深谷と連絡先を交換してから、数日と経たずに語学クラスでキャンプへ行く話が持ち上がった。俺もトークアプリのグループに呼ばれ、特に挨拶をするでも反応をするわけでもなく見守っていたのだが、深谷が積極的に動いたことによって、キャンプの計画が急速に進んだのだ。
「でさ、いくつか候補地を決めたんだけど、どこがいいと思う?」
俺はいま、あの夜から二度目となる深谷の家でカレーを食べている。
というのも、夜になって突然インターホンが鳴り、カレーを作りすぎたから食べてほしい、とお願いされたのだ。大学からマンションまで帰ってきたとき、やけにいい匂いがするなと廊下を歩きながら思っていたけれど、どうやらおいしい匂いの発生源は深谷の家からだったらしい。
うちのマンションは廊下にもキッチン用の窓があり、大きくはないものの換気用の窓として機能している。擦りガラスかつ防犯用の鉄格子で覆われた小さな窓ではあるものの、部屋の空気を抜きたいときには重宝していた。
その小窓から深谷の家で作られていたカレーの匂いが運ばれてきたらしい。
俺も今日はコンビニかスーパーに行ってレトルトのカレーでも食べようかな、と思っていたから、深谷に誘われたのはラッキーだった。
「俺は別にどこでもいいと思うけど」
みんな遊びたいだけで、場所にはこだわりを持っていないだろう。欲を言えば、キャンプ用品がなくてもキャンプを楽しめるところだと楽かもしれないと言えば、深谷もうんうんと頷いていた。
「身一つで行けるとこがいいよな~。でもグランピングとかはプランと場所によっては高すぎるし悩む~」
「また女子とかが好きそうな……」
「うち、男女比のバランス狂ってるからさぁ。女子のほうが多いし。変なとこに決めたら文句言われそー」
そうは言うものの、センスのいい深谷のことだ。そこらへんも加味して候補地は予め選んでいるのだろう。電車で移動しやすく、なおかつ身一つでいけて、施設も綺麗なところとなると絞られてきそうだけれど、深谷からいくつか候補地の話を聞いた限りでは、キャンプ初心者の俺でも安心して参加できそうだった。
「ま、こっちで三つぐらいに絞って、あとはアンケとろっかな。……あ、てか、カレーどう? うまい?」
「すごくおいしいよ。なんだかお店みたい……」
てっきり普通のカレーがでてくるものかと思いきや、深谷が出してきたのはキーマカレーだった。米もわざわざ色付けしたのか黄色く、キーマカレーの上には半熟のゆで卵まで乗っている。
味も文句なしにおいしく、店で食べているものと大差ないほどに美味だった。
「深谷ってなんでこんなに料理うまいの?」
「えっ、俺、料理うまいと思う?」
「さすがに自覚あるくせに。すごくおいしいよ」
「へへ、なんか成嶋に褒められると照れるわ」
にこっと子どもみたいな笑みを浮かべながら、深谷がわざとらしく頬をかく。言葉通りに照れているのか、恥ずかしそうに笑っていた。
「俺、下に年の離れた弟がいてさ。両親が仕事で遅いときとか、お腹が空いて夕飯まで待ちきれねーって泣く弟のために料理覚えたんだよね。だから、料理はそこそこ得意なつもり」
「へぇ、だから面倒見もいいんだ」
「面倒見?」
「ほら、俺が鍵を忘れたときも家に入れてくれて世話焼いてくれたし。深谷の弟がうらやましいよ」
「なにそれ、俺にお世話されたいってこと?」
先ほどまでの笑みを引っ込め、深谷が真剣な顔で尋ねてくる。色をつけただけの誉め言葉ではあったものの、深谷は俺の言葉を真面目に受け取ったようだった。
「さすがに成嶋のことは弟みたいに見れねー」
「そこまでは求めてないよ」
「あー、でも弟としては無理でも、別の意味でなら世話できるかも」
ご機嫌に深谷が笑って、カレー皿を持ちながら、すすっと身を寄せてくる。突然距離を詰められて、俺も同じだけカレー皿を持って距離を空けた。
「どういう意味」
「どうもこうも、特別な友だちって意味で」
「特別?」
「唯一の隣人でダチって意味ならお世話できちゃうなーって。ていうか、なんか成嶋ってほっとけないっていうか……」
横から深谷の手が伸びて来て、左の唇の端を親指で拭われる。急に何を、と狼狽える間もなく、深谷にご飯粒がついた指を見せられた。
「こういうところとか、弟より子どもっぽいし」
「うっ……」
「ね? 世話焼きたくなる理由がわかったっしょ?」
たったいま、口元にご飯粒をつけていた手前、認めざるを得ない。俺はありがとう、と言って、テーブルの上にあったティッシュを掴み、深谷の指にあるご飯粒をティッシュで拭って丸めた。
「ま、成嶋はちょっと抜けてるぐらいがいーよ。とっつきやすくなるし。ただ、あんま隙は見せてほしくねーけど」
深谷の言っている意味が理解できず、隙とは? と聞き返す。すると、深谷がげんなりした様子で呟いた。
「ほら、俺、成嶋と仲良いって言っちゃったじゃん? あれから女子たちに成嶋に繋いでほしーって頼まれてんの」
「それはなんか……ごめん」
「成嶋と仲良くなりたいなら自分から行けって話だし、成嶋も勝手に女子を紹介されても困るだけじゃん? だから断り続けてんだけど、断れば断るほど余計にヒートアップすんだよね」
やけ食いみたいにぱくぱくとカレーを口に運ぶ深谷を見ながら、人知れず防波堤代わりになってくれていた彼に心の中で感謝する。
深谷の言う通り、あまり交流のない女子たちを紹介されても対応に困るだけだ。それに、異性と話すのはあまり得意ではない。
大学デビューまでしておいて何を言っているんだと笑われるかもしれないけれど、変わったのは見た目だけで、中身は高校生の頃のままなのだ。
クラスの輪の中に入っていくのは苦手だし、話題の中心になるのも苦手。親しくない人と話すのも苦手だし、自分としては愛想よくふるまっているものの、普段が落ち着きすぎているせいか何を考えているのかわからなくて怖いと言われてしまうこともある。
だから、深谷がある程度シャットアウトしてくれている今の状況は俺にとってありがたい。非常に助かる状況ではあるけれども、一方で健全な形ではないことも理解している。
回りまわって自分のことで深谷に迷惑をかけているのだ。それは、俺としても本望ではなかった。
「もし、断り切れないなら、直接俺に繋いでくれていいよ。深谷に迷惑かけっぱなしなのも悪いし」
「いや、大丈夫。俺も成嶋が他の女子たちにベタベタされてんの見るのは……その、なんていうか……」
珍しく深谷の歯切れが悪い。言葉の続きを待つも、深谷はもごもごと口を動かすだけだった。
「と、とにかく! 俺でできる範囲のことはするっていうか、アイツらには自分でどうにかしろって言っとく」
「うん、ありがとう」
そう言うも、深谷は依然として納得がいかないのか険しい顔をしている。
俺のことなのだ。そこまで悩まなくていいと言いたいけれど、きっとそう伝えたところで深谷はここでも面倒見の良さを発揮してしまに違いない。
優しくて世話焼きで、顔が広すぎてしまうのも難儀なものだな、と深谷のことを哀れんでしまった。
「カレー、ありがとう。ごちそうさま」
「ん。おかわりいる?」
「いや、たくさん盛ってもらったから大丈夫だよ」
深谷と喋りながら食べていたこともあって、大皿に盛られていたカレーもぺろりと平らげてしまった。
前回と同じように二人分の食器を回収し、皿を洗い始めた深谷の後ろ姿を見ながら、手持ち無沙汰に小さな水槽の前へと移動する。
目線の高さよりも下にある棚の上には、ティッシュ箱を立たせたサイズの小さな水槽があった。奥行きはそこそこあるものの、両手で持ち上げられそうなほどのサイズである。
その中に、綺麗な色の熱帯魚が一匹だけ泳いでいる。鱗は明るいメタリックブルーで、尾びれは先っぽにかけて薄い青色のような、透明な色になっていた。
水で満たされた箱庭の中を優雅に泳ぐ姿に、目が釘付けになってしまう。
しばらくぼーっと眺めていると、可愛いでしょ? と後ろから声をかけられた。
「これ、ベタっていう熱帯魚なんだぁ」
「へぇ……初めてみた」
「初心者でも飼いやすい熱帯魚で、小さな水槽でも買えんだよ」
餌やりの時間なのか、深谷は水槽の横にあった餌袋から顆粒を摘まむと、水面に向かってぱらぱらと餌を撒いた。すると、魚はゆっくりと尾ひれをたなびかせ、水面に寄ってきた。
「こうやって一生懸命、餌食べてるところとか可愛いでしょ」
「うん、確かに……。でもさ、なんで一匹だけなの?」
手で持ち上げられるほどのミニマムサイズな水槽とはいえ、魚の大きさ的には、もう何匹か入りそうな余裕がある。それなのに、一匹だけしか泳いでいないのが不思議だった。
「俺ももっと入れられたらなーって思ったけど、ベタって闘魚なんだって」
「とうぎょ?」
「一緒の水槽にいれると喧嘩しちゃうの。だから、コイツ一匹だけ」
それでも十分だとでも言いたそうな顔で、深谷が愛おしそうにベタを見つめる。世話焼きな彼にはぴったりな家族なのかもしれないと、その横顔を見て思った。
「ちなみに名前は?」
「青色だからアオ」
「単純すぎない?」
「でも俺の名前からとってるよ」
「確か、蒼って書いてあおいだっけ?」
彼の名前を思い出しながら尋ねたら、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で深谷がこちらを見ていた。
「なにその顔」
「いや、俺の名前、ちゃんと知ってたんだと思って……」
「そりゃ知ってるよ。高校から同じなのに」
「そっか、そうだよな……」
口元を手で覆い、顔をそむける深谷に俺は首をかしげる。気になって顔を覗き込もうとしたけれど、真逆にそらされた。
「こっち見なくていいから!」
「もしかして照れてる?」
「不意打ちだったからびっくりしただけ! 成嶋も急に薫って呼ばれたらびっくりすんだろ!」
「そう? 俺は別に驚かないけど」
「……そうかよ。じゃあこれから呼んでやる!」
真っ赤な顔で睨まれるけれど、照れているだけだとわかっているからちっとも怖くない。だけど、深追いしてからかいすぎるのもよくない気がして、これ以上は追求しないことにした。
「じゃあ俺、そろそろ戻るよ」
「もう? ゆっくりしてっていいのに」
「これからバイトがあるから」
今日も夜からのシフトが入っている。料理ができないくせにカフェのバイトに入ったけれど、料理スキルの乏しさと、もともとホールスタッフを募集していたのもあって、俺の仕事は配膳や片付けが主だ。皿洗いや掃除、その他、簡単な盛り付けぐらいはするけれど、基本的に料理は作らない。
でも、深谷みたいに料理ができたらやれる仕事の幅が広がるかもしれない。いつか自分もこっそり習得できれば、と未来の自分を想像しつつ、深谷の部屋を出ることにした。
「今日はありがとう」
「うん。また夜も来ていいから」
「夜?」
「前みたいに鍵を忘れたらの話」
「さすがに気をつけるよ……」
軽口を叩かれるも、さすがの俺も鍵を忘れたらどうなるのかを身をもって知ったから、同じ轍は踏まない。
最近では、バイト先を出る前に必ず家の鍵や貴重品を忘れていないか見るようになったし、念のため家に入れなくなったときのことをシミュレーションして、深夜でも駆け込める場所をピックアップ済みだ。
「ま、忘れてなくても来ていいから」
「ありがとう。じゃあ、また」
「うん。じゃーね、薫」
玄関から出る瞬間、さらりと名前を呼ばれて振り向く。
深谷はさっきの仕返しだと言わんばかりに悪い顔で笑っていた。
ドアが閉まって、俺ひとりだけぽつねんと廊下で立ち尽くす。
「確かにびっくりするかも……」
じわじわと頬が赤らんでいくのを感じて、俺は急いで自分の部屋に入った。謎の動悸や息切れまでしてきて、扉にぺたりと背中をくっつけて、うるさくなった心臓を宥めるように右手で胸を撫でつける。
これでは深谷のことを言えない。自分も、名前を呼ばれてびっくりしているのだから。
「あー……もう、調子狂う……」
ぽつりと呟いた言葉が、部屋に吸収される。どうか、この薄い壁を伝って深谷の耳に届いていませんようにと祈りながら、深いため息をついた。
「でさ、いくつか候補地を決めたんだけど、どこがいいと思う?」
俺はいま、あの夜から二度目となる深谷の家でカレーを食べている。
というのも、夜になって突然インターホンが鳴り、カレーを作りすぎたから食べてほしい、とお願いされたのだ。大学からマンションまで帰ってきたとき、やけにいい匂いがするなと廊下を歩きながら思っていたけれど、どうやらおいしい匂いの発生源は深谷の家からだったらしい。
うちのマンションは廊下にもキッチン用の窓があり、大きくはないものの換気用の窓として機能している。擦りガラスかつ防犯用の鉄格子で覆われた小さな窓ではあるものの、部屋の空気を抜きたいときには重宝していた。
その小窓から深谷の家で作られていたカレーの匂いが運ばれてきたらしい。
俺も今日はコンビニかスーパーに行ってレトルトのカレーでも食べようかな、と思っていたから、深谷に誘われたのはラッキーだった。
「俺は別にどこでもいいと思うけど」
みんな遊びたいだけで、場所にはこだわりを持っていないだろう。欲を言えば、キャンプ用品がなくてもキャンプを楽しめるところだと楽かもしれないと言えば、深谷もうんうんと頷いていた。
「身一つで行けるとこがいいよな~。でもグランピングとかはプランと場所によっては高すぎるし悩む~」
「また女子とかが好きそうな……」
「うち、男女比のバランス狂ってるからさぁ。女子のほうが多いし。変なとこに決めたら文句言われそー」
そうは言うものの、センスのいい深谷のことだ。そこらへんも加味して候補地は予め選んでいるのだろう。電車で移動しやすく、なおかつ身一つでいけて、施設も綺麗なところとなると絞られてきそうだけれど、深谷からいくつか候補地の話を聞いた限りでは、キャンプ初心者の俺でも安心して参加できそうだった。
「ま、こっちで三つぐらいに絞って、あとはアンケとろっかな。……あ、てか、カレーどう? うまい?」
「すごくおいしいよ。なんだかお店みたい……」
てっきり普通のカレーがでてくるものかと思いきや、深谷が出してきたのはキーマカレーだった。米もわざわざ色付けしたのか黄色く、キーマカレーの上には半熟のゆで卵まで乗っている。
味も文句なしにおいしく、店で食べているものと大差ないほどに美味だった。
「深谷ってなんでこんなに料理うまいの?」
「えっ、俺、料理うまいと思う?」
「さすがに自覚あるくせに。すごくおいしいよ」
「へへ、なんか成嶋に褒められると照れるわ」
にこっと子どもみたいな笑みを浮かべながら、深谷がわざとらしく頬をかく。言葉通りに照れているのか、恥ずかしそうに笑っていた。
「俺、下に年の離れた弟がいてさ。両親が仕事で遅いときとか、お腹が空いて夕飯まで待ちきれねーって泣く弟のために料理覚えたんだよね。だから、料理はそこそこ得意なつもり」
「へぇ、だから面倒見もいいんだ」
「面倒見?」
「ほら、俺が鍵を忘れたときも家に入れてくれて世話焼いてくれたし。深谷の弟がうらやましいよ」
「なにそれ、俺にお世話されたいってこと?」
先ほどまでの笑みを引っ込め、深谷が真剣な顔で尋ねてくる。色をつけただけの誉め言葉ではあったものの、深谷は俺の言葉を真面目に受け取ったようだった。
「さすがに成嶋のことは弟みたいに見れねー」
「そこまでは求めてないよ」
「あー、でも弟としては無理でも、別の意味でなら世話できるかも」
ご機嫌に深谷が笑って、カレー皿を持ちながら、すすっと身を寄せてくる。突然距離を詰められて、俺も同じだけカレー皿を持って距離を空けた。
「どういう意味」
「どうもこうも、特別な友だちって意味で」
「特別?」
「唯一の隣人でダチって意味ならお世話できちゃうなーって。ていうか、なんか成嶋ってほっとけないっていうか……」
横から深谷の手が伸びて来て、左の唇の端を親指で拭われる。急に何を、と狼狽える間もなく、深谷にご飯粒がついた指を見せられた。
「こういうところとか、弟より子どもっぽいし」
「うっ……」
「ね? 世話焼きたくなる理由がわかったっしょ?」
たったいま、口元にご飯粒をつけていた手前、認めざるを得ない。俺はありがとう、と言って、テーブルの上にあったティッシュを掴み、深谷の指にあるご飯粒をティッシュで拭って丸めた。
「ま、成嶋はちょっと抜けてるぐらいがいーよ。とっつきやすくなるし。ただ、あんま隙は見せてほしくねーけど」
深谷の言っている意味が理解できず、隙とは? と聞き返す。すると、深谷がげんなりした様子で呟いた。
「ほら、俺、成嶋と仲良いって言っちゃったじゃん? あれから女子たちに成嶋に繋いでほしーって頼まれてんの」
「それはなんか……ごめん」
「成嶋と仲良くなりたいなら自分から行けって話だし、成嶋も勝手に女子を紹介されても困るだけじゃん? だから断り続けてんだけど、断れば断るほど余計にヒートアップすんだよね」
やけ食いみたいにぱくぱくとカレーを口に運ぶ深谷を見ながら、人知れず防波堤代わりになってくれていた彼に心の中で感謝する。
深谷の言う通り、あまり交流のない女子たちを紹介されても対応に困るだけだ。それに、異性と話すのはあまり得意ではない。
大学デビューまでしておいて何を言っているんだと笑われるかもしれないけれど、変わったのは見た目だけで、中身は高校生の頃のままなのだ。
クラスの輪の中に入っていくのは苦手だし、話題の中心になるのも苦手。親しくない人と話すのも苦手だし、自分としては愛想よくふるまっているものの、普段が落ち着きすぎているせいか何を考えているのかわからなくて怖いと言われてしまうこともある。
だから、深谷がある程度シャットアウトしてくれている今の状況は俺にとってありがたい。非常に助かる状況ではあるけれども、一方で健全な形ではないことも理解している。
回りまわって自分のことで深谷に迷惑をかけているのだ。それは、俺としても本望ではなかった。
「もし、断り切れないなら、直接俺に繋いでくれていいよ。深谷に迷惑かけっぱなしなのも悪いし」
「いや、大丈夫。俺も成嶋が他の女子たちにベタベタされてんの見るのは……その、なんていうか……」
珍しく深谷の歯切れが悪い。言葉の続きを待つも、深谷はもごもごと口を動かすだけだった。
「と、とにかく! 俺でできる範囲のことはするっていうか、アイツらには自分でどうにかしろって言っとく」
「うん、ありがとう」
そう言うも、深谷は依然として納得がいかないのか険しい顔をしている。
俺のことなのだ。そこまで悩まなくていいと言いたいけれど、きっとそう伝えたところで深谷はここでも面倒見の良さを発揮してしまに違いない。
優しくて世話焼きで、顔が広すぎてしまうのも難儀なものだな、と深谷のことを哀れんでしまった。
「カレー、ありがとう。ごちそうさま」
「ん。おかわりいる?」
「いや、たくさん盛ってもらったから大丈夫だよ」
深谷と喋りながら食べていたこともあって、大皿に盛られていたカレーもぺろりと平らげてしまった。
前回と同じように二人分の食器を回収し、皿を洗い始めた深谷の後ろ姿を見ながら、手持ち無沙汰に小さな水槽の前へと移動する。
目線の高さよりも下にある棚の上には、ティッシュ箱を立たせたサイズの小さな水槽があった。奥行きはそこそこあるものの、両手で持ち上げられそうなほどのサイズである。
その中に、綺麗な色の熱帯魚が一匹だけ泳いでいる。鱗は明るいメタリックブルーで、尾びれは先っぽにかけて薄い青色のような、透明な色になっていた。
水で満たされた箱庭の中を優雅に泳ぐ姿に、目が釘付けになってしまう。
しばらくぼーっと眺めていると、可愛いでしょ? と後ろから声をかけられた。
「これ、ベタっていう熱帯魚なんだぁ」
「へぇ……初めてみた」
「初心者でも飼いやすい熱帯魚で、小さな水槽でも買えんだよ」
餌やりの時間なのか、深谷は水槽の横にあった餌袋から顆粒を摘まむと、水面に向かってぱらぱらと餌を撒いた。すると、魚はゆっくりと尾ひれをたなびかせ、水面に寄ってきた。
「こうやって一生懸命、餌食べてるところとか可愛いでしょ」
「うん、確かに……。でもさ、なんで一匹だけなの?」
手で持ち上げられるほどのミニマムサイズな水槽とはいえ、魚の大きさ的には、もう何匹か入りそうな余裕がある。それなのに、一匹だけしか泳いでいないのが不思議だった。
「俺ももっと入れられたらなーって思ったけど、ベタって闘魚なんだって」
「とうぎょ?」
「一緒の水槽にいれると喧嘩しちゃうの。だから、コイツ一匹だけ」
それでも十分だとでも言いたそうな顔で、深谷が愛おしそうにベタを見つめる。世話焼きな彼にはぴったりな家族なのかもしれないと、その横顔を見て思った。
「ちなみに名前は?」
「青色だからアオ」
「単純すぎない?」
「でも俺の名前からとってるよ」
「確か、蒼って書いてあおいだっけ?」
彼の名前を思い出しながら尋ねたら、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で深谷がこちらを見ていた。
「なにその顔」
「いや、俺の名前、ちゃんと知ってたんだと思って……」
「そりゃ知ってるよ。高校から同じなのに」
「そっか、そうだよな……」
口元を手で覆い、顔をそむける深谷に俺は首をかしげる。気になって顔を覗き込もうとしたけれど、真逆にそらされた。
「こっち見なくていいから!」
「もしかして照れてる?」
「不意打ちだったからびっくりしただけ! 成嶋も急に薫って呼ばれたらびっくりすんだろ!」
「そう? 俺は別に驚かないけど」
「……そうかよ。じゃあこれから呼んでやる!」
真っ赤な顔で睨まれるけれど、照れているだけだとわかっているからちっとも怖くない。だけど、深追いしてからかいすぎるのもよくない気がして、これ以上は追求しないことにした。
「じゃあ俺、そろそろ戻るよ」
「もう? ゆっくりしてっていいのに」
「これからバイトがあるから」
今日も夜からのシフトが入っている。料理ができないくせにカフェのバイトに入ったけれど、料理スキルの乏しさと、もともとホールスタッフを募集していたのもあって、俺の仕事は配膳や片付けが主だ。皿洗いや掃除、その他、簡単な盛り付けぐらいはするけれど、基本的に料理は作らない。
でも、深谷みたいに料理ができたらやれる仕事の幅が広がるかもしれない。いつか自分もこっそり習得できれば、と未来の自分を想像しつつ、深谷の部屋を出ることにした。
「今日はありがとう」
「うん。また夜も来ていいから」
「夜?」
「前みたいに鍵を忘れたらの話」
「さすがに気をつけるよ……」
軽口を叩かれるも、さすがの俺も鍵を忘れたらどうなるのかを身をもって知ったから、同じ轍は踏まない。
最近では、バイト先を出る前に必ず家の鍵や貴重品を忘れていないか見るようになったし、念のため家に入れなくなったときのことをシミュレーションして、深夜でも駆け込める場所をピックアップ済みだ。
「ま、忘れてなくても来ていいから」
「ありがとう。じゃあ、また」
「うん。じゃーね、薫」
玄関から出る瞬間、さらりと名前を呼ばれて振り向く。
深谷はさっきの仕返しだと言わんばかりに悪い顔で笑っていた。
ドアが閉まって、俺ひとりだけぽつねんと廊下で立ち尽くす。
「確かにびっくりするかも……」
じわじわと頬が赤らんでいくのを感じて、俺は急いで自分の部屋に入った。謎の動悸や息切れまでしてきて、扉にぺたりと背中をくっつけて、うるさくなった心臓を宥めるように右手で胸を撫でつける。
これでは深谷のことを言えない。自分も、名前を呼ばれてびっくりしているのだから。
「あー……もう、調子狂う……」
ぽつりと呟いた言葉が、部屋に吸収される。どうか、この薄い壁を伝って深谷の耳に届いていませんようにと祈りながら、深いため息をついた。

