並走の先に、君がいた。

 午後5時。春の雨は、容赦なく降り続いていた。
 風も強く、傘をさす意味があるのか疑問に思えるほどだったが、桜丘高校の裏手、400mの簡易トラックには、ひとりの男子生徒が立っていた。
 三枝朔太郎。
 その顔には、雨にも風にも負けない、むしろ挑むような表情が浮かんでいた。
 「ったく……降るなら朝に降れよ……!」
 誰にでもなくぼやきながら、スパイクのひもを結び直す。体操服はすでにびしょ濡れだったが、気にする様子はない。
 走る。今日も、走る。
 昨日より、0.01秒でも速くなるために。
 そんな朔太郎を、傘をさして遠巻きに見つめている少女がひとりいた。
 春日莉音。
 校舎の軒下から出ようとはせず、タブレット片手に何度も画面をタップしていた。
 (滑りやすさ係数……路面:アスファルト濡れ、シューズ:防水ソール、気温……風速……)
 「……ダメ。これ、危険域に入ってる」
 彼女は即座にトラックへと走り出す。
 スニーカーの裏に水が噛み、滑りそうになりながらもバランスを取り、朔太郎の前に立ち塞がった。
 「待って。今、この路面、摩擦係数が0.38を下回ってる。あなたの蹴り出し力なら、支えきれない」
 「は? 何それ、いきなり計算式持ち出すなよ」
 「事実を言ってるだけ。滑る、転ぶ、ケガする。私、面倒見る気ないから」
 「……そっか。じゃあ、見るなよ」
 朔太郎は強引に莉音の脇をすり抜け、スタートラインに立った。
 顔をしかめる莉音。
 「待って! 勝ちたい気持ちはわかる。でも、結果を出す前に身体壊したら、本末転倒じゃない!」
 「俺には、今しかねぇんだよ!」
 怒鳴るように返したその声は、雨音にかき消されながらも、まっすぐだった。

 雨音が、耳の奥で脈打つように響く。
 朔太郎は呼吸を整え、スタートの姿勢を取った。
 視界の端に、莉音の姿があった。びしょ濡れの彼を見つめる目は、冷静さを保ちつつも、どこか張り詰めている。
 「三枝、やめ——」
 莉音の声を、朔太郎は聞かなかった。
 自分の心臓の鼓動しか耳に入っていなかった。
 「ゼロ!」
 雨を切り裂くように、地面を蹴る。
 スパイクが水しぶきを巻き上げ、加速する。
 だが2歩目——靴がわずかに横滑りした。
 朔太郎は反射的に足を入れ替え、重心を立て直そうとしたが——
 3歩目、身体が横に流れた。
 「っ——!」
 衝撃とともに、左膝が地面を打つ。肩が大きく傾き、泥水に突っ込むように倒れた。
 「朔太郎っ!」
 莉音は叫び、全速力で駆け寄った。
 傘などとっくに放り投げていた。
 「動かないで!」
 朔太郎は地面に片手をつきながら、膝に手を当てていた。制服の膝は破れ、血がにじんでいる。
 「……くそ、いけると思ったのに」
 「“いけるかも”って仮定で走るの、ただの賭けよ。あなた、ギャンブラーだったの?」
 莉音の声は、怒っているようで、どこか震えていた。
 「違う。……違うけど、止まれなかった」
 雨に濡れた顔で、朔太郎はそう言った。
 「誰より速くなりたい。今、誰にも負けたくない。お前にも——」
 その言葉を、莉音は遮らなかった。
 代わりに、バッグから取り出したハンカチを膝に押し当てた。
 「応急処置する。じっとして」
 「……え。お前、こんなのもやんのかよ」
 「嫌でも覚えるわよ。こういう人と組むなら」
 その“こういう人”という言葉に、どこか微笑みのような響きがあった。
 「……あのさ」
 朔太郎はぽつりとつぶやく。
 「お前の言ったとおりだった。数字は嘘つかない。でも、俺はそれでも走っちまう。……それが、ダメなら叱ってくれ」
 莉音は無言で手を止め、彼の膝に巻いていたハンカチをきゅっと締めた。
 「じゃあ、次からは“確率が上がってから”走って。
 データは、わたしが出す。……あなたが怪我するのは、見てられない」
 それは、はじめて彼女が“心配”という感情を、言葉に乗せた瞬間だった。
 雨の中、互いに濡れたまま立ち尽くす二人。
 そこには、まだ名前のつかない感情が、確かに生まれつつあった。

【第5章 完】