近くて見えない隣の青


 ◇

「おじゃまします」
「ん。最初からそうしてろっての」

 深谷が満足そうに笑って、俺の背中をぽんと押す。

 はじめて入った深谷の部屋は、想像以上におしゃれだった。同じ1DKの狭い学生マンションなのに、俗にいうディスプレイ収納というやつなのか、物が多いながらも綺麗に整理整頓されている。
 壁には写真や帽子などのファッション小物が、棚には本や服などが綺麗に並んでいて、どこに目を向けても賑やかだ。その中でもひときわ目を引いたのが、小さな水槽に入った熱帯魚だった。

「熱帯魚、飼ってんの?」
「まーね」

 小さな水槽の中をゆうらりと泳ぐ魚のことを、俺はよく知らない。尾ひれが長く、美しい色をした魚が水の中を優雅に舞っていた。

「適当に座ってて」

 そう言われて、部屋の中央にあるローテーブルの傍に座る。ラグやクッションもあり、自分の部屋の何もないフローリングの床と比べてひそかに凹んだ。
 とてもじゃないが、同じ間取りの部屋とは思えない。

「あ、そうそう。なんか食う?」
「この時間から!?」
「え、普通じゃね? 腹減ったら何時でも食うんだけど」
「それでよく太らないね……」

 俺も太っているほうではなく、むしろやせ型なほうではあるけれど、深谷も身長があるためか、すらりとして見える。無駄な肉をそぎ落とした体ではあるけれど貧相な印象はなく、だからこそこの時間に何かを食べようとする深谷には驚いた。

「俺、ちょっと適当に作るわ」

 飲み物を用意してくれたのか、テーブルの上にグラスを置かれる。
 よく冷えたお茶とクーラーが効いた涼しい部屋の空気で一気に汗が引いた。

「てか、深谷はこの時間までどこに行ってたの?」
「ちょっとコンビニ~。アイス食いてーって思ったんだけど、今はしょっぱいものの気分」

 そうこうしているうちにキッチンが騒がしくなり、美味しそうな音と香ばしい匂いが俺のいる部屋まで運ばれてくる。
 暫く待っていると、二つの皿を持った深谷がやってきた。

「おまたせー」

 深谷がテーブルの上に置いたのは、できたばかりのチャーハンだった。食べるともなにも言っていないのに、俺の分まで用意してくれたらしい。
 食べる気がなかった俺も匂いにつらて、ぐぅ、とお腹が鳴った。

「さっき、こんな時間に食うのかよ、みたいなこと言ってたくせに、腹は正直だね」
「仕方ないだろ……」
「ほら、食いなよ」

 スプーンまで手渡されて、俺はおそるおそるチャーハンをすくって口に入れる。
 見た目と匂いから既においしそうだったけれど、一口でそのおいしさに感動した。

「うまっ……!」
「マジ? ……ん、確かにいつも通りうまいわ」

 深谷も自分が作ったチャーハンを一口すくい、うんうんと頷いている。
 俺は料理がほぼできないため、久々の手料理に、味以上に感動していた。

「やっぱ人が作ったものっておいしいね」
「そう? まぁ、適当に作ったんだけど」
「これが適当なの……?」
「冷蔵庫の中にあった野菜ぶっこんだだけだし。あ、でも冷凍のエビがあったのはラッキーだったかも」

 あると便利なのだという深谷に、そもそも学生の一人暮らしの冷蔵庫から出てくるものなのだろうかと思ってしまう。
 俺は、深谷に作ってもらったチャーハンを夢中で頬張った。どうやら、バイト終わりでそこそこお腹が空いていたらしい。

 俺がいるカフェは休憩時にまかないが出るけれど、深夜バイトのときは忙しいのと夜間に食べる罪悪感もあって、食べない日も多い。
 都内は眠らない街だ。おまけに遅くまで営業しているお洒落なカフェは若者に需要がある。駅から近いこともあって、仕事終わりの利用客も多く、常に店は繁盛していた。
 今日は特に忙しく、バイト前に食べたコンビニのおにぎり以外、何も口にしていなかったから、なおのこと深谷のチャーハンがおいしく感じられた。

「ごちそうさまでした」
「ん、お粗末様でした」

 食べ終わった皿を回収した深谷が、慣れた手つきで食器を洗っていく。
 片づけを終えて戻ってきた深谷は、俺の横に座ると、ベッドに背をもたれさせながらテレビの電源をつけた。

「暇でしょ。なんか見る? あ、寝てもいいけど」
「いや、さすがにそれは……」

 そこまで親しくない他人の部屋で眠るのも、だからと言ってテレビを楽しむのも気が引ける。それに深谷は俺さえ部屋に招き入れなければ寝ている時間だ。きっと眠いだろうし、俺だけテレビを見続けるのも申し訳ない。
 どうぞお構いなくと伝えるも、深谷はなぜかドンと肩を押し付けてきた。

「遠慮しなくていいのに。もしかして迷惑とか思ってる?」
「そりゃあ、思うよ」
「成嶋を部屋に入れた時点で、迷惑もなにもないっての。つーか、何されても変わらない、みたいな?」
「うっ……」
「だから、なんか見ようよ。俺、サブスク入ってるし、映画とか見れるよ」

 俺のお勧めはこれだから、と勝手に深谷が映画を選択して再生しだす。
 少し前に話題になった洋画のシリーズ作で、俺もひそかに気になっていた映画だった。

「じゃあ、お言葉に甘えて……」
「そうして」

 やけに近い距離で肩を寄せ合い、映画が始まる前のクレジットを眺める。
 途中で眠くなってしまうかもしれないと思ったけれど、意外と集中力が続くもので、ついつい画面を見入ってしまった。

「あっ、いま肩びくってしたでしょ?」
「気付いても言うなよ」
「あそこ、驚くよね。俺も最初驚いたもん」

 一方で、深谷のほうは口ぶり的に一度視聴したことがあるのか、既に飽きているらしい。なぜか、後ろ髪をつんつんと引っ張られた。

「もう寝る? そしたら、映画を消してくれていいけど」
「いや、寝ない」
「寝てもいいのに」
「俺に寝てほしいの?」
「そういうわけじゃないけど。バイトで疲れてねーのかなって」

 ぽつぽつと中身のない会話をしているうちに、だんだん俺の集中力も切れていく。
 気付けば、深谷との会話に意識がそがれていた。

「あのさ、ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「なーに?」
「この部屋、元々別の人が住んでたよね?」

 記憶にある限り、俺が実家に帰省する前までは確かに別の人間が住んでいた。他学部の先輩で、確か四年生だったはず。

 この学生マンションはなかなか空きが出ず、学期が切り替わる春にはすべての部屋が埋まる。年が変わる冬の間に先輩たちが引っ越し、年明けにはすぐに埋まることもざらだ。
 俺は奇跡的に一室だけ空いていたこの部屋をすべり込みでおさえた。だから、夏も終わりそうなこの時期に部屋を確保するのは難しいはず。
 それなのに、深谷が隣人になっていることに驚いた。

「実は前ここに住んでた人、俺が入っているサークルの先輩でさぁ。就活決まって出ていくから、って言われて不動産屋にも話をつけてねじ込んでもらったの。最初は地元から通ってたけど、毎朝大学まで来んの、結構きついなーって」

 深谷も俺も同じ高校出身で、地元も高校の周辺だ。そこから都内まで通えなくはないけれど、一限に間に合わせてくるのは大変なのも理解できる。それに、一年のうちはコマを詰めなければならず、朝から夕方まで学校にいることも多かった。
 そこからさらにサークル活動をするとなると大変だろう。
 だから、深谷が引っ越したくなる気持ちもよくわかった。

「なるほど。だから深谷が急に隣に来たんだ」
「そういうこと。でもさ、俺、引っ越してきた日に挨拶しにいったんだぜ? 成嶋は出てこなかったけど」
「あー、もしかしたら地元に帰ってたときだったかも……」

 どうりで、深谷が引っ越してきたことに気付かなかったわけだ。もし、この部屋にいたら、一発で深谷が越してきたと気づくに違いない。
 なにせ、この学生マンションは家賃が安い代わりに壁が薄く、間取りも狭いのだ。特に壁問題は顕著で、夜中に洗濯機を回そうものなら、その音が筒抜けになるほどよく聞こえる。

「まぁ、隣が成嶋でよかったわ。ずっと、隣誰なんだろーって思ってたし。先輩から聞いた情報だと、黒髪で静かそうな子、だったからイメージわかなくて」
「悪かったね。どこにでもいるようなやつで」
「んなこと言ってねぇじゃん。それに成嶋はさ、めっちゃ綺麗だし」
「それ、聞き飽きたよ。あと、そう言われるの好きじゃない」
「なんで? 長所のひとつじゃん。俺はいいと思うけどな」
「俺は別に気に入ってない」
「ふーん」

 手持ち無沙汰に弄られていた髪から手が離れる。さらりと髪を後ろに流されて、もっと顔を出せばいいのに、と言われた。

「むしろ深谷は出しすぎ。ていうか、髪色変わりすぎ」
「あ、気付いた? 青にしたんだー。その前はピンクだったけど」
「将来、禿げるよ」
「大丈夫ですー。俺の親父、髪ふさふさだし。遺伝って言うじゃん」

 大丈夫と言いながらも、自身の頭のてっぺんをぺたぺたと触っている。どこか禿げてる? と聞かれて、思わず吹き出した。

「禿げてないよ、まだ」
「まだって言うな!」

 焦り出す深谷が面白くて、くすくすと笑えば、俺の顔を見た彼が急に静かになった。

「なに?」
「いや、成嶋が笑うとこ、初めて見たかも」
「そう? 普通に笑うことだってあるよ」
「俺が話かけるときはうっとうしそうにしてたじゃん」
「それは……」

 深谷のことが苦手だから、とは言えずに緩く下唇を噛む。
 今日、たまたま深谷に声をかけてもらわなければ、たとえ彼が隣人であったとしても、俺は最低限の会話しかしなかっただろう。
 それくらい、彼と俺とでは住む世界が違う。
 派手な見た目と明るい性格で、男女問わず人気者の深谷と、人見知りかつ内気な性格で、教室の片隅にいるような俺とではつり合いが取れない。
 波長が合うわけがない、とすら思っていたけれど、実際の深谷は俺が思っている以上に話しやすい男だった。

「深谷が何度も構ってくるから」
「え、そんなに嫌だった?」
「嫌っていうか……」

 なんで地味な俺なんかに構うんだろうという疑問が常に付きまとっていただけだ。あとは、ほんのちょっとの劣等感もあったかもしれない。
 だけど、そんなことは口が裂けても言えないので、距離感が掴めなかっただけだと言葉を濁した。

「考えすぎ。つーか、俺たちもう友だちじゃん?」
「そうなの?」
「そうなの。てか、成嶋にその気がなくても、その気にさせるわ」

 そういう考え方が眩しいのだとは言わずに、あくびをかみ殺す。だけど、無意識のうちにふわっとあくびが零れていた。

「ちょっと寝る?」
「いや、でも……」
「使ってない掛け布団あるし、クッション並べれば体もそんなに痛くなんないっしょ」

 まだ何も言っていないのに、深谷が空いているスペースにクッションを並べ始める。即席の簡易ベッドとも呼べないベッドだったけれど、寝転んだら案外悪くなく、先ほどよりも強い睡魔に襲われた。

「……ごめん、ちょっとだけ寝る」
「いーよ。何時まででも」

 ふわりと掛け布団をかけられて、そのまま目を閉じる。

 枕が変わったり、家族以外の人間がいたりするとあまり眠れないのに、その日は自分でも驚くほどぐっすりと眠れた。