればいい。
 それに外套もぽつぽつとはあるようで、暗すぎて足元がまったく見えないわけでもない。何かあれば携帯をライト代わりに使えばいいだろう。
 俺は迷わずハイキングコースの方へ足を向けた。

(こうやって自然の中を歩くのは何年振りだろ……)

 夜空を見ながら、砂利道をゆっくりと進んでいく。
 今日は天気もよく、都会と違い空気も澄んでいるためか、星がよく見えた。
 自分が住む地元も田舎のほうだ。都心まで電車で一時間近くかかる。自然がたくさんあるかと言われるとそうでもないけれど、少し駅から離れたらあぜ道もある。
 俺も深谷も、そんなところから都内までやってきて、なぜか今は同じマンションに住んでいる。不思議な縁もあるものだと思いながら空を見上げていると、足がもつれた。

「うわっ!」

 勢いよく前のめりになり、足の踏ん張りもきかずに顔面から転びそうになる。それをなんとか回避して膝から地面に落ちるも、衝撃が和らぐことなく、そのまま体が転がった。

「いった~~!」

 誰もいない深夜に叫び声を上げる。顔面からは落ちなかったものの、膝をすりむいてしまったようだ。

「最悪……」

 重たいため息をつき、痛む左膝をかばいながら立ち上がろうとする。だけど、踏ん張ろうとしたときに変な力の入れ方をしたのか、はたまた転がったときに捻ったのか、右足首が痛かった。
 左膝を擦りむいただけでなく、右足首をくじいてしまうなんて。
 最悪なことは重なってしまうものだと絶望しながら、万事休すとその場にへたり込んだ。

(少し休んでから戻ろう)

 そう思ったけれど、足の痛みは増すばかりだ。大した怪我ではないだろうけれど、真夜中のハイキングコースにひとりでいるという状況が焦りをもたらす。意識しすぎているせいか、余計に痛みが強くなっている気がした。

「くっ……」

 それでもなんとか自力でテントへは戻らねばならない。幸いにして、ハイキングコースを歩き始めてから十五分ほどだ。さほど遠くまでは来ていない。
 なんとか体を動かそうと足首をさすりながら踏ん張ったときだった。後ろから強い力で体を引っ張り上げられた。

「うわぁ!」
「こーら、暴れんなっての。俺だよ、俺」
「あ、おい……?」

 びっくりして後ろを振り向く。俺の体を引き上げてくれたのは息を切らした深谷だった。

「なんで、ここに……」
「なんで、って、心配だからに決まってんじゃん。なんか物音するなーって薫の方みたら靴履いてるし。で、テントから出ていくから、最初は自販機とかトイレに行くのかなーって思ってたんだけど、それにしては戻りが遅いから心配して追いかけてきたわけ」

 深谷が俺の足元に視線を向ける。血が滲む膝を見た深谷がため息をついた。

「なんで外出るとき、言わなかったの」
「だって……寝てるかと思って」
「てか、そもそも真夜中に外でちゃダメでしょ」
「ハイキングコースを歩くだけだし、問題ないって思ったんだよ」
「で、ケガしたって? 笑えねーっての」
「うっ……」

 自分でも自分自身に呆れて物が言えない。深谷の言う通り、たとえ眠れないからといって、ひとりで外へ出ていくべきではなかった。それでこの有様なのだ。深谷には感謝してもしきれない。
 きっと、ひとりだったら心が折れていた。心細くて、不安いっぱいだったに違いない。だけど、こうして深谷が来てくれたことで、一気に恐怖と緊張感から解放された。

「ほら、戻ろう」

 スッとしゃがんだ深谷がこちらに背を向ける。何事かと思っていると、早く、と急かされた。

「えーっと……」
「その足で、歩いて帰れるわけ?」
「さすがに悪いよ。肩さえ貸してくれたら十分だから」
「でもさっき、足首さすってただろ」

 目ざとく足首の怪我まで見つけられて、俺は下唇を噛む。
 さっきよりも足首が痛んでいるのは事実で、これ以上歩いたら悪化するのは目に見えていた。

「いーから、俺に大人しくおぶられてて」

 再び背中に乗るよう促されて、俺はおそるおそる深谷の背に乗った。

「しっかり掴まってて」
「うん」

 よっ、という掛け声とともに深谷が立ち上がる。思った以上に体幹がよいのか、深谷はふらつくことなく歩き始めた。

「本当にごめん」
「謝んなくていーよ。外出たのはちょっとだけ怒ってるけど、ケガに関しては事故みたいなもんじゃん」
「でも……」
「謝罪より今は感謝の言葉が欲しいかな」

 そう言われて、素直にありがとうと言葉にする。深谷はうんと頷くと、俺を背負い直した。

「ていうか、どうして俺がここにいるってわかったの?」
「最初はトイレ見て、自販機とかも確認したよ。でもそこにいねーし、コンビニ行くのもないかなって。テントの中に飲み物とか菓子とかあったし。だったら、こっちかもと思って。どうせ眠れねーから散歩でもしてるのかも、って思って来たらビンゴ! ってやつ」

 深谷の読みは当たっている。何もかもお見通しで、ちょっとだけ恥ずかしくなった。その恥ずかしさを誤魔化すように、ぎゅっと深谷の体に抱き着く。だけど、密着すればするほど、薄い皮膚を通して深谷に恥ずかしさが伝わるような気がして、体を離した。

「バカッ! ちゃんと掴まってないと落ちるって」
「うわぁ!」

 ぐらりと体が揺れて、再び深谷にぎゅっと抱き着く。
 こうしていると、どんどん鼓動が早くなっていくような気がして、自然と吐き出す息の間隔も早くなった。

「……本当にありがとう」
「うん」

 そこからは言葉少なに、深谷が俺を負ぶって歩いていく。
 テントに戻ると、佐藤と七原は互いにベッドの上で格闘するような寝相になっていて、俺たちはプッと吹き出して笑ってしまった。

「足は大丈夫そう?」
「うん。途中、水で洗ったし、もう血も止まってるし」

 元々、擦りむいた程度だ。土を洗い流し、足首もしっかり水で冷やしたから少しはマシだった。それに今のところ腫れもなく、軽くくじいた程度だ。
 俺をベッドに下ろし、しゃがみ込んで俺の足首を見つめる深谷のほうが、怪我をした張本人以上に真剣な顔つきになっている。俺は大丈夫だよ、と言うと、足をベッドに上げた。

「痛みも治まってるし」
「……ならいーけど、マジで痛くなったらすぐ言って。コンビニまで行ってくるから」
「さすがに湿布とかはないんじゃないかな……」
「氷なら売ってるっしょ」
「そうだけど、本当に大丈夫だよ。それに、もう遅いし、今度は蒼が怪我するかもしれないから」

 行っちゃダメだと言えば、それもそうかと深谷も引き下がる。
 彼は隣のベッドに横たわると、ごろんと天井を見上げた。

「にしてもどっと疲れた」
「ごめん……俺のせいだよね」
「そ。薫のせい」
「……ごめん」
「だけど、ちゃんと戻ってきてくれてよかった」

 こちらに寝返ってきた深谷と目が合う。心底安堵したと言わんばかりに、彼の目つきが柔らかくなっていた。

「本当に今日はありがとう」
「どーいたしまして。てか、ほんと薫のこと見てると心配になるわ」

 鍵は忘れるし、飯も作れないし、怪我もしてくるし、と今までの失態を並べられて恥ずかしくなる。
 その点、深谷はなんでも完璧で、あるとすれば今日の寝坊ぐらいだろうか。それでも、約束の時間には問題なく到着できたし、些細なことだろう。俺から見て、深谷は完璧な男だった。

「ほんと、かおるはさ、俺が、いないと……だめ……」

 眠気によって呂律が回らなくなってきたのか、深谷がむにゃむにゃと何かを呟くも、最後まで聞き取れない。言葉の続きを待つも、聞こえてくるのは深谷の寝息だけだった。

「……いつもありがとう」

 もう聞こえていないだろうけれど、おやすみと呟いて俺も目を閉じる。
 鈍く痛む足など気にならないほどに、俺の頭は深谷のことでいっぱいになっていた。