模試会場の空気は、いつもの教室よりもどこか重たい。
3月8日、土曜日の朝。時間はまだ八時二十分。窓の外には冬の終わりを感じさせる薄曇りの空が広がり、体育館裏に面したこの特別教室にも、冷え切った空気がそのまま入ってきていた。
受験期も終盤――けれど、桜丘高校ではこの日を「最後の模試」と呼んでいた。ゼミ評価の一環として成績に加算されるため、単なる練習では済まない。実質、これが最後の「一騎討ち」になる。
教室にはすでに何人かが着席しており、鉛筆を並べる音、時計を見る音、紙をめくる音が微かに響いている。中でも竜輝の席はやけに落ち着きがなかった。
「やっべぇ……替え芯忘れた……」
彼は慌ててペンケースをまさぐっていたが、シャーペンの芯の予備がどこにも見つからず、眉をしかめたまま顔を上げた。
「なあ朔、一本貸してくんね?」
少し離れた席から声をかけられ、朔太郎は小さく笑って、鞄から新品の鉛筆を一本差し出した。
「一本勝負用。……削ってないけど」
「うおっ、あんがと! 気合入ったやつじゃん!」
竜輝がそれを受け取り、慌てて教室後方の鉛筆削り機に走る。走るなって張り紙が目に入ってないあたり、いつも通りだ。
そんなやり取りを横目に、莉音は静かに計算尺をケースから取り出し、机の左上に置いた。普段なら持ち込まないアイテムだったが、今回は彼女なりの“お守り”だった。
(最終成績、今は一位差。ここで逆転すれば、可能性はまだある)
計算ではなく、意志。理屈ではない、想い。半年以上かけて変わってきた自分を、莉音は今も認めきれずにいた。けれど、その変化を信じるきっかけが、この試験なのだとわかっていた。
チャイムが鳴った。無音の緊張が教室全体を支配する。
「始めてください」の一言とともに、一斉に鉛筆が走る音が始まる。
朔太郎の動きは相変わらず速い。問題文を一読するより先に、設問の配点を把握して、効率的に手を動かしていく。
莉音は真逆だった。まず文章を読み込み、全体構成を掴み、数分かけてペース配分を構築してから解き始める。
そのアプローチの差こそが、二人の勝負の本質だった。
(今回は、負けない……)
心の奥で、静かな炎が灯る。
時は進む。静寂の中、鉛筆の走る音だけが規則的に響く。
だが、次第に誰もが気づき始めていた。――空気が変わっている。
莉音のペースが速い。
朔太郎がそれに気づいたのは、隣の机の用紙が2ページ進んでいることに気づいた時だった。思わず一度、彼は鉛筆を置いた。
(やるな……)
苦笑交じりに、再び指を走らせる。
最終問題までの時間は刻一刻と削れていく。最後の数分、朔太郎は一気に集中力を最大限に引き上げた。
莉音も同じだった。頭の中で浮かび上がった数式と選択肢を、ほぼ同時に精査して解答欄に埋めていく。指が震えるほどの緊張と、それを乗り越える執念。
「終了です。筆記具を置いてください」
その言葉と同時に、一斉に息が抜けた。空気が一気にゆるむ。
莉音は鉛筆を置いたあと、ふと視線を斜め前に向けた。朔太郎もちょうどこちらを見ていた。
目が合う。どちらも、何も言わなかった。
ただ、微かに頷く。
それだけで、今の戦いに“意味”があったことが伝わる気がした。
(続きは次のレスで02/Endをお届けします)
【第32章「最後の模試と鉛筆削り」】(02/End)
休憩中の廊下。窓辺に寄りかかる朔太郎の隣に、竜輝がぼさぼさの髪のまま現れた。
「いやー、あの鉛筆、マジで縁起良かった。芯が柔らかくて書き心地抜群だった」
「それは芯の問題じゃないだろ。お前の集中力だよ」
「おう、ありがとうな」
ぽんと肩を叩かれたその瞬間、スマホの通知が鳴った。成績速報のURLが共有されたのだ。
廊下中がざわめき始める。
朔太郎は深呼吸してから、画面を開いた。
【模試成績速報(上位10名)】
1位 白河 莉音 得点:483点(平均98.6)
2位 橘 朔太郎 得点:482点(平均98.4)
「……マジか」
差は、たった1点。
朔太郎は笑った。負けたのに、口元が緩んだ。あまりにも僅差だったからこそ、妙に納得できた。
「やるじゃん、莉音」
小さくつぶやく。
廊下の反対側、同じくスマホを見ていた莉音の指が、止まっていた。画面には、朔太郎の順位と得点。そしてその下に並ぶ他の生徒の名前。
朔太郎と並ぶ1位にはなれなかった。でも――
(1点でも上回る日が、来た)
達成感ではない。勝利でもない。ただ、確かに「成長した」という実感があった。
その夜、何かを伝えたくて、莉音はスマホを手に取った。
でも言葉が出てこない。
ただ、「ありがとう」とだけ打って、送信ボタンを押した。
朔太郎からの返信は、絵文字一つだった。
👍
シンプルで、まっすぐな反応。勝敗を超えた信頼のようなものが、そこにあった。
鉛筆一本。計算尺一本。
何気ない道具が、今では二人の関係を象徴している。
模試は終わった。けれど、競い合いながら走る日々は、まだ終わらない。
(第32章「最後の模試と鉛筆削り」了)
3月8日、土曜日の朝。時間はまだ八時二十分。窓の外には冬の終わりを感じさせる薄曇りの空が広がり、体育館裏に面したこの特別教室にも、冷え切った空気がそのまま入ってきていた。
受験期も終盤――けれど、桜丘高校ではこの日を「最後の模試」と呼んでいた。ゼミ評価の一環として成績に加算されるため、単なる練習では済まない。実質、これが最後の「一騎討ち」になる。
教室にはすでに何人かが着席しており、鉛筆を並べる音、時計を見る音、紙をめくる音が微かに響いている。中でも竜輝の席はやけに落ち着きがなかった。
「やっべぇ……替え芯忘れた……」
彼は慌ててペンケースをまさぐっていたが、シャーペンの芯の予備がどこにも見つからず、眉をしかめたまま顔を上げた。
「なあ朔、一本貸してくんね?」
少し離れた席から声をかけられ、朔太郎は小さく笑って、鞄から新品の鉛筆を一本差し出した。
「一本勝負用。……削ってないけど」
「うおっ、あんがと! 気合入ったやつじゃん!」
竜輝がそれを受け取り、慌てて教室後方の鉛筆削り機に走る。走るなって張り紙が目に入ってないあたり、いつも通りだ。
そんなやり取りを横目に、莉音は静かに計算尺をケースから取り出し、机の左上に置いた。普段なら持ち込まないアイテムだったが、今回は彼女なりの“お守り”だった。
(最終成績、今は一位差。ここで逆転すれば、可能性はまだある)
計算ではなく、意志。理屈ではない、想い。半年以上かけて変わってきた自分を、莉音は今も認めきれずにいた。けれど、その変化を信じるきっかけが、この試験なのだとわかっていた。
チャイムが鳴った。無音の緊張が教室全体を支配する。
「始めてください」の一言とともに、一斉に鉛筆が走る音が始まる。
朔太郎の動きは相変わらず速い。問題文を一読するより先に、設問の配点を把握して、効率的に手を動かしていく。
莉音は真逆だった。まず文章を読み込み、全体構成を掴み、数分かけてペース配分を構築してから解き始める。
そのアプローチの差こそが、二人の勝負の本質だった。
(今回は、負けない……)
心の奥で、静かな炎が灯る。
時は進む。静寂の中、鉛筆の走る音だけが規則的に響く。
だが、次第に誰もが気づき始めていた。――空気が変わっている。
莉音のペースが速い。
朔太郎がそれに気づいたのは、隣の机の用紙が2ページ進んでいることに気づいた時だった。思わず一度、彼は鉛筆を置いた。
(やるな……)
苦笑交じりに、再び指を走らせる。
最終問題までの時間は刻一刻と削れていく。最後の数分、朔太郎は一気に集中力を最大限に引き上げた。
莉音も同じだった。頭の中で浮かび上がった数式と選択肢を、ほぼ同時に精査して解答欄に埋めていく。指が震えるほどの緊張と、それを乗り越える執念。
「終了です。筆記具を置いてください」
その言葉と同時に、一斉に息が抜けた。空気が一気にゆるむ。
莉音は鉛筆を置いたあと、ふと視線を斜め前に向けた。朔太郎もちょうどこちらを見ていた。
目が合う。どちらも、何も言わなかった。
ただ、微かに頷く。
それだけで、今の戦いに“意味”があったことが伝わる気がした。
(続きは次のレスで02/Endをお届けします)
【第32章「最後の模試と鉛筆削り」】(02/End)
休憩中の廊下。窓辺に寄りかかる朔太郎の隣に、竜輝がぼさぼさの髪のまま現れた。
「いやー、あの鉛筆、マジで縁起良かった。芯が柔らかくて書き心地抜群だった」
「それは芯の問題じゃないだろ。お前の集中力だよ」
「おう、ありがとうな」
ぽんと肩を叩かれたその瞬間、スマホの通知が鳴った。成績速報のURLが共有されたのだ。
廊下中がざわめき始める。
朔太郎は深呼吸してから、画面を開いた。
【模試成績速報(上位10名)】
1位 白河 莉音 得点:483点(平均98.6)
2位 橘 朔太郎 得点:482点(平均98.4)
「……マジか」
差は、たった1点。
朔太郎は笑った。負けたのに、口元が緩んだ。あまりにも僅差だったからこそ、妙に納得できた。
「やるじゃん、莉音」
小さくつぶやく。
廊下の反対側、同じくスマホを見ていた莉音の指が、止まっていた。画面には、朔太郎の順位と得点。そしてその下に並ぶ他の生徒の名前。
朔太郎と並ぶ1位にはなれなかった。でも――
(1点でも上回る日が、来た)
達成感ではない。勝利でもない。ただ、確かに「成長した」という実感があった。
その夜、何かを伝えたくて、莉音はスマホを手に取った。
でも言葉が出てこない。
ただ、「ありがとう」とだけ打って、送信ボタンを押した。
朔太郎からの返信は、絵文字一つだった。
👍
シンプルで、まっすぐな反応。勝敗を超えた信頼のようなものが、そこにあった。
鉛筆一本。計算尺一本。
何気ない道具が、今では二人の関係を象徴している。
模試は終わった。けれど、競い合いながら走る日々は、まだ終わらない。
(第32章「最後の模試と鉛筆削り」了)



