空気が震えている気がした。正午を回ったばかりの駒沢オリンピック公園、観覧席のベンチからは灼けたトラックが見渡せる。春にしては強すぎる陽射しが、ブルーのレーンをじりじりと照らしていた。
 朔太郎は、シューズの紐をぎゅっと引き締めると、深く呼吸を吸い込んだ。冬の間に手に入れた新スパイクが、地面を噛む感触を教えてくれる。数ヶ月前、フライングで失格になった場所に、彼はまた戻ってきたのだった。

 「目指すのは、0.120秒切りだな」
 トラック脇でノートPCを開いた莉音が、画面を覗き込んだまま言った。スタート反応時間。前回は緊張から前に出すぎて、レースさえ走れなかった。その悔しさが、朔太郎をずっと走らせてきた。
 「最低でも全国ランク10位内。それ以上なら、研究データに信頼性が出る」
 莉音は冷静な表情のまま、心拍センサーのデータも確認している。彼女の眼差しは、単なる応援ではない。ライバルとして、そして、伴走者として、今日も共にここに立っているのだった。
 「いいさ。やってやる。――行ってくる」
 朔太郎は軽く手を振り、招集エリアに向かった。竜輝が一度、背中を強く叩いて「今日こそ勝ってこい」と叫んだのが聞こえた。
 風が少しだけ強くなった。気温は高いが、向かい風にならない程度の軽さだ。フライングの再発は絶対に避けたい。でも、遅れすぎても意味がない。
 朔太郎は、ピストル音が鳴る直前の世界を思い描いた。
 ――音を「待つ」のではなく、「感じる」んだ。
 「位置について」
 スターティングブロックに両足をはめ、腰を上げた。無意識に、莉音の顔が浮かんだ。彼女が作った加速度カーブの数式が、頭の片隅にある。
 「よーい」
 ――静寂。ピストルの前に、時間が止まる。
 そして。
 ――パンッ!
 朔太郎は、完璧なタイミングで飛び出した。



 踏み出した瞬間、世界が一気に後ろへ流れた。音は消え、視界の端に他の選手が並んでいることすら意識から消える。
 脳内には、莉音が繰り返し見せてくれた数式が浮かんでいた。重心の推移、地面からの反力、そして呼吸のリズム。
 ――今、脚じゃない。軸で進め。
 一歩、また一歩。スタートから30メートルまでは加速フェーズ。莉音が作ってくれた解析モデル通り、ピークを35メートルで迎えられるように意識を集中する。
 ――40、50、60……!
 前へ。さらに前へ。
 残り20メートルで、風を切る音が耳に戻ってくる。ゴールラインの向こう、観覧席の中で莉音が立ち上がっているのが見えた気がした。
 ――行け、朔太郎。
 胸がラインを切る。
 電光掲示が点灯する前に、観客がどよめいた。
 0.118秒。
 ――フライングではない。
 それが証明されると、場内の拍手が一段と大きくなった。
 莉音は立ったまま、右手を小さく握った。笑っていた。朔太郎も両手を膝に突き、荒い呼吸を繰り返しながら、少しだけ笑った。
 「これで……全国十位以内だ」
 呟いた声は、誰にも届かなくても、自分にははっきり聞こえた。



 控室へ戻る途中、竜輝が先に駆け寄ってきた。開口一番、「お前、化けもんかよ!」と叫び、タオルを頭に被せる。
 「いや、ギリギリのラインをずっと計算してただけだ」
 朔太郎がそう返すと、竜輝はにやりと笑った。
 「莉音の数式のせいでお前、ついにマシンになったな」
 その言葉に、朔太郎は苦笑した。否定はしなかった。今回は確かに、彼女の分析がなければこのタイムは出せなかったと、自分でも思う。
 そこへ、莉音がノートPCを抱えて静かに近づいてきた。開いたままの画面には、リアルタイムで送信される心拍数と加速度のグラフが映っている。
 「送ったわ。分析データと記録を、全国記録センターと数理研究所に」
 「マジで? もう?」
 「もちろん。トップ10入りで統計的信頼性が得られる。研究発表の素材としては申し分ない」
 莉音は涼しい顔で言ったが、少しだけ耳が赤いのを、朔太郎は見逃さなかった。
 「……ありがとな」
 そう呟くと、莉音は首を横に振った。
 「私のためでもあるから。けど……おめでとう、朔太郎」
 「ん。……ありがと」
 互いに言葉を探しながら、ほんの少しだけ目を合わせる。すぐに視線を逸らし、同時に笑ってしまった。



 その夜、校内掲示板の電子速報が更新された。
 《桜丘高校・二年:東條朔太郎、100m走 10.39秒/反応時間 0.118秒 全国ランキング第9位》
 視聴覚ホールのモニターに表示された瞬間、生徒たちから歓声が上がる。体育コースの後輩たちは口々に「マジかよ」「全国で九位!?」と騒ぎ、SNS部門を担当している雄貴は、すかさず校内ニュースの速報編集に取り掛かっていた。
 「タイトルは『リベンジ達成、0.118秒の奇跡』でどう?」
 「ダサい」
 真紀が即座に切り捨て、雄貴は苦笑しながら別案を考え始める。
 その頃、朔太郎は一人、校舎裏の倉庫のベンチでクールダウンをしていた。手には、莉音が記録用に印刷してくれた公式データシート。乾いた風がシートを軽く揺らす。
 その背後から、足音が近づく。
 「いた」
 莉音だった。普段は資料を抱えて移動する彼女が、今日は手ぶらで来ていた。
 「何してるの?」
 「冷やしてる。筋肉も、気持ちも」
 「……よく頑張ったと思う」
 莉音はそう言って、朔太郎の隣に腰を下ろした。しばらくの沈黙。あえて互いに言葉を選ばない。
 「今日の君は、数式を超えてた」
 ぽつりと、莉音が言った。朔太郎は驚いたように彼女を見る。
 「数式で予測できるラインは、確かに越えてた。でも――」
 「でも?」
 「最後の5メートルだけは、私にも読めなかった」
 その言葉に、朔太郎は少しだけ胸を張る。
 「そりゃそうだ。俺、数学より走るの得意だからな」
 莉音が少し笑った。
 そして、風が二人の間を抜けていった。



 「次、何を目指すの?」
 莉音の声は静かだったが、少しだけ期待を含んでいた。
 朔太郎は、目を細めながら遠くの照明塔を見つめた。
 「全国大会。いや……それもあるけどさ」
 一呼吸おいて、視線を莉音に向ける。
 「君の論文が、全国数理研究発表会で“最優秀”ってニュースが出たとき、隣で走ってるのが俺であってほしい」
 莉音は一瞬、言葉をなくしたようにまばたきをする。
 「それって、勝負の話?」
 「いや。伴走の話」
 心拍が少し上がったのは、走ったせいではない。朔太郎は真っすぐに言葉を重ねた。
 「最初は君に勝ちたかった。けど今は――一緒に、速くなりたい」
 莉音は、わずかに目を伏せて、それから静かに頷いた。
 「わかった。なら私は、君がどこにいても測定できるように、また新しい式を作る」
 「それって……」
 「うん。離れないってこと」
 夜風がやさしく吹き、二人の間の空気が少しだけ温かくなった。
 駒沢の夜空には、競技場の照明がまだ灯っている。その下で交わされた言葉は、どんな記録よりも確かな、新しいスタートラインだった。