雨に濡れたのは五分程度だったはずなのに、その後すぐに体を温めなかったのが悪かったのか、俺は見事に風邪を引いていた。

「あー……、喉いた……」

 ゲホゲホとくぐもった咳が出て、鼻水が口元まで流れてくる。

 一人暮らしをしてから、初めて風邪を引いた。それも軽い風邪ではなく、発熱を伴う風邪だ。咳も鼻水も止まらないし、熱も上がり続けている。
 風邪を引くなんて思っていなかったから、家には何もなかった。体温計だけは辛うじて家を出るときに持たされていたけれど、風邪薬もなければ食べる物もない。
 飲み物も底を尽きそうで、いまあるペットボトルのお茶がなくなったら、蛇口をひねって水道水を飲むしかない。ネットで注文するのもありだけれど、数十分で届くわけでもないし、食べ物も風邪を引いた人が食べるようなものはラインナップの中になかった。万事休すだ。

「あたま……ガンガンする……」

 寝返りを打つのにすら体力を使ってしまうし、頭を動かすだけでひどく痛む。
 今日はたまたまバイトのシフトがなかったけれど、このまま熱が下がらないようであれば、明日はバイトを休まなければならないかもしれない。
 大学は一回ぐらい休んでも単位にそこまで影響しないけれど、それでも何日も休むのは気が引ける。
 熱とは違う意味で頭が痛くなってきた頃、ブーっと携帯が鳴った。

(蒼からの連絡だ……)

 きっと俺が大学にいないことを心配してなのだろう。今日は一限目から語学の講義が入っていたから、大学を休んでいることは深谷にも気付かれている。
 朝からメッセージアプリで何度も連絡が来ていたけれど、俺はそのすべてを無視していた。

(だって、深谷が変なこと言うから……)

 俺は深谷の人気に嫉妬しているわけではないのに。ただ深谷が他の人に――特に女子たちに――囲まれているところを見るのが嫌なだけなのに。
 深谷が誰かのものになってしまうかもしれないのが、友人として嫌なだけだ。ただ、それだけ。

「はぁ……最悪……」

 風邪を引くわ、深谷との関係も険悪になるわで、体も怠ければ頭も痛い。着ている寝巻が汗でべたついて気持ち悪いけれど、いまは一歩も動きたくなかった。
 ご飯も薬も着替えも全部、ボタン一つでできたらいいのに、とあり得ないことを考えつつ目を閉じる。
 すると、俺の睡眠を邪魔するように、インターホンの音と共に激しく扉を叩く音がした。それと同時に携帯も震える。
 画面を見ると、電話は深谷からだった。おそらく、インターホンを押しているのも、扉を叩いているのも深谷だろう。
 しばらくやり過ごして無視することにしたが、いつまで経っても鳴りやまない電話にイライラして、俺は仕方なく通話ボタンを押した。

「あ、やーっと出てくれた! 薫、今日大学休んでたけど大丈夫?」
「……大丈夫じゃないから休んでるんだよ」

 ウイルスにやられて喉が掠れているのか、引き攣れたような声になる。苦しくなってゴホゴホと咳き込めば、大丈夫!? と電話口で声を張り上げられた。耳の奥がキーンとして、また頭が痛む。

「ただの風邪だよ……。だから、ほっといて」
「風邪だったらなおさらほっとけないでしょ。ね、お願い。中に入れて」

 お願いだから、と念押しされるも、俺は絶対にダメだと深谷からの申し出を押し返す。
 そもそも昨日、言い争ったばかりなのだ。気まずいし、なによりこんな弱った姿を深谷に見せたくないとも思う。
 俺は、話は終わりだと言わんばかりに大丈夫だと伝えると、無理やり電話を切った。
 フーッと長い息を吐き、携帯をシーツの上に放り投げる。

(あー……、あっつー……)

 いまの深谷との会話で、余計に熱が上がった気がする。怒りがぶり返す一方で、深谷の声を聞けて嬉しい自分もいて、矛盾する自分の思考に嫌気がさした。

(きっと、風邪で頭がおかしくなってるんだ……)

 そう思うことにして、再び目を閉じる。だけど、深谷は諦めるつもりがないのか、またドンドンと扉を叩き始めた。

「あぁ、もう!」

 うるさい! と文句を言いながら、必死に体を引きずって玄関扉の前までやってくる。お願いだから帰って、とドア越しに伝えるも、深谷は扉を叩くのをやめなかった。

「……近所迷惑になるからやめて」
「あっ、やーっと開けてくれた」

 うっすらと扉を開けると、すぐにつま先を玄関にねじ込まれて閉められなくなる。びっくりして扉から手を離したら、猫のようにするりと深谷が部屋に入ってきた。

「なんで来たの」
「なんでって心配だからに決まってんでしょ。心配ぐらいさせてよ」
「心配してくれるのは嬉しいけれど、俺は」

 大丈夫だから、という前に激しく咳き込む。深谷は俺の背をそっと撫でると、ふらつく体を支えてくれた。

「文句はあとでたーっぷり聞くからさ。今は薫のこと心配させて。ね?」

 小さな子どもをあやすような柔らかな声で言われて、俺はこくんと頷く。不思議とさっきまで感じていた怒りはなく、むしろ深谷の顔を見れた安心感の方が大きかった。

「薬はある?」
「ない……」
「飲み物とか食べ物は?」
「それもない……です」

 この部屋に何もないことを知った深谷がハァ、と溜め息をつく。それでよく俺を追い出そうとしたな、と言われたら返す言葉もなかった。

「とにかく薫は寝てて。買い物は俺が行ってくるから。飲み物と食べ物、あと薬と冷やすもの……」

 深谷がすさまじい勢いで携帯を操作しながら、あれこれ必要なものを挙げていく。買い物リストでも作っているのか、あれやこれやと口にしながら他に必要なものはないか聞いてきた。

「大丈夫。薬と飲み物さえあれば……」
「ちゃんと食べないとだーめ。本当は付きっ切りで看病したいけど、さすがに明日は無理だし、簡単に食べられそうなもの買ってくるから」
「ありがとう」
「だから薫は寝てて」

 普段から小さな弟の面倒をよく見ているのか、ベッドに入ってから布団をかけるまでの所作に無駄がない。俺は口元まで布団をかぶると、深谷の後ろ姿をぼんやりと見つめた。

「部屋の鍵、借りていい?」
「うん。鞄の中に入ってる。あと、財布も……あるから、おかね、持って行って」
「オッケー。買い物したらすぐ戻って来るから」

 そう言って深谷は俺の鍵を手にすると、部屋を出て行った。
 数分前まで、ひとりでいたはずで、特別寂しいと思っていなかったというのに、深谷が来て人がいることの安心感を覚えたからなのか、途端に静かになってしまった部屋が寂しく感じる。
 俺はいまいち焦点の定まらない目で天井を見つめると、湿り気を帯びた息を吐き出した。

(ほんと、面倒見よすぎ……)

 深谷の家族でもないのに。恋人でもないのに。
 最近ではやっと友人なのだと理解できるようになったけれど、それでも俺は深谷にとってたくさんいる友人枠のうちのひとりにすぎないだろう。
 それなのに、深谷は俺のために買い物へ行ってくれている。きっと、このあとの看病だってするつもりだろう。
 どこまでも世話焼きな深谷に呆れつつも、嬉しいと思う自分がいた。

(もし俺がここに住んでなかったら、きっと蒼と仲良くなることもなかっただろうに……)

 もっと言えば、鍵を忘れていなければここまで親しくなることもなかった。あの夜、犯したひとつの失敗から、今日まで深谷との縁が続いている。はじめはその薄く立ち消えそうな縁に興味などなかったし、いっそのこと消えてくれたら気が楽なのにと思っていたけれど、今はその縁が切れてほしくないと思っている。
 深谷に迷惑をかけたいとは思っていないけれど、面倒を見てもらえることを嬉しく思っている自分がいた。

「俺もどうかしてるな……」

 自分自身に呆れながら呟くも、それ以降は発熱のしすぎで、強制的に意識が飛んだ。