昼休みのチャイムが鳴り終わるのを待たずに、朔太郎は職員室前の廊下に立っていた。
 手には一枚の白封筒。中には、担任宛に宛てた辞退届が入っている。
 「……これで、いいんだよな」
 小さく自問するような声。周囲に人気はない。
 すでにゼミ推薦の通知は張り出され、朔太郎の名前は最上段にある。だが、その推薦を辞退することが今の彼の決意だった。
 「“勝った”からこそ、譲る。そういう選択があっても、いいだろ?」
 自分自身への言い聞かせのように呟いて、ゆっくりとノックの手を上げかけた。
 そのとき、後ろから乾いた足音が二歩、三歩。
 「……まさかとは思ってたけど、本気で出すんだ?」
 声の主は、莉音だった。
 制服の上に薄手のニットを羽織り、視線は朔太郎の手元の封筒に注がれている。
 「お前……なんでここに?」
 「“あのとき”の答えを考えるには、あなたの選択を見るのが一番だと思った」
 莉音はそう言って、朔太郎の隣に立った。
 「ゼミ推薦を受ければ、大学の研究室見学も早く決まるし、特別講義にも招待される。でも」
 彼女は一拍置いてから言った。
 「もしそれが“誰かに譲られた座”だったとしたら、私は……」
 朔太郎は、封筒を握る手に力を込めた。
 「違う。譲ったんじゃない。“選んだ”んだよ。俺のやりたいことは、推薦をもらって何かをすることじゃなかった。ただ、“誰よりも走り切った”って実感が欲しかっただけだ」
 莉音はふっと目を伏せ、数秒の沈黙ののち、顔を上げる。
 「なら、私も選ぶ。推薦は、辞退しない。ちゃんと、自分の足で登るつもりで受け取る」
 「……よし」
 朔太郎は微笑んだ。今度こそ、握っていた封筒を静かに職員室ドアの郵便口に差し入れた。
 カサリ、と中に落ちる音がした。
 二人の間に、春の光が差し込む。
 やがて、莉音が問いかけた。
 「これから先、競争じゃなくなっても、並んで走れる?」
 「当たり前だろ。競わなきゃ見えない景色もあった。でも、並んでなきゃ届かない場所もある」
 朔太郎はそう言って、歩き出す。
 廊下の先には、風に揺れるカーテンと、開け放たれた窓。
 その向こうに見える空は、すでに新しい季節の色をしていた。