二月十四日、午後一時。
 理科準備室には、妙な甘い香りと、神妙な沈黙が漂っていた。
 「ここ、普通に調理室じゃダメだったの?」
 朔太郎がそわそわと足を組み替えると、対面の実験台に立つ莉音が、保温シート越しに答えた。
 「調理室は混んでたし、私は温度データを正確に取りたいの。理科室なら、環境制御ができる」
 そう言って莉音は、実験用の温度計を片手に、手元のボウルに視線を落とした。湯煎で溶けたチョコレートが、今まさに理想の状態へと近づいていた。
 「31.8度……32.0度。はい、テンパリング成功」
 「いや、それ理系女子のバレンタインとしてどうなんだ」
 朔太郎は肩をすくめながら、そっと机に目をやった。
 既に固められたチョコの一部には、数式が刻まれていた。
 √2、π、そしておそらくフーリエ変換の初歩公式。
 「これ、俺への当てつけ?」
 「違うわよ。ちゃんと研究成果の一環。これ、“温度変化による結晶構造安定性の差異”の試作データなの。だから味は二の次」
 「なるほど……じゃあ、これは“義理”?」
 莉音は一瞬だけ視線を上げ、軽く息を吐いた。
 「義理か本命かって言葉の使い方、あまり好きじゃないの。私が渡すのは“成果”で、あなたが受け取るのは“結果”。それでいいと思ってる」
 「うーん、やっぱりお前、ちょっとズレてるよ」
 朔太郎は苦笑しながら、チョコのひとかけらを摘み取る。
 「でも……うまい。甘さ控えめで、ちょっとビターな感じ」
 「数式を刻んだものは温度調整が難しいの。0.2度違うだけで舌触りが変わる。そこだけは気をつけたわ」
 莉音は、まだ少しだけ不安そうに朔太郎の表情を窺っていた。
 朔太郎はもうひとつ手に取り、数式を見つめる。
 「これ、“a×sinθ”? なんか俺の助走角度の式っぽいな」
 「気づいた?」
 「てことは、これは……」
 莉音は、ほんの一瞬だけ微笑み、言葉を継いだ。
 「——そう。“あなたにしか解けない答え”」
 そのとき、部屋の外からチャイムが鳴り、次の講義の時間を告げた。
 朔太郎はチョコのかけらをもう一度口に運び、噛みしめる。
 「勝負はまだ終わってないけどさ」
 「ええ。だからこれは“先手”よ」
 「……受けて立つ」
 二人の間に、白衣越しの静かな火花が弾けた。
 チョコは甘く、対決は、まだまだ続いていく。

(第30章「バレンタインチョコ・イコールサイン」完)