深谷の献身的な看病のおかげなのか、それとも買ってきてくれた薬がよく効いたのか、一夜明けると熱もすぐに下がった。
発熱すると、一気に怠さのピークが過ぎて、いまでは咳と鼻水が少し残っている程度である。 明日になれば、大学に行けそうなほど回復していた。
ただ、念のためバイトには行かない方がいいだろうと判断し、あらかじめ店に連絡しておく。幸いにして、別の人がシフトに入れるようで、その人と変わってもらえることになった。
(なんとか、やることは済ませた……)
熱が下がって動けるようになってから、風呂に入り、体を清めた。部屋も片付け、なんとか人間らしい生活を取り戻す。
片付ける前の汚い部屋に深谷を入れてしまったことを思うと後悔ばかり募るが、いまさらだとも思う。
深谷の部屋は綺麗すぎるし、モデルルームみたいにおしゃれだ。狭いながらも工夫がされていて、物が多そうなのに、あまり散らかっているようにも見えない。その点、俺は物こそ多くないけれど、片付けるのが苦手で、気を抜くとすぐに床の上に物が散乱した。
それらをやっと片付けきったので、ぼんやりとベッドに腰掛けてテレビを見る。
すると、インターホンが鳴った。
「はーい」
誰が来たのだろうかとドアにあるスコープを確認して、宅配便のお兄さんであることに気付く。
寝巻のまま荷物を受け取っていると、その近くに深谷が立っていた。
「あ……」
「おはよ、薫。元気になった?」
まさか宅配便のお兄さんと訪問するタイミングが被るとは思わず、完全に油断しきった格好で深谷と対面することになってしまう。
宅配便のお兄さんはすぐにいなくなり、代わりに深谷が扉の前に立った。
「熱下がった?」
「……うん。おかげ様で。昨日はありがとう」
「どーいたしまして。てか、それ実家から来た荷物?」
伝票を見ると、実家の住所が書かれている。深谷も地元は同じだから住所でわかったのだろう。
両手で抱えられるサイズの小さな箱は、意外にもずっしりしていた。
「そうみたい」
そういえば、実家の方でご近所さんから野菜や果物などをもらったから、俺にもおすそ分けしたいという旨がメッセージアプリ経由で届いていた。二週間前にもらったメッセージだったため、記憶の彼方に飛んでいたけれど、やっといま届いたらしい。
俺は廊下の端っこにその荷物を下ろした。
「野菜とか果物とか余ってるからって送ってくれたみたい」
「へぇ、いいね。助かるじゃん」
「うん、まぁ、そうだけど……」
包丁をほとんど握らない俺には、野菜も果物も持て余してしまう。できればレトルトとかカップ麺とか、すぐに食べられるものの方が嬉しいけれど、好意で送ってくれている手前、希望を言うのは憚られた。
「あ、よかったら野菜とか持っていく?」
「マジ? いいの? でも薫のために送ってきてくれたものじゃねーの?」
「そうだけど……」
段ボールの前にしゃがみ、ガムテープをはがす。中からでてきたのは袋に入ったりんごや梨などの果物と、たまねぎが入っていた。
「俺だと食べきれないだろうし、無駄にしちゃうから」
「ふーん。じゃあ、遠慮なくもらおっかな」
食費が浮くからと言って喜ぶ深谷に、そのほとんどを渡してしまう。一部、日用品なども入っていたため、それらは手元に残すことにした。
「これ使って料理するから、薫も食べにきてよ」
「いいの?」
「いいもなにも、薫のために送ってくれたものだし。薫が食べないでどーすんのさ」
確かに深谷の言う事も一理ある。深谷の料理はおいしいし、楽しみだと思っていると、深谷がニヤリと笑みを深くした。
「それに、薫を家に呼べる口実になるし」
「なっ……!」
なにをバカなことを、と思うけれど、昨日深谷から言われたことを思い出して顔に血が集まる。深谷は一切、引く気がないらしく、さらに距離を詰めた。
「俺の言動で真っ赤になる薫を見てんのおもしれー」
「面白がるものじゃないよ! っていうか、なんで蒼は普段通りなの」
「なんで、ってもう気持ち伝えたし、あとは選ばれるのを待ってるだけだから」
あっけらかんと言い切る深谷に、いわゆる陽キャと呼ばれるような人たちは恐ろしいとすら思ってしまう。そこが深谷のいいところでもあるけれど、俺には到底真似できない振る舞いだった。
「また薫のこと呼ぶから、そのときは来てよ」
「…………うん」
「すっげー間があるじゃん。心配しなくても、すぐに取って食ったりしないから」
「俺は食べ物じゃないよ」
「今はね」
むぎゅっと鼻先を摘ままれて、鈍い痛みが走る。
終始、深谷のペースで、彼が野菜や果物を持って出ていくまで、俺は彼の言動にいちいち心を乱されっぱなしだった。
「また具合悪くなりそう……」
熱が下がったはずなのに、再び体が火照っているような感じがする。
俺は念のため買ってきてもらった薬を飲むと、また眠ることにした。
◇
昨日の見立て通り、今日には随分と体調がよくなり、大学もバイトも休むことなく行けるようになった。
二日間しか休んでいないとはいえ、ちょっとだけ懐かしさを覚える。
大学一年生は単位取得のため、月曜日から金曜日まで講義を詰めがちだ。必修単位も多く、朝の一限目から長いと五限目まで講義を受けている日がある。なるべく無理がないように時間割を組んでいるものの、忙しい日は朝から晩まで大学にいた。
俺はサークルに所属しているとはいっても、あまり積極的に顔を出していない。同好会や部活なども含めると、星の数ほど集まりがあり、所属するものによって活動頻度もまちまちだ。
俺は興味があったサークルの新歓に顔を出したものの、結局ほぼ活動をしていない読書サークルに入った。
漫画でも小説でも好きなものを持ち寄って読み、お互いに勧めあったりするらしいが、ほぼ活動らしい活動はなく、サークル棟は先輩たちのたまり場みたいになっている。
そのサークルを通じてそこそこ知り合いができたものの、参加率自体が低い俺は、そこまで親しい友人を作ることもできず、また華やかなサークル活動に興じるわけでもなく、どちらかというとバイトに力を入れていた。
一人暮らしをするのには何かとお金がかかる。無理をいって都内の大学まで来て、一人暮らしもさせてもらっているのだ。少しでも働いて、生活費の足しにしたいと思っている。
そんなわけで、一日の大半を大学とバイトに費やしている俺は、大学を休むことに対して、若干の罪悪感があった。
真面目すぎると言われるかもしれないけれど、今ここで頑張れば学年が上がった頃には楽になれるのだ。講義にもちゃんと参加したい。
俺は久しぶりに大教室に入ると、空いている中央の席に座った。
「お、今日はちゃんと来てんじゃん」
「蒼?」
「よっす。お疲れー」
深谷が何食わぬ顔で隣の座椅子を下ろし、座ろうとしている。
何百人も収容できる講義室で、なおかつ参加人数もかなりいるこの講義で、深谷に声をかけられたのは初めてだった。
俺が一方的に深谷の姿を見つけることはあっても、深谷の周りには常に人がいるため、彼が俺を見つけるパターンはないだろうと思っていたのに。
「俺がこの講義とってたの、知ってるの?」
「知ってるもなにも、よく見てたし」
「えっ」
「案外、わかるもんじゃね? 友人とかすぐ見つけられるもん、俺」
からりと笑って言うけれど、俺は深谷ほど特徴のある見た目をしているわけではない。髪も黒のままだし、特別目立つ容姿をしているとも思えなかった。
「てか、隣座っていい?」
「いいけど、友だちはいいの?」
「別にー。いつも一緒にいるって決まりがあるわけでもねーし。それに、俺にとっては薫の方が特別」
恥ずかしがる素振りすらなく、歯の浮くようなセリフを言われるとこちらが恥ずかしい。ふいっとそっぽを向くと、教科書を開いた。
「あ、照れた?」
「照れてない。っていうか、もう講義が始まるよ」
前方からレジュメが回ってきて、深谷の分も取って後ろに回していく。
大教室のため、後ろのほうはざわついているものの、いま自分がいる場所はそこまででもなかった。 ただひとつ、五月蠅いと思うのは深谷の視線だろうか。先ほどからじっと見つめられている気がする。
「なに?」
「なにって何が?」
「さっきからずっと俺のこと見てない?」
レジュメから視線を離さないまま、思っていることを口にする。
すると、深谷の手が頬にかかった髪をすくった。
「その髪、邪魔じゃね?」
急に触れられて叫び出したくなる思いをぐっと飲み込み、邪魔じゃないと深谷の手を振り払う。だけど、再び髪の毛を撫でられ、左耳にかけられた。
「ピアスも見せりゃいいのに」
「……知ってたの?」
「たまに見えてるときあるよ」
俺の左耳にはひとつだけピアスが開いている。そこに、シンプルなシルバーのピアスをつけていた。
大学デビューには見た目からと思ってつけてはみたものの、結局恥ずかしさが勝って、あまり周りには見えないよう髪の毛で隠している。そもそも顔を表に出しすぎるのも嫌なため、清潔感だけは残しつつも、サイドの髪は長めにしていた。
「ま、他のやつが薫のきれーな顔に気付いちゃうのも嫌だけど」
こそっと耳打ちされて、そこだけが熱を持つ。俺はわざと体を引くと、深谷から距離を取った。
「なんで逃げるのさ」
「逃げてないよ」
ぷいっとそっぽを向いて、レジュメの端っこに『真面目に講義を受けろ』とペンで書き込む。それを見た深谷が、はぁい、と間延びした返事をひとつ寄こした。
それからは深谷と講義に集中し、きっちり九十分、教授の話に耳を傾ける。
講義が終わったあとは、次の講義があるからと彼とは別れたものの、今日はバイト先でも深谷と顔を合わせることになっていた。
(これから、毎回こんな感じなのかな)
構ってもらえて嬉しいような、でも近すぎて息が詰まるような、不思議な感覚に陥る。
次は別棟で講義が行われるため、俺は荷物を持って外に出た。
枯れ葉が落ちた並木道を歩きながら、ハァと長く息を吐く。
季節が夏から秋、秋から冬へと移り替わり、外で息を吐きだすと白く濁る日があった。今日も吐く息が白く濁る。
気付けばもう十二月に差し掛かろうかという頃で、深谷と出会って三ヶ月以上が経とうとしていた。
「時間が過ぎるのは早いな……」
誰にも聞こえない小ささでぽつりと独り言を零し、夏の青々と茂っていた木々の美しさから一変して寂しくなったキャンパスをひとりで歩いていく。
ひとりだった頃は隣がいない寂しさを自覚することすらなかったのに、今は隣に深谷がいないのは少し寂しいと、そう思ってしまった。
発熱すると、一気に怠さのピークが過ぎて、いまでは咳と鼻水が少し残っている程度である。 明日になれば、大学に行けそうなほど回復していた。
ただ、念のためバイトには行かない方がいいだろうと判断し、あらかじめ店に連絡しておく。幸いにして、別の人がシフトに入れるようで、その人と変わってもらえることになった。
(なんとか、やることは済ませた……)
熱が下がって動けるようになってから、風呂に入り、体を清めた。部屋も片付け、なんとか人間らしい生活を取り戻す。
片付ける前の汚い部屋に深谷を入れてしまったことを思うと後悔ばかり募るが、いまさらだとも思う。
深谷の部屋は綺麗すぎるし、モデルルームみたいにおしゃれだ。狭いながらも工夫がされていて、物が多そうなのに、あまり散らかっているようにも見えない。その点、俺は物こそ多くないけれど、片付けるのが苦手で、気を抜くとすぐに床の上に物が散乱した。
それらをやっと片付けきったので、ぼんやりとベッドに腰掛けてテレビを見る。
すると、インターホンが鳴った。
「はーい」
誰が来たのだろうかとドアにあるスコープを確認して、宅配便のお兄さんであることに気付く。
寝巻のまま荷物を受け取っていると、その近くに深谷が立っていた。
「あ……」
「おはよ、薫。元気になった?」
まさか宅配便のお兄さんと訪問するタイミングが被るとは思わず、完全に油断しきった格好で深谷と対面することになってしまう。
宅配便のお兄さんはすぐにいなくなり、代わりに深谷が扉の前に立った。
「熱下がった?」
「……うん。おかげ様で。昨日はありがとう」
「どーいたしまして。てか、それ実家から来た荷物?」
伝票を見ると、実家の住所が書かれている。深谷も地元は同じだから住所でわかったのだろう。
両手で抱えられるサイズの小さな箱は、意外にもずっしりしていた。
「そうみたい」
そういえば、実家の方でご近所さんから野菜や果物などをもらったから、俺にもおすそ分けしたいという旨がメッセージアプリ経由で届いていた。二週間前にもらったメッセージだったため、記憶の彼方に飛んでいたけれど、やっといま届いたらしい。
俺は廊下の端っこにその荷物を下ろした。
「野菜とか果物とか余ってるからって送ってくれたみたい」
「へぇ、いいね。助かるじゃん」
「うん、まぁ、そうだけど……」
包丁をほとんど握らない俺には、野菜も果物も持て余してしまう。できればレトルトとかカップ麺とか、すぐに食べられるものの方が嬉しいけれど、好意で送ってくれている手前、希望を言うのは憚られた。
「あ、よかったら野菜とか持っていく?」
「マジ? いいの? でも薫のために送ってきてくれたものじゃねーの?」
「そうだけど……」
段ボールの前にしゃがみ、ガムテープをはがす。中からでてきたのは袋に入ったりんごや梨などの果物と、たまねぎが入っていた。
「俺だと食べきれないだろうし、無駄にしちゃうから」
「ふーん。じゃあ、遠慮なくもらおっかな」
食費が浮くからと言って喜ぶ深谷に、そのほとんどを渡してしまう。一部、日用品なども入っていたため、それらは手元に残すことにした。
「これ使って料理するから、薫も食べにきてよ」
「いいの?」
「いいもなにも、薫のために送ってくれたものだし。薫が食べないでどーすんのさ」
確かに深谷の言う事も一理ある。深谷の料理はおいしいし、楽しみだと思っていると、深谷がニヤリと笑みを深くした。
「それに、薫を家に呼べる口実になるし」
「なっ……!」
なにをバカなことを、と思うけれど、昨日深谷から言われたことを思い出して顔に血が集まる。深谷は一切、引く気がないらしく、さらに距離を詰めた。
「俺の言動で真っ赤になる薫を見てんのおもしれー」
「面白がるものじゃないよ! っていうか、なんで蒼は普段通りなの」
「なんで、ってもう気持ち伝えたし、あとは選ばれるのを待ってるだけだから」
あっけらかんと言い切る深谷に、いわゆる陽キャと呼ばれるような人たちは恐ろしいとすら思ってしまう。そこが深谷のいいところでもあるけれど、俺には到底真似できない振る舞いだった。
「また薫のこと呼ぶから、そのときは来てよ」
「…………うん」
「すっげー間があるじゃん。心配しなくても、すぐに取って食ったりしないから」
「俺は食べ物じゃないよ」
「今はね」
むぎゅっと鼻先を摘ままれて、鈍い痛みが走る。
終始、深谷のペースで、彼が野菜や果物を持って出ていくまで、俺は彼の言動にいちいち心を乱されっぱなしだった。
「また具合悪くなりそう……」
熱が下がったはずなのに、再び体が火照っているような感じがする。
俺は念のため買ってきてもらった薬を飲むと、また眠ることにした。
◇
昨日の見立て通り、今日には随分と体調がよくなり、大学もバイトも休むことなく行けるようになった。
二日間しか休んでいないとはいえ、ちょっとだけ懐かしさを覚える。
大学一年生は単位取得のため、月曜日から金曜日まで講義を詰めがちだ。必修単位も多く、朝の一限目から長いと五限目まで講義を受けている日がある。なるべく無理がないように時間割を組んでいるものの、忙しい日は朝から晩まで大学にいた。
俺はサークルに所属しているとはいっても、あまり積極的に顔を出していない。同好会や部活なども含めると、星の数ほど集まりがあり、所属するものによって活動頻度もまちまちだ。
俺は興味があったサークルの新歓に顔を出したものの、結局ほぼ活動をしていない読書サークルに入った。
漫画でも小説でも好きなものを持ち寄って読み、お互いに勧めあったりするらしいが、ほぼ活動らしい活動はなく、サークル棟は先輩たちのたまり場みたいになっている。
そのサークルを通じてそこそこ知り合いができたものの、参加率自体が低い俺は、そこまで親しい友人を作ることもできず、また華やかなサークル活動に興じるわけでもなく、どちらかというとバイトに力を入れていた。
一人暮らしをするのには何かとお金がかかる。無理をいって都内の大学まで来て、一人暮らしもさせてもらっているのだ。少しでも働いて、生活費の足しにしたいと思っている。
そんなわけで、一日の大半を大学とバイトに費やしている俺は、大学を休むことに対して、若干の罪悪感があった。
真面目すぎると言われるかもしれないけれど、今ここで頑張れば学年が上がった頃には楽になれるのだ。講義にもちゃんと参加したい。
俺は久しぶりに大教室に入ると、空いている中央の席に座った。
「お、今日はちゃんと来てんじゃん」
「蒼?」
「よっす。お疲れー」
深谷が何食わぬ顔で隣の座椅子を下ろし、座ろうとしている。
何百人も収容できる講義室で、なおかつ参加人数もかなりいるこの講義で、深谷に声をかけられたのは初めてだった。
俺が一方的に深谷の姿を見つけることはあっても、深谷の周りには常に人がいるため、彼が俺を見つけるパターンはないだろうと思っていたのに。
「俺がこの講義とってたの、知ってるの?」
「知ってるもなにも、よく見てたし」
「えっ」
「案外、わかるもんじゃね? 友人とかすぐ見つけられるもん、俺」
からりと笑って言うけれど、俺は深谷ほど特徴のある見た目をしているわけではない。髪も黒のままだし、特別目立つ容姿をしているとも思えなかった。
「てか、隣座っていい?」
「いいけど、友だちはいいの?」
「別にー。いつも一緒にいるって決まりがあるわけでもねーし。それに、俺にとっては薫の方が特別」
恥ずかしがる素振りすらなく、歯の浮くようなセリフを言われるとこちらが恥ずかしい。ふいっとそっぽを向くと、教科書を開いた。
「あ、照れた?」
「照れてない。っていうか、もう講義が始まるよ」
前方からレジュメが回ってきて、深谷の分も取って後ろに回していく。
大教室のため、後ろのほうはざわついているものの、いま自分がいる場所はそこまででもなかった。 ただひとつ、五月蠅いと思うのは深谷の視線だろうか。先ほどからじっと見つめられている気がする。
「なに?」
「なにって何が?」
「さっきからずっと俺のこと見てない?」
レジュメから視線を離さないまま、思っていることを口にする。
すると、深谷の手が頬にかかった髪をすくった。
「その髪、邪魔じゃね?」
急に触れられて叫び出したくなる思いをぐっと飲み込み、邪魔じゃないと深谷の手を振り払う。だけど、再び髪の毛を撫でられ、左耳にかけられた。
「ピアスも見せりゃいいのに」
「……知ってたの?」
「たまに見えてるときあるよ」
俺の左耳にはひとつだけピアスが開いている。そこに、シンプルなシルバーのピアスをつけていた。
大学デビューには見た目からと思ってつけてはみたものの、結局恥ずかしさが勝って、あまり周りには見えないよう髪の毛で隠している。そもそも顔を表に出しすぎるのも嫌なため、清潔感だけは残しつつも、サイドの髪は長めにしていた。
「ま、他のやつが薫のきれーな顔に気付いちゃうのも嫌だけど」
こそっと耳打ちされて、そこだけが熱を持つ。俺はわざと体を引くと、深谷から距離を取った。
「なんで逃げるのさ」
「逃げてないよ」
ぷいっとそっぽを向いて、レジュメの端っこに『真面目に講義を受けろ』とペンで書き込む。それを見た深谷が、はぁい、と間延びした返事をひとつ寄こした。
それからは深谷と講義に集中し、きっちり九十分、教授の話に耳を傾ける。
講義が終わったあとは、次の講義があるからと彼とは別れたものの、今日はバイト先でも深谷と顔を合わせることになっていた。
(これから、毎回こんな感じなのかな)
構ってもらえて嬉しいような、でも近すぎて息が詰まるような、不思議な感覚に陥る。
次は別棟で講義が行われるため、俺は荷物を持って外に出た。
枯れ葉が落ちた並木道を歩きながら、ハァと長く息を吐く。
季節が夏から秋、秋から冬へと移り替わり、外で息を吐きだすと白く濁る日があった。今日も吐く息が白く濁る。
気付けばもう十二月に差し掛かろうかという頃で、深谷と出会って三ヶ月以上が経とうとしていた。
「時間が過ぎるのは早いな……」
誰にも聞こえない小ささでぽつりと独り言を零し、夏の青々と茂っていた木々の美しさから一変して寂しくなったキャンパスをひとりで歩いていく。
ひとりだった頃は隣がいない寂しさを自覚することすらなかったのに、今は隣に深谷がいないのは少し寂しいと、そう思ってしまった。

