5月19日、日曜日の夜。
 朔太郎の部屋には、プリントの束と蛍光ペンのキャップが散らばっていた。机の上はすでに“戦場”だった。
 「っしゃー……あと理科と現社……ぶっこむぞ……!」
 体育会系とは思えない集中力で、彼は教科書に赤線を引いていた。
 ただしその集中は、**一夜漬け特有の“火事場の馬鹿力”**で成り立っている。
 「ま、俺にはこのやり方しかねぇしな……」
 自嘲気味に笑ったその瞬間、モニターの通知がピコンと鳴る。
 ——〈着信:春日莉音〉
 「お、来た」
 クリックすると、画面に莉音の顔が映った。
 部屋の照明は柔らかく、机には教科書とノート、そしてタイマーが並んでいた。
 「こんばんは。進捗、どう?」
 「理科の暗記が8割、現社は……たぶん5割。てか、お前も今やってんのか?」
 「当然。スケジュール通りに進めてるところ」
 「スケジュール……か。お前のその“計画で動いてます感”、たまに羨ましいわ」
 「計画立てるのは、余裕を持つため。突発的なトラブルで慌てたくない」
 「俺は……トラブルに突っ込んでから考えるタイプだな」
 「知ってる。そういう走り方、見たから」
 画面越しに言われて、朔太郎は苦笑する。
 そこへ、さらに着信音。
 ——〈着信:藤谷竜輝〉
 「おっ、きたな。三人集まったな」
 竜輝の画面には、カップラーメンとアイスが並んでいた。
 「なにその組み合わせ……」
 「眠気飛ばすには糖分と塩分でしょ? でさ、そっち進捗どーよ?」
 「こっちは詰め込み中。春日は進捗率92%くらいだってさ」
 「マジか。相変わらずすげぇな……てことで、俺から提案があります」
 竜輝が、満面の笑みを浮かべて言った。
 「はいこれ、中間の過去問PDF。5年分。ふたりに送る」
 「……マジで!?」
 「ただし、条件付き」
 莉音が鋭く訊ねる。
 「条件?」
 「今度のゼミ対抗リレー、俺をメンバーに入れること。三枝も、春日も。それでチーム組もうぜ」
 「……お前、推薦狙ってんの?」
 「それもあるけど……お前らと本気でやってみたいんだよ。いつも“横で応援”だけじゃ、つまんねぇだろ」
 静かな一言だった。朔太郎も、莉音も、一瞬黙った。
 「……わかった。じゃあそのPDF、今すぐ送れ」
 「交渉成立。ほい、ドーン!」
 ファイルがチャット欄に現れた瞬間、朔太郎は叫んだ。
 「よし、これで5点は底上げ確定!」
 莉音は微笑みながら、静かに言った。
 「まったく……数字のためじゃなく、“並走したい”って言葉に弱すぎる」

 深夜0時を回っても、通話は切れなかった。
 3人の画面にはそれぞれ異なる教科書と、異なる勉強法。
 けれど、不思議とテンポは合っていた。
 「おーい、数学の確率、出るかなあ?」
 竜輝が額をポリポリかきながら言う。
 「去年は大問1で出てる。でも今年は数列との組み合わせかも。去年までの傾向から、連続出題の可能性は65%」
 「マジ分析やめろって。プレッシャーになるだろ」
 「分析されるのが嫌なら、分析されないくらいの準備をすればいい」
 莉音の返しに、竜輝と朔太郎は同時に呻いた。
 「出たよ……絶対王者の理論」
 「つよい……つよすぎる……」
 苦笑しながらも、朔太郎は頭のどこかでそのロジックをなぞっていた。
 (“準備の差が勝敗の差”か。……走るのも、似てるな)
 「……なあ、春日」
 ふいに口を開く。
 「このゼミさ、結局“競争”なんだよな? 点数、勝ち負け、推薦。全部順位が決めるってさ」
 「そうね」
 「でも、お前、誰かと一緒にやるの、嫌いじゃないんだろ?」
 「……どうしてそう思うの?」
 「言い方がさ、冷静だけど、どっか優しい。理屈で切り捨てるってより、できる限り“一緒に進もう”って感じする。俺にはそれが、ちょっとありがたくてさ」
 莉音は、しばし黙っていた。
 画面越しに、考え込むように下を向き、それから静かに言った。
 「……昔、全部ひとりでやろうとして、壊れたことがあるの」
 「……」
 「だから今は、手を貸されたら受け取るし、頼られたら返す。お互いに助かる方法を選ぶ。それが、わたしの“最適解”」
 その声に、朔太郎の胸がふっと軽くなる。
 勝つためじゃなく、支え合うために積まれた理論。
 莉音の冷静さの裏にあった、それを初めて知った気がした。
 「じゃあさ……」
 「ん?」
 「その“最適解”、今夜だけは俺にも使ってくれ。あと英語の熟語、3つわかんねぇ」
 「……最適解にも限界があるけど、今夜は特別」
 クスッと笑いながら、莉音は画面を切り替え、英単語クイズを出し始めた。
 朔太郎は、少しだけうれしそうにそれを口に出して繰り返す。
 そして——
 「よーし、じゃあ夜明けまで走り切るぞ、勉強で!」
 竜輝の雄叫びに、ふたりの声が重なった。
 「おー!」
 「やれやれ……」
 青春の深夜は、静かに熱かった。
 それは“戦い”であり、どこか“仲間との並走”でもあった。

【第9章 完】