渋谷の夜明けは、まるで眠たい目をこすっているかのようにゆっくりと、けれど確実に街を明るくしていった。4月1日、午前5時56分。空の端にかすかに朱が差し込みはじめた頃、JR渋谷駅ハチ公前の交差点に、二つの影が現れた。
まだ始発直後の電車しか動いていない時間帯。普段なら波のように人と車で埋め尽くされるスクランブル交差点も、このときばかりは一瞬の静けさを宿していた。
その中心で、朔太郎は腕時計を一瞥し、少し息を整えた。グレーのジャケットに真新しいスニーカー、肩からかけたキャンバスバッグには、大学の入学書類と、なぜかランニングタイツが一緒に詰め込まれている。
そしてその隣には、淡いベージュのトレンチコートに身を包んだ莉音。今日のためにまとめたシンプルなポニーテールが、春の風にふわりと揺れた。
「……青、もうすぐ変わるよ」
莉音が指先で歩行者信号の残り秒数を数えながら、小さくつぶやく。その声に、朔太郎はニヤリと口角を上げた。
「なら、今日も勝負だな」
莉音は何も言わず、スカートの裾を少し押さえ、足を一歩、前へ出す。それだけで、彼女の答えは明らかだった。
そして——
信号が青に変わる。残り時間、12秒。
二人は視線を交わし、声をかける間もなく走り出した。
渋谷のスクランブル交差点を、まだ眠っているビルの谷間を、彼らは真っ直ぐに駆け抜けた。ゴールはただ一つ。横断歩道の向こう、大学生活の始まりへ続く道。
脈打つ鼓動と、アスファルトを蹴るスニーカーの音。信号が点滅する前に、朔太郎が左手を伸ばす。莉音の手が自然に重なり、その瞬間、ふたりはほぼ同時に歩道の端を踏み越えた。
青信号の最後の点滅が消えると同時に、交差点の中央に残るのは、ほんの一拍遅れて追いついてくる通勤前の足音と、春風にかすかに舞う二人の笑い声だった。
息を切らせて立ち止まった二人は、しばらく何も言わずに空を仰いだ。
「間に合ったな」
「うん。ギリギリ」
朔太郎が目を細める。莉音はゆっくりと頷いた。
春。新しいスタートライン。競い合ってきた日々を超えて、隣で走ることの意味を見つけたふたりが、今日、この瞬間を選んだのは、偶然ではない。
「……大学でも、こんな風に走れるかな」
朔太郎の問いに、莉音は少し考えるふりをしてから言った。
「条件は必要だけど、可能性はあると思う」
「またそれかよ。せっかくロマンチックな空気だったのに」
「ロマンチックはあなたの主観。私は事実を言っただけ」
そのやり取りに、ふたりは同時に吹き出した。小さな笑いが、静かな朝の渋谷にほどける。
通勤客の姿が徐々に増え始める中、彼らはスクランブル交差点から少し離れた、コーヒースタンドの屋根付きベンチに腰を下ろした。気取らない木製のベンチには、以前誰かが刻んだ落書きがあった。「夢、走れ。」という、拙い筆跡。
「莉音。聞きたいこと、ひとつあるんだ」
朔太郎が声を落とす。莉音は表情を変えず、ただ横顔で返事を促す。
「俺たち、なんでここで走ったと思う?」
「記録より、記憶に残る朝を選んだ。でしょ」
「……お前、それ、いつ考えた?」
「昨日の夜、式服を出すときに」
その返しがあまりにも自然で、朔太郎は数秒固まってから、ゆっくりと笑った。まったく、この人は最後まで理詰めで、時々ちょっと詩的で、そのくせ本人は自覚がない。
「じゃあ次。もう一つだけ質問」
朔太郎が立ち上がり、莉音の正面に立つ。目を見て、まっすぐに問うた。
「一緒に走ってくれる? これからも、ずっと」
その問いに、莉音は瞬きひとつで時間を区切った。そして、ふわりと立ち上がる。朔太郎と同じ目の高さになり、視線を合わせたまま言った。
「うん。競争じゃなくて、伴走なら」
それは、これまでの一年で積み重ねた何百もの言葉より、正確な合図だった。
二人はもう一度だけ、スクランブル交差点の方を振り返った。かつて出会ったあの朝の記憶が、すっと蘇る。あの日も同じように、信号の残り秒数を数えながら、互いに名も告げずに並んで走った。
でも今はもう、名前も、癖も、弱点も、目標も、全部知っている。だからこそ、並んで走る意味がある。
信号が再び青に変わる。通勤客の群れに紛れながら、ふたりはゆっくりと歩き出した。今度は、全力疾走ではない。けれど、その歩幅は完璧に揃っていた。
渋谷駅前、午前6時ちょうど。スクランブル交差点に、ふたりの影が落ちる。
始発が着く音が、地下から低く響く。空はまだ朝焼け色に染まりきらず、ビルの影と早朝の光が交錯していた。いつもの賑やかな街の気配はまだ遠く、信号音と遠くの工事音だけが聞こえている。
朔太郎は軽く身体を伸ばした。陸上部の癖で、無意識にスタート前の動作をしてしまう。
「スタート地点、あそこにしようぜ。青信号が点いたら、反対側のガードレールまで」
「把握した。制限時間は?」
「残り秒数は、15秒。ペースはお前が決めてくれ」
「じゃあ……9.3秒で行けると判断する。正面の横断歩道、斜め走行ありきで計算済み」
ふたりの視線が、同時に信号機のカウントダウンを見上げる。
──3、2、1。
青。
ふたりは同時に踏み出した。風がふわりと肩を押し、足音がコンクリートを叩く。朔太郎の右手が、莉音の左手に軽く触れた。
次の瞬間、指先がしっかりと絡む。
全力ではない。けれど、リズムは正確だった。横断歩道の中央、ふたりの影がぴたりと重なる。ゴールのガードレールにたどり着いた瞬間、莉音がぴたりと足を止め、腕時計のストップウォッチを押した。
「……9.27秒。計算通り」
「さすが」
朔太郎が息を整えながら笑う。莉音も少し息を切らせ、けれどすぐに整った声で言った。
「これで、あの朝の記録を塗り替えたね」
「ああ。今度はちゃんと、名前も知ってるしな」
ガードレールにもたれて、並んで立つ。信号が赤に変わり、ふたりの間にしばしの静寂が降りる。
「なあ莉音。俺たち、これから先も、こうして――」
朔太郎の言葉を遮るように、莉音が口を開いた。
「一緒に走ろう。今度は、競うためじゃなくて、速さを共有するために」
その言葉を聞いて、朔太郎はようやく心の奥から息を吐くように頷いた。隣を見れば、莉音の目はしっかりと前を見ている。
「……よし、じゃあ、次のスタートは大学だな」
「大学の門は、ゴールじゃない。新しいトラックの始点」
「言うじゃん」
「当然でしょ、あなたの伴走者だから」
信号がまた青になる。今度は走らない。ふたりは手をつないだまま、ゆっくりと歩き出す。人の群れに溶けていく。
春の朝、都市の中に、ふたりの新しいスタートラインが引かれた。
(完結)
まだ始発直後の電車しか動いていない時間帯。普段なら波のように人と車で埋め尽くされるスクランブル交差点も、このときばかりは一瞬の静けさを宿していた。
その中心で、朔太郎は腕時計を一瞥し、少し息を整えた。グレーのジャケットに真新しいスニーカー、肩からかけたキャンバスバッグには、大学の入学書類と、なぜかランニングタイツが一緒に詰め込まれている。
そしてその隣には、淡いベージュのトレンチコートに身を包んだ莉音。今日のためにまとめたシンプルなポニーテールが、春の風にふわりと揺れた。
「……青、もうすぐ変わるよ」
莉音が指先で歩行者信号の残り秒数を数えながら、小さくつぶやく。その声に、朔太郎はニヤリと口角を上げた。
「なら、今日も勝負だな」
莉音は何も言わず、スカートの裾を少し押さえ、足を一歩、前へ出す。それだけで、彼女の答えは明らかだった。
そして——
信号が青に変わる。残り時間、12秒。
二人は視線を交わし、声をかける間もなく走り出した。
渋谷のスクランブル交差点を、まだ眠っているビルの谷間を、彼らは真っ直ぐに駆け抜けた。ゴールはただ一つ。横断歩道の向こう、大学生活の始まりへ続く道。
脈打つ鼓動と、アスファルトを蹴るスニーカーの音。信号が点滅する前に、朔太郎が左手を伸ばす。莉音の手が自然に重なり、その瞬間、ふたりはほぼ同時に歩道の端を踏み越えた。
青信号の最後の点滅が消えると同時に、交差点の中央に残るのは、ほんの一拍遅れて追いついてくる通勤前の足音と、春風にかすかに舞う二人の笑い声だった。
息を切らせて立ち止まった二人は、しばらく何も言わずに空を仰いだ。
「間に合ったな」
「うん。ギリギリ」
朔太郎が目を細める。莉音はゆっくりと頷いた。
春。新しいスタートライン。競い合ってきた日々を超えて、隣で走ることの意味を見つけたふたりが、今日、この瞬間を選んだのは、偶然ではない。
「……大学でも、こんな風に走れるかな」
朔太郎の問いに、莉音は少し考えるふりをしてから言った。
「条件は必要だけど、可能性はあると思う」
「またそれかよ。せっかくロマンチックな空気だったのに」
「ロマンチックはあなたの主観。私は事実を言っただけ」
そのやり取りに、ふたりは同時に吹き出した。小さな笑いが、静かな朝の渋谷にほどける。
通勤客の姿が徐々に増え始める中、彼らはスクランブル交差点から少し離れた、コーヒースタンドの屋根付きベンチに腰を下ろした。気取らない木製のベンチには、以前誰かが刻んだ落書きがあった。「夢、走れ。」という、拙い筆跡。
「莉音。聞きたいこと、ひとつあるんだ」
朔太郎が声を落とす。莉音は表情を変えず、ただ横顔で返事を促す。
「俺たち、なんでここで走ったと思う?」
「記録より、記憶に残る朝を選んだ。でしょ」
「……お前、それ、いつ考えた?」
「昨日の夜、式服を出すときに」
その返しがあまりにも自然で、朔太郎は数秒固まってから、ゆっくりと笑った。まったく、この人は最後まで理詰めで、時々ちょっと詩的で、そのくせ本人は自覚がない。
「じゃあ次。もう一つだけ質問」
朔太郎が立ち上がり、莉音の正面に立つ。目を見て、まっすぐに問うた。
「一緒に走ってくれる? これからも、ずっと」
その問いに、莉音は瞬きひとつで時間を区切った。そして、ふわりと立ち上がる。朔太郎と同じ目の高さになり、視線を合わせたまま言った。
「うん。競争じゃなくて、伴走なら」
それは、これまでの一年で積み重ねた何百もの言葉より、正確な合図だった。
二人はもう一度だけ、スクランブル交差点の方を振り返った。かつて出会ったあの朝の記憶が、すっと蘇る。あの日も同じように、信号の残り秒数を数えながら、互いに名も告げずに並んで走った。
でも今はもう、名前も、癖も、弱点も、目標も、全部知っている。だからこそ、並んで走る意味がある。
信号が再び青に変わる。通勤客の群れに紛れながら、ふたりはゆっくりと歩き出した。今度は、全力疾走ではない。けれど、その歩幅は完璧に揃っていた。
渋谷駅前、午前6時ちょうど。スクランブル交差点に、ふたりの影が落ちる。
始発が着く音が、地下から低く響く。空はまだ朝焼け色に染まりきらず、ビルの影と早朝の光が交錯していた。いつもの賑やかな街の気配はまだ遠く、信号音と遠くの工事音だけが聞こえている。
朔太郎は軽く身体を伸ばした。陸上部の癖で、無意識にスタート前の動作をしてしまう。
「スタート地点、あそこにしようぜ。青信号が点いたら、反対側のガードレールまで」
「把握した。制限時間は?」
「残り秒数は、15秒。ペースはお前が決めてくれ」
「じゃあ……9.3秒で行けると判断する。正面の横断歩道、斜め走行ありきで計算済み」
ふたりの視線が、同時に信号機のカウントダウンを見上げる。
──3、2、1。
青。
ふたりは同時に踏み出した。風がふわりと肩を押し、足音がコンクリートを叩く。朔太郎の右手が、莉音の左手に軽く触れた。
次の瞬間、指先がしっかりと絡む。
全力ではない。けれど、リズムは正確だった。横断歩道の中央、ふたりの影がぴたりと重なる。ゴールのガードレールにたどり着いた瞬間、莉音がぴたりと足を止め、腕時計のストップウォッチを押した。
「……9.27秒。計算通り」
「さすが」
朔太郎が息を整えながら笑う。莉音も少し息を切らせ、けれどすぐに整った声で言った。
「これで、あの朝の記録を塗り替えたね」
「ああ。今度はちゃんと、名前も知ってるしな」
ガードレールにもたれて、並んで立つ。信号が赤に変わり、ふたりの間にしばしの静寂が降りる。
「なあ莉音。俺たち、これから先も、こうして――」
朔太郎の言葉を遮るように、莉音が口を開いた。
「一緒に走ろう。今度は、競うためじゃなくて、速さを共有するために」
その言葉を聞いて、朔太郎はようやく心の奥から息を吐くように頷いた。隣を見れば、莉音の目はしっかりと前を見ている。
「……よし、じゃあ、次のスタートは大学だな」
「大学の門は、ゴールじゃない。新しいトラックの始点」
「言うじゃん」
「当然でしょ、あなたの伴走者だから」
信号がまた青になる。今度は走らない。ふたりは手をつないだまま、ゆっくりと歩き出す。人の群れに溶けていく。
春の朝、都市の中に、ふたりの新しいスタートラインが引かれた。
(完結)



