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濡れた何かが額からすべる落ちる感覚で目が覚めた。
落ちたものを摘まみ上げると、微妙な温度になった濡れタオルであることに気付く。ゆっくりと視線を動かしてから、そういえば深谷が部屋に来てくれたことを思い出した。
その深谷はというと、俺のベッドに上半身だけを預ける形で眠っている。どうやら、買い物を終えたあと、そのまま帰ることなくここにいて看病してくれたらしい。
俺は、深谷らしいなと思って小さく笑いながら体を起こすと、右手がやけに温かいことに気付いた。
「なっ」
驚いて小さな悲鳴を上げる。右手を見ると、なぜか深谷の手と繋がっていた。
「さ、さすがに心配しすぎだよ……」
いくらなんでも手を握るだなんて。幼子でもあるまいし、と手を引っ込めようとするも、逃がさないとばかりにぎゅっと強く手を握られた。
「……もしかして、起きてる?」
「バレた?」
「さすがに反応があれば」
「といっても、振動を感じて起きたんだけど」
ふわっとひとつあくびをして深谷が体を起こす。だけど、右手は繋がれたままだった。再度、手を引こうとするも、今度は指の間に深谷の指が滑り込んできて逃げられなくなる。
一体どうして、と深谷を見れば、真剣な目で見つめ返された。
「……お願いだからさ、あんま心配かけないで」
不安になるから、と深谷に言われしまい、俺はきゅっと下唇を噛む。
深谷に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。だけど、それと同時に、どうしてそこまで気にかけてくれるのだろうかという純粋な疑問が湧く。
いつもだったらそのまま流すけれど、今日は理性が働いていないせいか、いつもより大胆になっていた。
「あのさ、蒼。蒼はどうしてそこまで俺のこと、心配してくれるの……?」
ちょっとした期待も込めて聞いてみる。
深谷にとって、一番大事なポジションでいたい。誰よりも特別な、他の友人たちとは違うのだと言ってほしかった。
だけど、返ってきたのは予想の斜め上をいく言葉だった。
「薫のことが好きだから」
ぎゅうっと痛いぐらいに手を握られたかと思ったら、強く体を引かれる。そのまま深谷に抱き締められた。
「俺だって、優しくする人は選ぶよ」
「ちょ、あおい……!?」
「言っておくけど、友だちって意味じゃねーから。特別な意味の好きだから」
そこまで言われたら鈍感な自分でもわかる。
一気に全身の血が沸騰するほど熱くなって、心臓が大きな音を立てた。
「やばっ、薫の心臓、めっちゃドクドクいってる」
「ね、熱のせいだから!」
「誤魔化すの下手すぎじゃね? まぁ、意識してくれてるのは嬉しいけど」
ぽんぽんと背中を撫でられて、徐々に気持ちが落ち着いてくる。それでも深谷とぴたりとくっついた腕や胸は熱かった。
「俺、高校の頃から薫のことが気になってたんだよね」
「高校から……?」
「そ。最初は綺麗な顔なのに、本人は全然気にしてなさそうだったから、もったいねーって思ってて。前髪もいまよりうざいぐらいに伸ばしてたじゃん」
「それは黒歴史だから……」
「もっと前に出たら、みんなに好かれるのに、って思ってたんだけど、いま思うとそれも薫のよさだったのかも」
背中を撫でていた手が後頭部に伸びる。汗でベタついているだろうに、それでも深谷は丁寧に髪を梳いてくれた。
「でも、そのときはただ気になるなーってだけだったんだけど、同じ大学で薫を見て、こうして隣同士になって、好きだなぁ、って思ったんだよね。つか、もう気になってる時点で好きってことじゃん! ってあとから気付いたんだけどさぁ。ただ、そうなると俺、ずっと薫に恋してんね」
髪を梳く手がぴたりと止まって、抱き締められていた体を解放される。
深谷のほうが恥ずかしいことを言っているはずなのに、なぜか俺のほうが恥ずかしさで赤面していた。
「りんごみたいに真っ赤」
「だから、熱だってば」
「まぁ、なんでもいいけどさ。俺は薫のことが好きだから、昨日も他の奴と仲良くしてたのが気に入らなかったってだけ。でも、薫も似たようなこと言い出したから、もしかして嫉妬してくれてんのかな、って思ったんだけど」
だから、深谷は嫉妬してるのかと俺に聞いたのか。
俺は深谷のいう嫉妬を違った方向で捉えていた。そうして言い争って、ムキになって土砂降りの中を走って、風邪を引いて。
こうなったのはすべて、自分の責任だった。
「ごめん、俺は違う意味で嫉妬してるのかと言われたんだと思って……」
「わかってるよ。俺の勘違いだったってことは。でも、薫も俺と同じような意味で嫉妬してくれたら嬉しいなって思っただけ」
熱くなった頬に深谷の手が伸びてくる。触れられた指先が自分の体温と変わらないほど熱くて、そこだけ温度が混じりあった。
「ね。薫は俺のこと、どう思ってんの?」
そう尋ねられて、俺は右へ左へと視線をさまよわせながら逡巡する。
深谷のことは好きだ。だけど、深谷と同じ好きを返せるのか自信がない。あくまでも数いる友だち枠の中で、特別な存在でありたいとは思っていたけれど、友情を超えた好きについて考えたことがなかった。
そのことを素直に深谷に伝えたら、彼は目を丸くしたのち、プッと吹き出した。
「なにそれ、薫らしいわ」
「わ、笑わないでよ……」
「悪いって。でもま、今はそれでいいよ」
もう一度、今度は優しく抱き締められて、額を肩に押し付けられる。俺も腕を回すべきなのかどうか迷っていると、今まで聞いたこともないような甘い声で「薫」と名前を呼ばれた。
「だったら、これから俺のこと好きになって?」
まるで懇願のような、だけど宣戦布告のようにも取れる言葉を口にした深谷に、体を押し潰されそうなほど強く抱き締められる。
俺は背中に回そうとしていた手をぴたりと止めた。
「絶対、好きになってもらうから」
好戦的にニヤリと笑った深谷に、俺はハッと息を詰まらせる。
気持ちを伝えたことで吹っ切れたのか、深谷の闘志に火がついたようだった。
「なに、言って……」
「俺は本気だから。逃げんなよ」
そう言って、深谷が俺の肩をゆっくりと押し、ベッドへと戻される。めくれ上がった布団を肩まで引き上げると、良くなるまじないをかけるかのごとく、ぽんぽんと肩を叩いた。
「それじゃあ、俺戻るから、何か欲しいものがあったらすぐに連絡して。食べ物とか飲み物とか、冷やさなきゃいけないのは冷蔵庫の中にとりあえず入れたから」
「……うん」
「薬も袋の中にあるからちゃんと飲めよ」
深谷から説明を受けて、こくこくと首を振る。深谷は最後に一度だけ俺の頭を撫でると口角を上げた。その美しい微笑みは、さながら悪役の去り際のようでもある。一度、狙った獲物は逃がさないと言わんばかりに、深谷が好戦的に笑った。
「また来るから。今度は必ず部屋に入れて」
先ほどのことを根に持っているのか念を押されてしまい、また首だけを振って答える。
一切の遠慮がなくなった深谷の背中を見送った俺は、枕元に顔をうずめると、うわああああっと叫んだ。
それからすぐにガコンと玄関の方から音がして、ハッと息を呑む。
どうやら、使用した鍵をドアポストの中に入れてくれたらしい。明日ぐらいまで持っていても困らないのに、わざわざ返しに来たということは、俺の意思で部屋の扉を開けろということなのだろう。
一体、どんな顔で深谷を招き入れたらいいのかと今から緊張してしまって、心臓が嫌な音を立てる。
「風邪、悪化しそう……」
そしたら全部深谷のせいだ。なにもかも深谷のせいにしてしまえ、とやけになりながら、俺は枕に顔をうずめて足をバタバタと無意味に動かした。

