春分の朝、白いカーテン越しに差し込む陽光が、朔太郎のまぶたをじわじわと焼いた。
 布団の中で身じろぎすると、脳裏に今日という日の意味が浮かぶ。――合格発表。
 ベッド脇の机に置いたスマートフォンを取り上げ、画面に映る時刻は「08:59」。
 彼の心臓は鼓動ではなく、砲弾のように胸を突き上げていた。
「見届けるだけだ。競争じゃない、結果を待つだけだ」
 そう言い聞かせても、どこか呼吸は浅くなる。
 目を閉じて深呼吸。だが、落ち着こうとすればするほど、逆に集中力が削がれていく。
 そっと、通知の画面を開いた。
 SNSにはすでに「受かった!」「落ちた…」といった文字が並びはじめている。
 彼はタイムラインを一気にスクロールして消した。誰かの合格は今は見たくない。
 午前9時、ちょうどのアラームが鳴った。
 すぐにウェブブラウザを立ち上げ、「全国数理研究発表会・校内最優秀選抜」――その結果ページを開く。
 無意識に手が震えていた。けれど、探す名前は一つしかない。
 「桜丘高校 代表:篠宮莉音」
 その文字を見つけた瞬間、朔太郎の脳内で、爆発音のような何かが響いた。
「ああ……すげえな、おまえ」
 つぶやいた声は、自分でも驚くほど晴れやかだった。
 誇らしくもあり、悔しくもある。だが、それは不思議と嫌な感情ではなかった。
 即座に、メッセージアプリを開く。スタンプのページに指を滑らせると、以前莉音が使っていた白フクロウの絵文字があった。それを一つだけ、ぽんと送った。
 返事はすぐに来た。文字は短く、ただ――
 「競争は、あと少し」
 その一文が、どこまでも莉音らしかった。
 *
 その日、昼休みの図書館ラウンジ。
 カーテン越しに柔らかく日が差し込む中、朔太郎はドリンクを片手に待っていた。
 階段を駆け上がる靴音が聞こえるたびに、反射的にそちらを振り向く。
 やがて、静かな足取りで莉音が姿を現した。
 髪を後ろで一つにまとめ、制服のリボンも完璧に整っている。だが、目元だけはほんの少し赤く、何かをこらえた形跡があった。
「……見た?」
「ああ。朝イチで」
「スタンプ、ありがと」
 莉音はスカートの裾を整えて椅子に座った。
 視線がぶつかる。どちらからともなく、静かな笑いが漏れた。
「これで、推薦は確定だな」
「まだ。最終選抜まであと二週間あるし、油断はできない」
「らしいな、ほんとに。……でもさ、やっぱ莉音はすごいよ」
「あなたも、でしょ。あの都大会の記録、全国ランキング十位だったって知ってる?」
「知られたくなかったんだけどな……」
 朔太郎は頭をかいた。
 莉音は静かに笑ったあと、カバンからノートPCを取り出した。
 画面には、研究発表のスライドが映っている。
「あと一つだけ、あなたに頼みたいことがあるの」
「ん?」
「これ、最終発表のプレゼンなんだけど……数式の説明部分を、あなたに見てもらいたい」
「俺が? 数学の天才様が?」
「……“筋肉が式を理解するかどうか”を確認したいの」
「それ、褒めてる?」
「もちろん。あなたがわかれば、どんな聴衆にも伝わるってこと」
 朔太郎は吹き出すように笑ったが、その手はすでに彼女のPCへと伸びていた。



 図書館ラウンジの空気は、外の春風のように穏やかで、どこかくすぐったい緊張感を含んでいた。
 朔太郎はノートPCの画面を見つめながら、眉をひそめる。
「えっと……この“Δv”って、結局何なんだっけ?」
「速度の変化量。ここでは、ランナーの加速度の変動を表す」
「じゃあ、この“μ”っていうのは?」
「摩擦係数。地面との接触に関する値だけど……」
「うーん、なんでいちいちこんなギリギリの数値出すんだ?」
「ギリギリだから、意味があるの」
 莉音の声はやわらかく、それでいて一切の妥協を許さなかった。
 朔太郎は深く息を吸い込み、もう一度スライドを見つめ直す。
 莉音が作ったグラフには、彼自身のスプリントデータも反映されていた。
 あの氷雨の夜、ノエルがピロティで測った助走距離、角度、脚の沈み込み――すべてが回帰式に還元され、今、数式という言語で語られている。
「なあ、莉音」
「なに?」
「これさ、おまえの“研究”っていうより……俺との“競争の記録”なんじゃね?」
 莉音の手が止まった。
 そして、小さく目を伏せる。
「……そのつもりも、あったかもしれない」
「なら、嬉しいな」
 朔太郎はニカッと笑った。
 照れ隠しでも冗談でもない、ただの本音だった。
「……でも、もうすぐ終わるんだよね。競争も」
 莉音のつぶやきに、朔太郎は少しだけ間を置いて頷いた。
「うん。あと、数週間ってとこだな」
「それって、淋しい?」
「淋しいさ。でもさ……」
 彼は笑って、莉音のノートPCをそっと閉じた。
「でも、たぶん――その先に、もっと楽しみがある気がする」
「楽しみ、ね」
 莉音もまた、ほほえんだ。
 その視線の先には、図書館の大窓から見える青空と、グラウンドを走る誰かの姿があった。


 放課後、3階の教室にて。
 裕美子が理科準備室から戻ってきて、真紀と小声で何かを話している。
 雄貴は映像編集ソフトと格闘しながら「合格祝いコメント動画作ろうぜ」と叫び、ノエルは「本人の許可が先」と静かに牽制する。
 そこに、朔太郎と莉音がそろって入ってきた。
「おっ、出た出たー!」
「莉音さん、おめでとう!」
「ありがとう。でも、これからが本番だから」
「うわ、そういうとこがもうプロ」
 皆が笑い、祝福の空気がふわっと広がる。
 その中心で、朔太郎は一歩だけ後ろに下がって、莉音の背中を静かに見つめていた。
 拍手も、称賛も、すべて彼女に向かっていた。――それが、ただただ嬉しかった。
(いいんだ。あいつが目指す場所に、オレも並走できてるなら)
 そう思えた自分に、驚くほど満足していた。


 帰り道、校門を出て並んで歩く二人。
 すれ違う下級生に何度か頭を下げられながらも、莉音はふと足を止めた。
「さっき、競争の先に楽しみがあるって、言ったでしょ?」
「ああ」
「……それ、ちゃんとした計画?」
「いや、ノープラン。でも、おまえがそこにいてくれたら、それで十分」
「……ずるいね、そういうの」
 莉音は少しだけ、頬を染めた。
 でも、それ以上は何も言わずに、また歩き出す。
 朔太郎も、歩幅を合わせて並ぶ。
 二人の影が、夕陽に長く伸びていく。
 手は、つながれていない。でも、どちらも離れようとはしない。
 そのわずかな距離こそが、いまのふたりにとって一番心地よい「合格ライン」だった。
(第34章 終わり)