視聴覚ホールのカーテンがゆっくりと開くと、客席から思わずどよめきが漏れた。壇上には、五人の卒業生が並んで腰かけていた。その中央、一際目立つスポーツウェア姿の青年が立ち上がり、マイクを手に取った。
「えー、こんにちは。元桜丘陸上部キャプテン、そして、今は関東学生選抜のリレーチーム所属、川嶋一誠です!」
 軽快な第一声に会場がざわつき、拍手が起こる。だがそのざわめきのなか、朔太郎は背筋を伸ばして座っていた。彼の額からは、一筋の汗が静かに流れている。
「ってことで、今日は僕ら五人で“卒業してからのリアル”を、できるだけホンネで話していこうと思ってます!」
 進行は、教員からの指名で――なぜか朔太郎だった。
 舞台袖で名前を呼ばれた瞬間、脳内では一度「無理無理無理!」の警報が鳴り響いた。が、壇上に立つ卒業生たちを目にした途端、その気持ちはすぐに「なら、聞いてやるか」に変わっていた。
 マイクを握ったまま戸惑っている朔太郎に、壇上の川嶋が軽くウインクして見せた。
「君、現・陸上部のスプリンターだろ? ……質問、していいぜ?」
 朔太郎は息を呑んだ。
 今、このホールの中には、莉音もいる。舞台下手のタイムキーパー席に、彼女はストップウォッチとプログラム表を片手に座っている。目が合うと、彼女はゆっくりと顎を引いた。――GOの合図だった。
 朔太郎は一歩前に出て、マイクを口元に寄せた。
「……川嶋さん。僕、聞きたいことがあります」
「ほう?」
「競争の先に、何が見えるんですか?」
 その瞬間、ホールの空気が変わった。
 卒業生たちの目が、一斉に朔太郎に向けられた。壇上最年長の進学組が眼鏡を押し上げ、川嶋が「いいね」と低くうなった。
「なるほど、いい質問だ」
 川嶋は両手を組んで口元に当てた。沈黙。そしてゆっくりと語りはじめた。
「競争ってのはな、俺にとっては“比較”じゃない。“確認”なんだよ」
「確認、ですか?」
「ああ。昨日の自分より速いか。昨日よりチームのために動けたか。競うってのは、自分にとっての最大のチェック項目だと思ってる。……けどな、気づくんだ。いつか。隣で一緒に走ってるやつの存在が、自分を動かしてたんだって」
 その言葉に、朔太郎の脳裏に、信号機の青が点滅する中で並走した、あの日の朝が浮かんだ。
 莉音が、転入初日のあの日、無言のまま横を走っていた姿。名前も知らなかったのに、ただ負けたくないと思った。その直感こそが、今の自分をつくってきた。
「伴走者を得たら、そのとき初めて“競争の意味”が変わる。順位なんてのは、その先に出るオマケだ」
 川嶋は言った。
 視線を送ると、莉音はそっとストップウォッチのボタンを押した。まだ発言は一分ほど残っていた。
 朔太郎はマイクを持ったまま、唇を震わせた。質問ではなく、言葉を紡ぐ。
「僕、もうすぐ卒業します。でも、まだ勝ちきれていない相手が、います。けど、その人と並んで走っているとき――自分の限界が、一歩ずつ、超えられていくのを感じます」
 言い切ったあと、朔太郎は一礼した。会場には静寂。だがそのすぐあとに、割れるような拍手が続いた。
 舞台袖に戻ると、莉音がプログラム表を閉じて、朔太郎の隣に立った。
「……あれは、告白に近いと思う」
「ちげーよ。あれは、質問の回答の延長線」
「ふうん」
 莉音はそう言いながらも、視線は朔太郎の方を見ない。だが、手にはしっかりと彼と同じ速度で歩調を合わせるような動きがあった。
 拍手がまだ尾を引いているホールの中で、二人は静かに並んで歩き出した。

 ホールの裏手、機材倉庫へ続く通路を歩きながら、朔太郎は心のなかで呼吸を整えていた。
 莉音がすぐ隣にいた。肩が触れそうで触れない、絶妙な距離。いつものように正確なテンポで歩きながら、彼女は話しはじめる。
「さっきの質問……“競争の先には何があるか”。あれ、最初から考えてた?」
「いや、全然。壇上に上がったとき、目の前にあの人がいたから……思わず口に出てた」
「無意識の質問が、あれ?」
 莉音の言い方は柔らかかったが、微かに口角が上がっていた。珍しく感情を乗せた声音だった。
「……たぶん、ずっと気になってたんだと思う。誰より速くなりたいのは確かだけど、それだけじゃ何か足りないって、最近ずっと思ってて」
「それは、足りなさじゃなくて……変化、じゃない?」
 朔太郎は足を止めた。莉音も同じタイミングで止まり、少し顔を上げる。蛍光灯の光が彼女の髪に柔らかく反射していた。
「私、最初はただ、理論で勝てばいいと思ってた。数値、計算、効率……でも、今はちょっと違う」
「何が違う?」
「……誰かの熱量に、影響されることも悪くないって、思えてきた」
 それは彼女なりの――いや、莉音だからこそ言える、遠回しな告白のようだった。
 朔太郎は何も言わなかった。けれど、返事の代わりに自然と肩が並ぶ。二人の足元には、誰にも踏まれていない舞台裏の静かな床が続いている。
「……あのさ、莉音」
「ん?」
「卒業式が終わったら、一緒に走らないか?」
「どこを?」
「多摩川でも、渋谷の交差点でもいい。――いや、たぶん、どこでもいいんだと思う。ただ、君と並んでスタートしたいだけ」
 莉音は目を丸くして、それからほんの少しだけ、頷いた。
 それは笑顔ではなかったけれど、どんな勝利よりも、朔太郎にとって価値のある反応だった。
 その日のトークライブが、生徒会のSNSアカウントで「心が震えた」とシェアされ続けたことは、二人の耳にも後日届く。
 だが今は、そんなことよりも大事な“呼吸のリズム”があった。
 二人が歩き出すその先に、新しいレースの音が静かに鳴りはじめていた。

(第31章「卒業生トークライブ」了)