照明を落とした体育館のステージに、花束を抱いた卒業生代表が立っていた。スポットライトの円の中、袴姿の真紀は、ゆっくりとマイクに向かって口を開く。
「三年前、私は“自分の意見を言うのが苦手”でした。信じられないでしょ? いまは口を開けば議論が始まるって、よく言われるけれど」
 観客席に笑いが波打ち、場が少し緩む。その中心で、朔太郎は袴の裾を軽く直しながら、背筋を伸ばしていた。隣にいる莉音も、静かに目を閉じたまま聴いている。
 真紀はひと息つくと、少し声のトーンを下げて続けた。
「でも、そんな私の意見を“おもしろい”って言ってくれた人がいました。“違ってもいいから聞かせて”って言ってくれた人がいた。競うためにぶつかることもあったけど、それはきっと、信じてるからこそ。私たちの一年は、そうやって作られてきたと思います」
 後ろの保護者席で、鼻をすする音が静かに響く。
「勝ち負けで決まらないものも、きっとある。並んで走った日々のなかで、私はそれを学びました。これから先も、私たちが誰かと“並走”できる人でありますように。……ありがとう、そして、さようなら」
 拍手が起きた。最初は控えめだったが、次第に大きく、長く、全体へと広がる。壇上で深く一礼した真紀の背中を、卒業生の拍手が支えていた。
 その中にあって、朔太郎の視線はステージの奥ではなく、前列の観客席に座る裕美子、竜輝、ノエルたちに向いていた。彼らも、笑顔で手を叩いている。泣いてるかと思ったノエルは、むしろ一人だけ異様な集中力で手拍子のリズムを揃えていた。
「……なんで、あいつだけ指揮者みたいになってんだ?」
 朔太郎のつぶやきに、莉音が小さく笑う。
「たぶん、拍手の伝播速度を計算してる。右側と左側、響きが違ってたから」
「マジでか……」
 二人は笑い合い、次に名を呼ばれるのを待った。
 その時だった。壇上から降りてきた真紀が、ステージ脇で彼らに小さくウインクを送った。朔太郎は思わず肩を竦め、莉音は視線を逸らして小さくため息をついた。
「この三年、まるでドラマだったね」
「いや……あれはスポ根×学術ロマンスの変則青春劇だった」
 まるでセリフ合わせのようにぴたりと返して、二人は再び前を向いた。ステージのアナウンスが鳴り響く。
「――桜丘高校、卒業証書授与、陸上競技部、相良朔太郎くん」
 名前が呼ばれた瞬間、観客席から一際大きな拍手が起きた。朔太郎は一瞬だけ深呼吸をしてから、壇上へと足を踏み出した。

 緊張はしていなかった。競技場のスタートラインに立つときのように、全身に意識を巡らせて歩いた。壇上の中央、教頭の手から証書を受け取り、深く頭を下げる。そのとき不思議と、過去一年の光景が、まるでフラッシュバックのように頭のなかを通り過ぎていった。
 あの朝、堤防道路で莉音と並走したこと。雨のなかで転んだこと。ドローン越しに走りを分析されたり、星空の下で打ち上げ花火を見上げたり――。
(ここまで来たんだな)
 朔太郎はまっすぐ立ち上がると、観客席を一瞥し、そして自分の席へ戻った。
 入れ替わるように莉音が呼ばれた。
「――理数ゼミ所属、佐倉莉音さん」
 体育館の空気が、ほんのわずかに変わったように感じた。視線が集まり、呼吸音が止まり、拍手のテンポが整う。彼女の歩みには、いつもながらの沈着冷静さがあった。早足でもなく、遅すぎるわけでもなく、すべてが最適化されたようなリズムでステージに上がる。
 莉音が証書を受け取ると、その拍手は静かに、けれど長く続いた。
 そのなかで朔太郎は、ふと自分の掌を見つめた。気がつけば、拍手している手のひらに少しだけ、汗がにじんでいた。
 壇上を降りる莉音が、ふいに歩幅をほんの半歩だけ崩した。誰も気づかないような、ごく小さな揺らぎ。でも朔太郎には、それが何より特別な“変化”に見えた。
 彼女は壇上から戻り、隣の席に腰を下ろすと、手元の証書をじっと見つめたまま言った。
「……受け取る瞬間、少し震えた。初めてかも」
「緊張?」
「わからない。ただ、なんとなく“もうすぐ終わる”って」
 その言葉に、朔太郎は答えなかった。ただ、うなずいて、前を見た。もうすぐ、式の終わりがやってくる。彼らの「並走」も、あとわずかで一区切りだ。
 式の最後、在校生代表による送辞が読み上げられた。淡々とした口調の中に、三年生への憧れと感謝が滲んでいた。
「――皆さんの背中が、私たちの進む道を照らしてくれました。これからも、それぞれの場所で輝き続けてください」
 その言葉に、莉音がまたほんの少しだけ俯いた。朔太郎は、それを見逃さなかった。
 司会者が閉式の言葉を述べたあと、再び大きな拍手が館内を包み込む。立ち上がる音、椅子の擦れる音、窓から差し込む春の陽光。
 その中で、朔太郎と莉音は、お互いの肩を見つめた。言葉にしなくても、次に何をするか、もう分かっている。
 卒業式は終わった。だが、物語はまだ、続いていた。

 生徒たちがぞろぞろと退場し始めるなかで、真紀が壇上に上がった。鮮やかな青の袴姿は一瞬ざわめきを呼び、壇上前列の男子が思わず声をもらした。
「うわ……似合ってる」
 本人は気づかないふりをして、しっかりとマイクを握った。
「えーと、卒業生代表としての挨拶……なんだけど」
 一呼吸おいて、真紀は笑った。
「私たち、たぶん、たくさん争ったし、たくさん比べた。でもね、並んで走るって、ただの競争じゃないんだって、最後の最後で気づきました」
 その言葉に、朔太郎も莉音も、ほんの少しだけ目を見開いた。
「勝つことばかり考えていたときは、周りが見えなかった。でも、並んで走る誰かがいたから、あきらめずにこれた――そんな高校生活でした。みんな、本当にありがとう。そしてこれからも、それぞれのペースで、“並走”していけたらいいなって思います」
 会場全体が、じんわりとした拍手に包まれた。強くも弱くもない、でも確かに心を打つ音だった。
 やがて式が解散となり、生徒たちは家族のもとへ、仲間のもとへと散っていく。
 体育館の外、渡り廊下の片隅に、ひときわ目立つ機材が広がっていた。
 配信用モニターの前で、雄貴がヘッドセットを外しながら、最後の言葉を締める。
「――というわけで、桜丘高校、今年度の卒業式、配信は以上です! 最後に一言。『青春って、いいもんですね!』……泣いてません、これは花粉です。ほんとに」
 その横で、真紀がタオルを手に笑っている。裕美子は星型のバルーンを掲げて、ノエルは最後まで配線をチェックしていた。
 そして、遠くの校門前で。
 朔太郎と莉音は、ふたりきりで並んで歩いていた。
「……明日、行こうか」
「うん。始発で?」
「うん。最初の出会い、塗り替えないとな」
 莉音は少し微笑んで、朔太郎の方へ視線を送った。
「また並走、しよう。ゴールは……きっとまだ、ずっと先だよね」
 春の風が制服の袖を揺らした。交差点の向こうに見える、未来のスタートラインが、ほんの少しだけ輝いて見えた。