ゴールデンウィーク初日、午前6時。
まだ夜明けの涼しさが残る中、朔太郎たちは山梨県の富士北麓公園陸上競技場に到着していた。
「空気、薄っ!」
息を吸った竜輝が、いきなり首を振った。
「気のせいじゃねぇって、これ……。富士山、なめてた……!」
標高800メートルを超える高地。都会育ちの高校生たちには、少々こたえる環境だった。
「だったら体力でごまかさず、フォームで走れ」
朔太郎は息を整えながら、ストレッチを始めていた。
「今日はスピードじゃなくて、リズム重視。100m×10本、間隔30秒。合わせろよ」
「えっ、鬼教官ですか……?」
それでも、文句を言いながらついてくる竜輝。
ふたりは、薄く陽が差し始めたトラックに並び、スタートラインに立った。
「いくぞ——!」
号令とともに地面を蹴る。
普段よりも酸素が薄いぶん、筋肉にかかる負荷も強い。だが、朔太郎はあえてペースを落とさない。
(こんな環境でも結果を出せれば、本番はもっと走れる)
「ゼェ、ゼェ……お前……バケモンか……」
5本目を終えたところで、竜輝が膝に手をついた。
「死ぬ……! マジで酸欠……っ!」
「フォーム崩してんぞ、重心上がってる。足の回転、もう1秒速く」
「うるせぇ! お前のせいで肺が裏返る……!」
罵声混じりの掛け合いも、仲間内ならではの信頼の証だった。
日中の練習はその後も続き、午後には補強メニュー。
そして夜——
宿舎の裏庭で、星を見上げるふたりの女子がいた。
莉音と裕美子である。
「明かり、少ないね。街灯も遮光フィルムかかってる。……この分なら、星座投影、正確に出せるかも」
莉音が星図アプリを起動し、空にスマホを向ける。
「光の傾き、午後9時に北東45度からアルクトゥルス……そこを基準に配置すれば、天頂の動きと重ねやすい」
「おお、わかんないけどすごい。え、何? 春日さんって、星好きなの?」
「好き……というより、“動かない法則”があるものが好き。星は、ズルをしないから」
その言葉に、裕美子は少しだけ見惚れるような表情を浮かべた。
「……じゃあ私、ズルばっかりしてるなぁ。好きなことに飛びついてばっかで、飽きて、また次に行って……」
「でも、飛びつく人がいないと、始まらないこともある」
莉音は、まっすぐ夜空を見ながら言った。
「このプロジェクトも、あなたが言い出さなかったら、誰もやってなかった。私はただ、それを整えてるだけ」
「それ、ちょっと……泣けるんですけど」
照れ隠しのように笑いながら、裕美子はスマホの録音ボタンを押した。
「今の、記録しとこ。あとでプラネタリウム音声に入れる」
「やめて」
「やる」
ふたりの笑い声が、富士の空気に溶けていく。
時刻は午後9時30分。
宿舎の消灯時間が近づき、あたりはしんと静まり返っていた。
朔太郎はシャワーを終えて、宿舎の廊下を歩いていた。すれ違う部員たちはすでに疲れ果て、ほとんどが無言だった。
(今日は……走ったな。というか、走らされたな)
喉の奥がまだ熱を帯びている。肺の底に残る感触まで、酸素が薄かったことを物語っていた。
自販機で水を買い、瓶を開けた瞬間——外から微かな話し声が聞こえてきた。
ふと足を止め、中庭のほうを覗くと、そこには芝の上に座り込む莉音と裕美子の姿があった。
(何やってんだ、あんな時間に……)
そのまま帰ろうと思ったが、莉音の手元に星座盤と三脚が見えた瞬間、足が止まった。
——“星はズルをしない”
昼間の練習で苛立ちもあった朔太郎だったが、その言葉だけは、なぜか引っかかっていた。
(俺も、ズルはしてねぇけど……)
ただの意地で走った自分と、計算を積み上げて光の角度すら味方につけようとする莉音。
方法も姿勢も違う。でも、同じゴールに向かっていることだけは、どこかでわかっていた。
そのまま物陰に隠れて、二人の会話を少しだけ聞く。
——が、そこへ突然、気配に気づいた裕美子が立ち上がった。
「ん? ……おーい、そこにいるの朔太郎じゃない?」
「う……!」
見つかった。
「なんで隠れてんのー? てか覗き? まさか女子トーク盗聴? 訴えるよ?」
「違ぇよ! 通りすがっただけだっつの!」
ばっと顔を出すと、莉音がちらとだけ目をやった。
「……なんで走ってないの?」
「え?」
「いつも、理由がなくても走ってたのに。今日は、足が止まってる」
その言葉に、朔太郎は返す言葉を失う。
「……見てたのか」
「聞こえたの。足音がしなかったから、逆にね」
莉音は夜空に目を戻し、さらりと続ける。
「焦ってるときほど、結果に固執するときほど、足音が大きくなる。今日のあなたは、静かだった」
「……それ、褒めてんのか?」
「評価してるの」
「……よくわかんねえよ、お前の言い方」
朔太郎はそう言いながら、隣の芝にどかっと腰を下ろした。
しばし沈黙。
空には、北斗七星がくっきりと浮かんでいた。
「……でもまあ、たまには走らなくてもいいか。走らなくても、競ってるって、思えるし」
「うん。それが、たぶん“探究”なんだと思う」
莉音の言葉に、朔太郎は鼻で笑った。
「なんだよそれ。よくわかんねえけど……なんか、ちょっとだけ、面白くなってきたかもな」
星の下、三人の影が、芝の上で交差していた。
【第7章 完】
まだ夜明けの涼しさが残る中、朔太郎たちは山梨県の富士北麓公園陸上競技場に到着していた。
「空気、薄っ!」
息を吸った竜輝が、いきなり首を振った。
「気のせいじゃねぇって、これ……。富士山、なめてた……!」
標高800メートルを超える高地。都会育ちの高校生たちには、少々こたえる環境だった。
「だったら体力でごまかさず、フォームで走れ」
朔太郎は息を整えながら、ストレッチを始めていた。
「今日はスピードじゃなくて、リズム重視。100m×10本、間隔30秒。合わせろよ」
「えっ、鬼教官ですか……?」
それでも、文句を言いながらついてくる竜輝。
ふたりは、薄く陽が差し始めたトラックに並び、スタートラインに立った。
「いくぞ——!」
号令とともに地面を蹴る。
普段よりも酸素が薄いぶん、筋肉にかかる負荷も強い。だが、朔太郎はあえてペースを落とさない。
(こんな環境でも結果を出せれば、本番はもっと走れる)
「ゼェ、ゼェ……お前……バケモンか……」
5本目を終えたところで、竜輝が膝に手をついた。
「死ぬ……! マジで酸欠……っ!」
「フォーム崩してんぞ、重心上がってる。足の回転、もう1秒速く」
「うるせぇ! お前のせいで肺が裏返る……!」
罵声混じりの掛け合いも、仲間内ならではの信頼の証だった。
日中の練習はその後も続き、午後には補強メニュー。
そして夜——
宿舎の裏庭で、星を見上げるふたりの女子がいた。
莉音と裕美子である。
「明かり、少ないね。街灯も遮光フィルムかかってる。……この分なら、星座投影、正確に出せるかも」
莉音が星図アプリを起動し、空にスマホを向ける。
「光の傾き、午後9時に北東45度からアルクトゥルス……そこを基準に配置すれば、天頂の動きと重ねやすい」
「おお、わかんないけどすごい。え、何? 春日さんって、星好きなの?」
「好き……というより、“動かない法則”があるものが好き。星は、ズルをしないから」
その言葉に、裕美子は少しだけ見惚れるような表情を浮かべた。
「……じゃあ私、ズルばっかりしてるなぁ。好きなことに飛びついてばっかで、飽きて、また次に行って……」
「でも、飛びつく人がいないと、始まらないこともある」
莉音は、まっすぐ夜空を見ながら言った。
「このプロジェクトも、あなたが言い出さなかったら、誰もやってなかった。私はただ、それを整えてるだけ」
「それ、ちょっと……泣けるんですけど」
照れ隠しのように笑いながら、裕美子はスマホの録音ボタンを押した。
「今の、記録しとこ。あとでプラネタリウム音声に入れる」
「やめて」
「やる」
ふたりの笑い声が、富士の空気に溶けていく。
時刻は午後9時30分。
宿舎の消灯時間が近づき、あたりはしんと静まり返っていた。
朔太郎はシャワーを終えて、宿舎の廊下を歩いていた。すれ違う部員たちはすでに疲れ果て、ほとんどが無言だった。
(今日は……走ったな。というか、走らされたな)
喉の奥がまだ熱を帯びている。肺の底に残る感触まで、酸素が薄かったことを物語っていた。
自販機で水を買い、瓶を開けた瞬間——外から微かな話し声が聞こえてきた。
ふと足を止め、中庭のほうを覗くと、そこには芝の上に座り込む莉音と裕美子の姿があった。
(何やってんだ、あんな時間に……)
そのまま帰ろうと思ったが、莉音の手元に星座盤と三脚が見えた瞬間、足が止まった。
——“星はズルをしない”
昼間の練習で苛立ちもあった朔太郎だったが、その言葉だけは、なぜか引っかかっていた。
(俺も、ズルはしてねぇけど……)
ただの意地で走った自分と、計算を積み上げて光の角度すら味方につけようとする莉音。
方法も姿勢も違う。でも、同じゴールに向かっていることだけは、どこかでわかっていた。
そのまま物陰に隠れて、二人の会話を少しだけ聞く。
——が、そこへ突然、気配に気づいた裕美子が立ち上がった。
「ん? ……おーい、そこにいるの朔太郎じゃない?」
「う……!」
見つかった。
「なんで隠れてんのー? てか覗き? まさか女子トーク盗聴? 訴えるよ?」
「違ぇよ! 通りすがっただけだっつの!」
ばっと顔を出すと、莉音がちらとだけ目をやった。
「……なんで走ってないの?」
「え?」
「いつも、理由がなくても走ってたのに。今日は、足が止まってる」
その言葉に、朔太郎は返す言葉を失う。
「……見てたのか」
「聞こえたの。足音がしなかったから、逆にね」
莉音は夜空に目を戻し、さらりと続ける。
「焦ってるときほど、結果に固執するときほど、足音が大きくなる。今日のあなたは、静かだった」
「……それ、褒めてんのか?」
「評価してるの」
「……よくわかんねえよ、お前の言い方」
朔太郎はそう言いながら、隣の芝にどかっと腰を下ろした。
しばし沈黙。
空には、北斗七星がくっきりと浮かんでいた。
「……でもまあ、たまには走らなくてもいいか。走らなくても、競ってるって、思えるし」
「うん。それが、たぶん“探究”なんだと思う」
莉音の言葉に、朔太郎は鼻で笑った。
「なんだよそれ。よくわかんねえけど……なんか、ちょっとだけ、面白くなってきたかもな」
星の下、三人の影が、芝の上で交差していた。
【第7章 完】

