嫌な汗が背中を伝う。
真夏の夜特有の不快な暑さからくる汗というよりは、冷や汗による不快極まりないほうの汗だ。
俺は持っていた鞄をその場でひっくり返す勢いで底までさらうと、血眼になって家の鍵を探した。
「最悪……。家の鍵、バイト先に忘れた……」
ハァと重たい息を吐きだし、扉の前でずるずるとしゃがみ込む。
自室は目の前だというのに、部屋の中に入れない。クーラーが効いた部屋でカップ麺でも啜りながら、深夜バラエティを見つつ、だらだらと過ごそうと思っていたのに、すべてのプランが白紙になってしまった。
俺、成嶋薫は、借りている学生マンションから徒歩二十分の場所にあるカフェでバイトをしている。日付が変わる二十四時まで営業しているカフェで、今日はラストのシフトに入っていた。
おそらく、家の鍵はバイト先のロッカーの中だろう。荷物をあさったときに鍵をロッカーの中で落としてしまったに違いない。そういえば、ちゃりんと音がしたような気がする……と数時間前のことを思い出して、俺はまた溜め息をついた。
(とにかく、どこかで時間を潰さないと……)
時刻は二十五時だ。さすがにバイト先も閉まっているだろうし、今から鍵を取りに戻ったとしても無駄足になるだろう。だからといって、深夜に蒸し風呂状態の暑さの中、マンションの前でうずくまっているわけにもいかない。
ほどよくクーラーが効いていて、なおかつ朝まで営業している店となると、ネカフェかファーストフード店か。どうであれ、逃げ込める先を探さなければ。
(ここでうだうだと悩んでも仕方がないし、とりあえず店を探すか……)
潔く部屋に入ることを諦めて、暑さをしのげる場所を探そうと立ち上がったときだった。
「こんばんはー」
突如、上から間延びした声が降ってきて顔を上げる。
ゆるい話し方に、大きな背を丸く屈めて、気怠そうにこちらを見下ろす長身の男には見覚えがあった。
だけど、本来ならここにいるべき人ではないはず……と、困惑と驚きで口がぱかりと開きっぱなしになる。
俺に声をかけてきた男は、わざわざ目線を合わせるためなのか、隣にすとんとしゃがみ込んだ。組んだ腕に顎を乗せ、こてんと首を傾げる姿があざとくて無性に腹が立つ。
「こんなところでなにしてんの?」
「深谷……」
「あ、俺のことちゃんと覚えてくれてたんだ?」
「覚えてるもなにも……」
同じ大学に通っているだろう、という言葉は飲み込み、イマイチ掴みどころのない男の顔をじっと見つめる。
深谷蒼。彼は、俺と同じ都内の大学に通っている男だ。学部も同じで、なんの因果か語学のクラスまで一緒である。もっといえば、彼は同じ地元の高校に通っていた同級生でもあった。
なぜか彼とは三年間同じクラスだったけれど、俺と深谷はそこまで仲良くない。
……というより、俺は高校の頃から深谷のことが苦手だった。
俺たちが通っていた高校は偏差値がそこそこ高く、勉強さえしっかりやっていれば、あとは各々の判断に任せることを念頭においた校則になっている。そのため髪の色は自由だ。
ほとんどの生徒が黒ではあるものの、中には深谷のように派手な色に染めてくる生徒もいる。
深谷は高校のとき金髪だった。さすがに受験シーズンや、学外授業があるときは茶髪に戻していたけれど、派手な髪色であることが多い。そして今は青。実に忙しいやつだと思う。
それに、深谷は見た目も整っており、性格も明るいため、常に誰かが彼の周りにいた。男女ともに人気が高く、クラスの人気者。
そんな深谷が俺に興味を示すはずもなく――と思いきや、実際は違った。
こちらがどれだけ素っ気ない態度を取っても、深谷は何度も俺をクラスの輪に入れようとした。
俺は人見知りな性格だ。おまけに名前が薫なのもあって、名前だけを見て女性に間違われることもしばしばある。見た目も男らしいといよりは、可愛いね、綺麗だね、と言われることが多く、それが地味にコンプレックスだった。
だから、なおのこと男らしくて明るくて人気者な深谷のことを好きになれなかった。
俺のことなんか構わなければいいのに、と何度思ったかわからない。だけど、深谷はなぜか地味で冴えない性格の俺にも分け隔てなく接してくれる。
それは大学生になっても変わらず、最近こそ関わることがなかったものの、入学したてのときは「同校のよしみじゃん!」と暫くは絡まれた。
だけど、それも次第になくなり、もう関わることもないだろうな、と思っていたらこれである。
俺は一度、持っていた鞄をぎゅっと抱えると、立ち上がって深谷を見下ろした。
「なんでもないから気にしないでください」
「んな他人行儀にならなくてもいーじゃん。つか、敬語やめて。距離感じる」
わざとそうしてるんだけど、とは言わずに、俺はダメ押しで鞄の中に手を突っ込む。ありとあらゆるポケットを開け、鞄の底まで手を突っ込んでみたけれど、結果は同じだった。
「なに? 鍵なくした?」
「なくしてない」
「じゃあ早く部屋に入りなよ。あちぃし、さっさと部屋に入って涼んだほうがいーよ」
「……」
部屋に入るまで見届けるつもりなのか、立ち上がった深谷にじっとこちらを観察される。
鍵なんてどこにもないのだ。部屋に入るのは不可能に決まっている。だけど、どうすることもできなくてドアノブを握った。もちろん、扉は開かない。
「やっぱ鍵ないじゃん」
「うるさい。深谷には関係ないだろ」
「まーね。でも、同級生を真夏の夜に放置するわけにもいかないでしょ」
深谷がガチャガチャと鍵を差し込み、隣の扉を開ける。こちらを見つめたままの彼に、俺は首を傾げた。
「えーっと……」
「ほら、入んなよ」
「いや、でも……」
「行くとこないんでしょ? わざわざ暑い中歩いて、金払ってネカフェで涼みたいっていうなら止めねーけど」
「うっ」
お金を稼ぐためにバイトをしたのに、そのバイト代をみすみすネカフェで費やしてしまうのは惜しい。
それになりより、数日前まで一週間ほど地元に帰り、高校時代の友人と遊んでいた。お金はすっからかんで、そのためにも今日、バイトをしてきたのだ。
予期せぬ痛い出費をしたくないのも事実で。
いろんなことを天秤にかけた結果、俺は深谷の誘いを断り切れず、彼の部屋にしぶしぶ入った。
真夏の夜特有の不快な暑さからくる汗というよりは、冷や汗による不快極まりないほうの汗だ。
俺は持っていた鞄をその場でひっくり返す勢いで底までさらうと、血眼になって家の鍵を探した。
「最悪……。家の鍵、バイト先に忘れた……」
ハァと重たい息を吐きだし、扉の前でずるずるとしゃがみ込む。
自室は目の前だというのに、部屋の中に入れない。クーラーが効いた部屋でカップ麺でも啜りながら、深夜バラエティを見つつ、だらだらと過ごそうと思っていたのに、すべてのプランが白紙になってしまった。
俺、成嶋薫は、借りている学生マンションから徒歩二十分の場所にあるカフェでバイトをしている。日付が変わる二十四時まで営業しているカフェで、今日はラストのシフトに入っていた。
おそらく、家の鍵はバイト先のロッカーの中だろう。荷物をあさったときに鍵をロッカーの中で落としてしまったに違いない。そういえば、ちゃりんと音がしたような気がする……と数時間前のことを思い出して、俺はまた溜め息をついた。
(とにかく、どこかで時間を潰さないと……)
時刻は二十五時だ。さすがにバイト先も閉まっているだろうし、今から鍵を取りに戻ったとしても無駄足になるだろう。だからといって、深夜に蒸し風呂状態の暑さの中、マンションの前でうずくまっているわけにもいかない。
ほどよくクーラーが効いていて、なおかつ朝まで営業している店となると、ネカフェかファーストフード店か。どうであれ、逃げ込める先を探さなければ。
(ここでうだうだと悩んでも仕方がないし、とりあえず店を探すか……)
潔く部屋に入ることを諦めて、暑さをしのげる場所を探そうと立ち上がったときだった。
「こんばんはー」
突如、上から間延びした声が降ってきて顔を上げる。
ゆるい話し方に、大きな背を丸く屈めて、気怠そうにこちらを見下ろす長身の男には見覚えがあった。
だけど、本来ならここにいるべき人ではないはず……と、困惑と驚きで口がぱかりと開きっぱなしになる。
俺に声をかけてきた男は、わざわざ目線を合わせるためなのか、隣にすとんとしゃがみ込んだ。組んだ腕に顎を乗せ、こてんと首を傾げる姿があざとくて無性に腹が立つ。
「こんなところでなにしてんの?」
「深谷……」
「あ、俺のことちゃんと覚えてくれてたんだ?」
「覚えてるもなにも……」
同じ大学に通っているだろう、という言葉は飲み込み、イマイチ掴みどころのない男の顔をじっと見つめる。
深谷蒼。彼は、俺と同じ都内の大学に通っている男だ。学部も同じで、なんの因果か語学のクラスまで一緒である。もっといえば、彼は同じ地元の高校に通っていた同級生でもあった。
なぜか彼とは三年間同じクラスだったけれど、俺と深谷はそこまで仲良くない。
……というより、俺は高校の頃から深谷のことが苦手だった。
俺たちが通っていた高校は偏差値がそこそこ高く、勉強さえしっかりやっていれば、あとは各々の判断に任せることを念頭においた校則になっている。そのため髪の色は自由だ。
ほとんどの生徒が黒ではあるものの、中には深谷のように派手な色に染めてくる生徒もいる。
深谷は高校のとき金髪だった。さすがに受験シーズンや、学外授業があるときは茶髪に戻していたけれど、派手な髪色であることが多い。そして今は青。実に忙しいやつだと思う。
それに、深谷は見た目も整っており、性格も明るいため、常に誰かが彼の周りにいた。男女ともに人気が高く、クラスの人気者。
そんな深谷が俺に興味を示すはずもなく――と思いきや、実際は違った。
こちらがどれだけ素っ気ない態度を取っても、深谷は何度も俺をクラスの輪に入れようとした。
俺は人見知りな性格だ。おまけに名前が薫なのもあって、名前だけを見て女性に間違われることもしばしばある。見た目も男らしいといよりは、可愛いね、綺麗だね、と言われることが多く、それが地味にコンプレックスだった。
だから、なおのこと男らしくて明るくて人気者な深谷のことを好きになれなかった。
俺のことなんか構わなければいいのに、と何度思ったかわからない。だけど、深谷はなぜか地味で冴えない性格の俺にも分け隔てなく接してくれる。
それは大学生になっても変わらず、最近こそ関わることがなかったものの、入学したてのときは「同校のよしみじゃん!」と暫くは絡まれた。
だけど、それも次第になくなり、もう関わることもないだろうな、と思っていたらこれである。
俺は一度、持っていた鞄をぎゅっと抱えると、立ち上がって深谷を見下ろした。
「なんでもないから気にしないでください」
「んな他人行儀にならなくてもいーじゃん。つか、敬語やめて。距離感じる」
わざとそうしてるんだけど、とは言わずに、俺はダメ押しで鞄の中に手を突っ込む。ありとあらゆるポケットを開け、鞄の底まで手を突っ込んでみたけれど、結果は同じだった。
「なに? 鍵なくした?」
「なくしてない」
「じゃあ早く部屋に入りなよ。あちぃし、さっさと部屋に入って涼んだほうがいーよ」
「……」
部屋に入るまで見届けるつもりなのか、立ち上がった深谷にじっとこちらを観察される。
鍵なんてどこにもないのだ。部屋に入るのは不可能に決まっている。だけど、どうすることもできなくてドアノブを握った。もちろん、扉は開かない。
「やっぱ鍵ないじゃん」
「うるさい。深谷には関係ないだろ」
「まーね。でも、同級生を真夏の夜に放置するわけにもいかないでしょ」
深谷がガチャガチャと鍵を差し込み、隣の扉を開ける。こちらを見つめたままの彼に、俺は首を傾げた。
「えーっと……」
「ほら、入んなよ」
「いや、でも……」
「行くとこないんでしょ? わざわざ暑い中歩いて、金払ってネカフェで涼みたいっていうなら止めねーけど」
「うっ」
お金を稼ぐためにバイトをしたのに、そのバイト代をみすみすネカフェで費やしてしまうのは惜しい。
それになりより、数日前まで一週間ほど地元に帰り、高校時代の友人と遊んでいた。お金はすっからかんで、そのためにも今日、バイトをしてきたのだ。
予期せぬ痛い出費をしたくないのも事実で。
いろんなことを天秤にかけた結果、俺は深谷の誘いを断り切れず、彼の部屋にしぶしぶ入った。

