並走の先に、君がいた。

 春を目前にした多摩川の河川敷は、まだ少し肌寒い風が吹いていた。
 午後五時四十五分。西の空に赤い陽が沈みかけていて、コンクリートの堤防も、土手の雑草も、すべてが橙色に染められている。
 朔太郎は、両手で軽くストレッチしながら立っていた。
 「……結局ここに戻ってくるんだよな」
 目の前には、かつて莉音と“競争した”あの日の直線路。まだ桜も咲き始めていない、早朝のあの瞬間から始まった一年のすべてが、この土手に繋がっている。
 そのとき、遠くから誰かが駆けてくる足音が聞こえた。
 顔を上げると、黒髪をなびかせて莉音が走ってきた。白のトレーナーに紺のジャージ。季節外れのマフラーを首元に巻いている。
 朔太郎は自然と笑って、言葉を投げた。
 「遅いぞ。信号、変わる前にスタート切らないと置いてくぞ」
 「そのセリフ、そっくり返すわ。私は青信号の残り秒数、正確に読んで来たのよ」
 莉音は息を整えながら朔太郎の隣に立つ。
 二人の間に、何の号令もない。
 ただ、無言で目を合わせ、ゆっくりと頷く。
 そして、同時にスタートを切った。
 タンッ、と地面を蹴る音が二つ。
 風が、並んだ肩を押し出すように吹き抜けていく。
 並走。まるで最初の日をなぞるような、静かな全力疾走だった。
 周囲に観客はいない。応援も、得点も、ゼミ推薦も関係ない。
 ただ一緒に、走る。それだけが、今の二人にとってすべてだった。
 信号の青が点滅しはじめる。
 莉音は息をつきながら声をあげた。
 「あと八秒。1.2m/sで加速すれば、余裕で渡り切れる!」
 「了解。じゃあギア上げる!」
 朔太郎が笑いながら一歩前に出た。
 莉音がその背に並ぶ。
 走り終えた地点は、信号の向こう、もう一度始まりの場所――。
 渡り切った瞬間、朔太郎が右手を伸ばし、莉音の左手をそっと掴んだ。
 二人の手が、初めて繋がる。
 ぴたりと止まった瞬間、信号が赤に変わり、車道に車が戻ってきた。
 だが、ふたりは振り返らない。
 「……やっと、同じラインに立てたな」
 朔太郎の言葉に、莉音が微笑む。
 「ええ。でも、スタートラインはこれからよ」
 ふたりは手をつないだまま、少しだけ前を向く。
 その視線の先には、都会の喧騒がまだ目覚めきっていない、静かな春の街並み。
 新生活の始発駅、渋谷へ向かって、再び歩き出す。

 渋谷駅前。午前六時台の交差点は、想像以上に静かだった。
 平日の始発がようやく動き出したばかり。通勤ラッシュにはまだ早い。観光客も少なく、スクランブル交差点の足音は、どこかまだ眠たげに響いていた。
 朔太郎と莉音は、歩道の端に立ち、信号の向こうを見つめていた。
 「ここ、最初の日に渡ったよな」
 朔太郎が懐かしそうに呟く。
 莉音は頷きながら、バッグから小さなポケット時計を取り出す。表面には薄く傷のついたガラスが光を反射していた。
 「秒針、今ちょうど45秒。青信号になるまで……あと三秒」
 「了解」
 彼女がそっとポケットに時計をしまうと同時に、信号が青に変わった。
 二人は言葉もなく、歩き出す。
 手は、もう繋がれていない。だが、歩幅はぴったりと合っていた。
 コートの裾がひるがえる。ランドマークのビル群が、どこか舞台の背景のように見えた。
 誰もいないスクランブル交差点を、並んで渡る。
 左右から風が吹き込んできて、二人の頬を軽く撫でた。
 その一歩一歩が、まるで新しい道を確かめるように、ゆっくりと、しかし確かな速度で進んでいく。
 朔太郎がふと、隣を見た。
 莉音はいつものように淡々とした表情だったが、どこかその瞳には、照れとも喜びとも違う、言葉にならない感情が灯っていた。
 「競争してるうちに、なんか変わったよな、俺たち」
 「そうかしら」
 莉音は、足を止めずに言う。
 「私は……あなたが変わったと思ってた。だけど、たぶんそれは、私も一緒だったのよね」
 「なんだそりゃ」
 朔太郎が笑う。
 その笑いにつられるように、莉音も小さく肩を震わせた。
 交差点を渡り切った瞬間、朝の陽光がビルの谷間から差し込んだ。
 まるで、ふたりを歓迎するかのように。
 「――じゃあ、大学ってやつ、見に行くか」
 「ええ。私たちの、次のスタート地点よ」
 それぞれが、自分の夢に向かって走り出す。
 だが今度は、背中を追いかけ合うのではない。
 横並びで、肩を並べて進んでいく。
 新しい一歩を、静かに踏み出した二人の姿は、まるで始まりの線をもう一度引き直すように、青信号の先へと消えていった。