午後五時のチャイムが鳴り終わった桜丘高校のトラックは、いつになく静かだった。
春休みの最中、部活動の時間制限もゆるくなったこの時期。それでも、放課後の校庭に残っているのは朔太郎と数人の陸上部員、そしてプラネタリウム班の撮影メンバーだけだった。ほんの数週間前まで卒業式で賑わっていた体育館も、今はしんと静まりかえっている。
空は柔らかい桃色に染まり、吹き抜ける風がどこか新生活の予感を孕んでいるように感じられた。
「あと一本だけだ」
朔太郎がスパイクの紐を引き締めながら、トラックに目を向けた。
裕美子が小型ドローンのプロペラを回しながら声を張る。
「風速、南南西一・六メートル。視覚的にも映えるね、この光。夕焼けがバッチリ反射するから、空撮PV、いい素材になりそう」
「そのために俺が全力で走るんだぞ……ご褒美はあるんだろうな?」
朔太郎がからかうように笑うと、裕美子は「あんた、SNS映え興味なかったじゃん」と返しつつ、ちらりと莉音のほうを見る。
莉音は記録ボードの前に立ち、白いマーカーを片手に無言で数字を整えていた。集中しているのか、あるいは意図的に周囲の会話を無視しているのか、表情に読み取りづらい静けさがある。
朔太郎は一歩ずつ助走位置に向かう。
リスタートまで、あと60秒。
足元のスパイクが砂を軽く蹴る。その音が、心拍と同じリズムで刻まれていく。
(……ラスト一本、いや、“高校最後の一本”だ)
それを思うと、胃の底が少しだけ熱くなる。これまで、どれだけのレースを走ってきただろう。敗北も、勝利も、仲間の励ましも、すべてがこのラインに収束するような錯覚。
莉音の声が、いつもより一拍遅れて飛んできた。
「風、変わった。今、正面から来てる。0.4メートル、計算上は……微妙だけど、悪くはない」
朔太郎は小さく頷いた。
彼女の分析はいつも正確だ。信頼できる。でも今日は、それ以上の何かを感じていた。
朔太郎はスターティングブロックに足をかける。姿勢を落とし、息を整える。
その一瞬、視界の端に莉音の姿が入った。ボードに手を置いたまま、じっと彼のフォームを見ている。その指先が、わずかに震えていた。
(……なんだ、あれ)
思考の隙間に、ほんの少しの雑音が混じる。
だが、耳に届いたのはただ一つの合図。
「Ready——」
そして。
「Go!!」
朔太郎の体が、春の風を割って飛び出した。
踏み出した最初の一歩で、世界の輪郭が一変する。
スタートブロックの反動が背中を押し、地面との摩擦が全身を駆け上がる。朔太郎は加速のリズムを身体に刻み込むように、音もなく走った。
最初の30メートルは無意識。すべてが感覚の連なりだ。
重心を前に落とし、脚が自然に前へ出る。
――風が重い。
莉音が言った通り、わずかに向かい風だ。でも、その抵抗が却って彼の集中を研ぎ澄ませていた。春の空気に溶けこむように、全神経を速度に注ぎ込む。
50メートル地点を過ぎた。
遠く、裕美子のドローンが空を旋回しているのが見えた。その後ろに、夕陽が低く垂れている。
(見せてやれよ、これが俺の“今”だ)
そして、最後の10メートル。
ラストスパートの瞬間、足裏がトラックを叩く音が一瞬だけ弾けた。
フィニッシュラインを切ったとき、朔太郎は思わず息を切らし、その場に膝をついた。
「タイム、出た!」
裕美子の声が飛んでくる。
莉音が記録ボードにゆっくりと数字を書き込む。黒い数字が、白地にすっと浮かび上がった。
「十秒三九。校歴代一位」
その言葉に、トラックの端にいた部員たちが一斉に歓声をあげた。
「マジかよ!」
「先輩やば……!」
朔太郎は、ぼうっとその声を聞いていた。
息が整わない。心臓が暴れている。
でも、それ以上に胸を打ったのは、莉音が数字を書き終えた直後、わずかに手を震わせていたことだった。
いつも冷静で、乱れない彼女が。
「……莉音」
呼びかけた声は、思っていたよりも掠れていた。
莉音が振り返る。いつも通りの無表情……のはずだった。
けれど目元だけが、かすかに潤んでいた。
「おめでとう。これが、あなたの答えなんでしょ?」
朔太郎は、何も言えずにうなずいた。
その瞬間、風が吹いた。春の風が、ふたりの間を通り抜ける。
(この風の中で、ずっと競ってきた。ずっと――隣にいた)
朔太郎はゆっくり立ち上がり、莉音の隣に並ぶ。まだ記録ボードに記された数字を見ていた彼女の隣で、ふと手を伸ばし、ペンを受け取る。
ボードの片隅に、ちいさくこう書き足した。
「ありがとう」
莉音がそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
その微笑みが、誰よりも眩しく見えた。
桜丘高校400mトラックの片隅で、雄貴が三脚越しにカメラを構えていた。
「……撮れてる撮れてる! いや、これ絶対に素材になるって!」
彼がモニターに目を落としながら小躍りしている横で、真紀が腕を組んでいた。
「朔ちゃんがあれだけ真っ直ぐ走ってるとさ、なんか、こっちまで泣けてくるんだよね。ほら、真面目な顔してさ」
「まあ、莉音ちゃんの前だから余計なんじゃね?」
真紀はにやりと笑う。
「それもあるけど、今日の朔ちゃんは“勝ちたい”じゃなくて“伝えたい”って顔してた」
そのとき、裕美子がタブレット片手に駆け寄ってくる。
「見て見て! 空撮のPV、第一弾できたよ!」
彼女がドローン映像のデータを再生すると、画面には春の空を背景に、朔太郎が一人でトラックを駆け抜ける姿が映る。
背後には満開の桜。風に揺れる枝が、まるでその疾走を祝福しているようだった。
「……うわ、なにこれエモ……」
雄貴がつぶやく。真紀も見惚れていた。
「莉音ちゃんが編集したら、もっと完璧になりそう」
「うん。あとでBGM案、ノエルにも聞いてもらおうかな」
そのとき、走り終えた朔太郎が皆の方に歩いてくる。
汗がにじむ額を手の甲でぬぐいながら、自然と莉音と肩が並ぶ。
「……今日さ。もし、あと0.01秒遅かったら、俺、もう立ち直れなかったかも」
朔太郎の冗談に、莉音はちらと彼を見て、小さく言った。
「でも、その0.01秒を、あなたは自分で勝ち取った。そこに私は何も足してない」
「……いや、加えてくれたよ。ちゃんと」
彼はそう言って、真っ直ぐに莉音を見た。
「ずっと横にいてくれた。それが、俺には一番効いた」
莉音は返事をしなかった。ただ、いつものように静かに微笑んでいた。
その沈黙こそが、彼女なりの答えだった。
ふたりの距離は、近いようで、まだあと少しだけ遠かった。
けれどその間に吹く春風が、今だけはやさしかった。
春休みの最中、部活動の時間制限もゆるくなったこの時期。それでも、放課後の校庭に残っているのは朔太郎と数人の陸上部員、そしてプラネタリウム班の撮影メンバーだけだった。ほんの数週間前まで卒業式で賑わっていた体育館も、今はしんと静まりかえっている。
空は柔らかい桃色に染まり、吹き抜ける風がどこか新生活の予感を孕んでいるように感じられた。
「あと一本だけだ」
朔太郎がスパイクの紐を引き締めながら、トラックに目を向けた。
裕美子が小型ドローンのプロペラを回しながら声を張る。
「風速、南南西一・六メートル。視覚的にも映えるね、この光。夕焼けがバッチリ反射するから、空撮PV、いい素材になりそう」
「そのために俺が全力で走るんだぞ……ご褒美はあるんだろうな?」
朔太郎がからかうように笑うと、裕美子は「あんた、SNS映え興味なかったじゃん」と返しつつ、ちらりと莉音のほうを見る。
莉音は記録ボードの前に立ち、白いマーカーを片手に無言で数字を整えていた。集中しているのか、あるいは意図的に周囲の会話を無視しているのか、表情に読み取りづらい静けさがある。
朔太郎は一歩ずつ助走位置に向かう。
リスタートまで、あと60秒。
足元のスパイクが砂を軽く蹴る。その音が、心拍と同じリズムで刻まれていく。
(……ラスト一本、いや、“高校最後の一本”だ)
それを思うと、胃の底が少しだけ熱くなる。これまで、どれだけのレースを走ってきただろう。敗北も、勝利も、仲間の励ましも、すべてがこのラインに収束するような錯覚。
莉音の声が、いつもより一拍遅れて飛んできた。
「風、変わった。今、正面から来てる。0.4メートル、計算上は……微妙だけど、悪くはない」
朔太郎は小さく頷いた。
彼女の分析はいつも正確だ。信頼できる。でも今日は、それ以上の何かを感じていた。
朔太郎はスターティングブロックに足をかける。姿勢を落とし、息を整える。
その一瞬、視界の端に莉音の姿が入った。ボードに手を置いたまま、じっと彼のフォームを見ている。その指先が、わずかに震えていた。
(……なんだ、あれ)
思考の隙間に、ほんの少しの雑音が混じる。
だが、耳に届いたのはただ一つの合図。
「Ready——」
そして。
「Go!!」
朔太郎の体が、春の風を割って飛び出した。
踏み出した最初の一歩で、世界の輪郭が一変する。
スタートブロックの反動が背中を押し、地面との摩擦が全身を駆け上がる。朔太郎は加速のリズムを身体に刻み込むように、音もなく走った。
最初の30メートルは無意識。すべてが感覚の連なりだ。
重心を前に落とし、脚が自然に前へ出る。
――風が重い。
莉音が言った通り、わずかに向かい風だ。でも、その抵抗が却って彼の集中を研ぎ澄ませていた。春の空気に溶けこむように、全神経を速度に注ぎ込む。
50メートル地点を過ぎた。
遠く、裕美子のドローンが空を旋回しているのが見えた。その後ろに、夕陽が低く垂れている。
(見せてやれよ、これが俺の“今”だ)
そして、最後の10メートル。
ラストスパートの瞬間、足裏がトラックを叩く音が一瞬だけ弾けた。
フィニッシュラインを切ったとき、朔太郎は思わず息を切らし、その場に膝をついた。
「タイム、出た!」
裕美子の声が飛んでくる。
莉音が記録ボードにゆっくりと数字を書き込む。黒い数字が、白地にすっと浮かび上がった。
「十秒三九。校歴代一位」
その言葉に、トラックの端にいた部員たちが一斉に歓声をあげた。
「マジかよ!」
「先輩やば……!」
朔太郎は、ぼうっとその声を聞いていた。
息が整わない。心臓が暴れている。
でも、それ以上に胸を打ったのは、莉音が数字を書き終えた直後、わずかに手を震わせていたことだった。
いつも冷静で、乱れない彼女が。
「……莉音」
呼びかけた声は、思っていたよりも掠れていた。
莉音が振り返る。いつも通りの無表情……のはずだった。
けれど目元だけが、かすかに潤んでいた。
「おめでとう。これが、あなたの答えなんでしょ?」
朔太郎は、何も言えずにうなずいた。
その瞬間、風が吹いた。春の風が、ふたりの間を通り抜ける。
(この風の中で、ずっと競ってきた。ずっと――隣にいた)
朔太郎はゆっくり立ち上がり、莉音の隣に並ぶ。まだ記録ボードに記された数字を見ていた彼女の隣で、ふと手を伸ばし、ペンを受け取る。
ボードの片隅に、ちいさくこう書き足した。
「ありがとう」
莉音がそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
その微笑みが、誰よりも眩しく見えた。
桜丘高校400mトラックの片隅で、雄貴が三脚越しにカメラを構えていた。
「……撮れてる撮れてる! いや、これ絶対に素材になるって!」
彼がモニターに目を落としながら小躍りしている横で、真紀が腕を組んでいた。
「朔ちゃんがあれだけ真っ直ぐ走ってるとさ、なんか、こっちまで泣けてくるんだよね。ほら、真面目な顔してさ」
「まあ、莉音ちゃんの前だから余計なんじゃね?」
真紀はにやりと笑う。
「それもあるけど、今日の朔ちゃんは“勝ちたい”じゃなくて“伝えたい”って顔してた」
そのとき、裕美子がタブレット片手に駆け寄ってくる。
「見て見て! 空撮のPV、第一弾できたよ!」
彼女がドローン映像のデータを再生すると、画面には春の空を背景に、朔太郎が一人でトラックを駆け抜ける姿が映る。
背後には満開の桜。風に揺れる枝が、まるでその疾走を祝福しているようだった。
「……うわ、なにこれエモ……」
雄貴がつぶやく。真紀も見惚れていた。
「莉音ちゃんが編集したら、もっと完璧になりそう」
「うん。あとでBGM案、ノエルにも聞いてもらおうかな」
そのとき、走り終えた朔太郎が皆の方に歩いてくる。
汗がにじむ額を手の甲でぬぐいながら、自然と莉音と肩が並ぶ。
「……今日さ。もし、あと0.01秒遅かったら、俺、もう立ち直れなかったかも」
朔太郎の冗談に、莉音はちらと彼を見て、小さく言った。
「でも、その0.01秒を、あなたは自分で勝ち取った。そこに私は何も足してない」
「……いや、加えてくれたよ。ちゃんと」
彼はそう言って、真っ直ぐに莉音を見た。
「ずっと横にいてくれた。それが、俺には一番効いた」
莉音は返事をしなかった。ただ、いつものように静かに微笑んでいた。
その沈黙こそが、彼女なりの答えだった。
ふたりの距離は、近いようで、まだあと少しだけ遠かった。
けれどその間に吹く春風が、今だけはやさしかった。



