教室の窓を打つ春風は、どこか不安げに揺れていた。
 その風が運んできたのは、桜の香りと、緊張をはらんだざわめきだった。
 3月27日、木曜日。午前10時。生徒会室前の廊下には、ざっと二十名を超える生徒たちが列をなしていた。
 朔太郎は、その中でも最前列に立っていた。白地にネイビーラインのジャージの裾を引っ張りながら、彼は前を見つめていた。
 その隣に、莉音がいた。パーカーの袖から手首を少しだけのぞかせて、胸元のタブレットをぎゅっと抱きしめている。
 「いよいよか……」
 朔太郎のつぶやきに、莉音はうなずきもせず、ただ前を向いたまま言った。
 「10時ちょうどに、得点ボードが開示されるはず。システムは私が組んだから、誤差はない」
 「……そっか。信じてる」
 朔太郎のその言葉には、どこか“勝つつもり”の響きがなかった。
 むしろ、“もう充分”というような、達観すら感じさせた。
 けれど、鼓動は速い。少し喉が渇いていることに気づく。息を吸って、吐く。
 全校を巻き込んだ複合探究ゼミの成績競争——「総合杯」。
 その最終結果が、今日、教員と外部審査員の立ち合いのもと、正式に確定される。
 これまでのすべての成果、すべての勝負の積み重ねが、点数という数字に凝縮されて、この一枚の発表用紙に現れる。
 莉音が胸の前で小さく息を整える。
 「……9時59分55秒」
 「え、今そこカウントすんの?」
 「当たり前でしょ。秒単位でやってきたでしょ、あなた」
 「ぐ……否定できない」
 二人がそうして言葉を交わす横を、竜輝がゆっくりと歩いてくる。手には紙コップのホットコーヒー。
 「お前ら、落ち着けよ。最後の数字に取り憑かれると、次の一歩が出なくなるぜ」
 「……って、誰より数字に取り憑かれてた人が言うんだ?」
 朔太郎がつっこむと、竜輝は肩をすくめた。
 「まあ、だからこそ、言えるってやつさ。ほら、莉音も」
 「わかってる。私、数字だけを見てたわけじゃない」
 莉音はタブレットを胸元から外して、そっと背中のバッグにしまった。
 「でも、今日だけは、結果を直視したい。逃げたくないの」
 「……ああ。俺も同じ気持ちだよ」
 10時ちょうど。
 生徒会室の扉が、静かに開いた。



 教員の後ろに、スーツ姿の外部審査員が二名続いた。彼らが手にしているのは、一枚のクリアファイル。そしてその中には、色付きの帯で区切られたスコアシートがあった。
 「発表します。2024年度、桜丘高校第二学年〈総合探究杯〉、最終三学期までの総合得点、上位三名を掲示します」
 教員の宣言と同時に、ファイルの中身が取り出され、ホワイトボードにマグネットで止められる。
 一瞬の沈黙。
 次の瞬間、朔太郎は一歩前へ出て、スコアシートを凝視した。
 【第1位:望月 朔太郎 299点】
 【第2位:鷹野 莉音 298点】
 【第3位:結城 雄貴 272点】
 ——0.3%差。
 すべての努力、失敗、修正、追いつき、追い越され、また競った末の、この差。
 「……勝った、のか」
 朔太郎が小さくつぶやいた。
 口元はわずかに緩んでいたが、拳を突き上げるようなガッツポーズはなかった。
 どこか、苦笑に近い。
 「朔太郎!」
 振り向けば、竜輝が両手をあげて駆け寄ってきた。
 「よっしゃああ! ギリギリだったけど、これが“勝ち切る力”ってやつだな!」
 「いや……ほんと、ギリギリだったわ」
 そう答えた朔太郎の背中に、トン、と軽く手が置かれる。
 「おめでとう」
 それは莉音だった。背筋を伸ばし、いつも通りの無駄のない動作で、右手を差し出す。
 「……あと1点、だったね」
 「うん。でも、あと1点“だったから”言えることもある」
 朔太郎はその手を強く、しかし丁寧に握り返した。
 「ありがとう、最後まで並んで走ってくれて」
 莉音の目が少しだけ潤んで見えたのは、春の光のせいかもしれない。
 「まだ、終わってないけどね」
 「……ああ、そうだな。ゼミ推薦の手続き、残ってるし」
 その言葉に、竜輝が目を丸くした。
 「あれ? 朔太郎、推薦受けるんだっけ? 最初、“自分で道を決めたい”って言ってた気が……」
 「決めるよ。ちゃんと、自分で。でもな」
 朔太郎は、莉音の顔を一度見てから言った。
 「一番になったら、一番最初に“譲りたい”って思ってたんだ」
 「……!」
 莉音の目が、見開かれる。
 「この席、譲るよ。俺じゃなくて、莉音が、推薦受けてくれ」
 「待って、どうして……!」
 「わかってる。本来は辞退の手続きとか、正式な流れがある。でも、この1点の差なら、“勝った人間の選択”として認めてもらえるはずだ」
 「……!」
 言葉に詰まる莉音に、周囲の視線が集まる。
 ざわざわと廊下の空気が揺れたそのとき——。
 「——二人とも、誇っていい」
 声の主は、ノエルだった。
 ジャケットを軽くはおり、手には自作のドローン撮影記録のデータチップを掲げていた。
 「僕の映像が、すでに一部教育機関に提出されてる。『仲間として支え合いながらも競争する姿勢』が、どれほど若者に影響を与えるかって」
 「……え、それいつの間に?」
 「黙って出した。でもね、もう黙ってはいられない。僕は君たちの“走る姿”に感動した」
 ノエルはそう言って、小さく頭を下げた。
 「本当に、おめでとう。そして、ありがとう」
 静まり返る生徒会室前の廊下。
 やがて、最初の拍手がどこからか湧き、それが波のように広がっていった。
 莉音はその拍手の中、視線を朔太郎に戻し、静かに言った。
 「まだ答えは出せない。でも、もし私がこの席を預かるとしたら——、一緒に行ってくれる?」
 「もちろん。どこまでも並んで、な」
 朔太郎はそう言って、もう一度莉音の手を握りなおした。