日曜の午後、春の空はうっすらと雲に覆われていた。陽射しは穏やかで、4月としては過ごしやすい気温。だが、桜丘高校の陸上トラックには、熱気が満ちていた。
 「よし、もう一本いくぞ!」
 三枝朔太郎がスタートブロックに足をかける。土煙が舞う中、100mの直線レーンに集中する姿は、まるで競技会本番のような気迫だった。
 「その前に角度チェック! さっき、初動の踏み出し、2度内側にズレてた!」
 そう叫んだのは、朔太郎のチームメイトであり、幼なじみでもある竜輝だった。彼はメジャーと三脚に固定された角度計測器を持っており、なぜか理科実験室から勝手に持ち出したような道具まで携えていた。
 「なんだよ、もう本番でズレなんて関係ねえって」
 「いやいや。探究ゼミ、創造点稼ぐんだろ? だったら“角度最適化による反応時間短縮”とかいうテーマ、提出してみようぜ。理論的裏付けがあれば、得点化も狙える!」
 「そんなの考えるの、お前得意そうだけど……俺はただ速くなりたいだけだし」
 「だから、速くなるために理屈が必要なんだって!」
 そのやりとりを聞いていたノエルが、少し離れた場所で手を上げた。彼の足元には、自作の並走撮影用ドローンが配置されている。
 「さっきの走り、空撮済み。角度と重心の軌道、3Dで抽出できるよ。あとで見せる」
 「……マジか。なんでそんなの持ってんだよ、お前」
 「趣味。あと、工学ゼミにも提出する予定」
 あっさりと返すノエルに、朔太郎はわずかに目を見開いた。競技の場が、もう一つの評価会場でもあるように思えてきた。
 そしてそのとき、トラックの外周を歩いてきたのが——春日莉音だった。
 「様子、見に来ただけ。……でも、面白そうなことしてるわね」
 「別に、遊んでるわけじゃねえぞ。ちゃんと創造点も稼ごうとしてんだ」
 「そのわりに、動きが雑だった」
 「う……」
 莉音はノエルの持つタブレットを一瞥すると、スッと手を伸ばした。
 「このフォーム軌道、速度変化のポイントをベクトルで表せる?」
 「できる。CSV形式で出力済み」
 「じゃあ、加速度と摩擦係数をベースに、最適踏み出し角を算出してみる」
 そう言って彼女はスマホを取り出し、即座に関数アプリに数値を打ち込み始めた。
 (……なんだ、この即応力。理論武装が歩いてるみたいじゃん)
 朔太郎は思った。けれど、それは否定的な感情ではない。むしろ、自分が持っていない武器を彼女が持っているという実感だった。

 莉音の指先は迷いなく画面をなぞり、瞬く間に一次関数から二次関数、さらにベクトル演算へと式を展開していった。
 「……助走角度は13.5度。体重と靴底の摩擦係数を踏まえると、14度を超えると逆に加速が鈍る」
 「おい、いま何言った?」
 朔太郎は思わず聞き返した。
 「要するに、踏み出しの角度を1.2度ほど深くしすぎてるってこと。タイムを縮めたいなら、踏み出し直後の重心移動を0.3秒以内に水平化する必要があるの」
 「わかったような、わかんねえような……」
 「だから、やってみればいいのよ」
 莉音がノートの余白に図を描きながら、短く言った。
 「たとえば、走り始めた3歩目までに、身体が地面に向かって落ちるのではなく、前方に滑っているような感覚を持つ。物理的には“抗力と重力の合成方向”を変えるイメージ」
 「……はあ?」
 竜輝が苦笑いする。
 「お前、すげーけど、難しすぎて高校生っぽくねえぞ」
 「わたしは“研究者”になりたいの。学生だからって、説明の質を落とす気はない」
 その一言が、静かな挑戦のように響いた。
 朔太郎はしばらく沈黙してから、スタートブロックに戻った。
 「じゃあ、やってみる。3歩目で“前に滑る”……それ、試すだけだしな」
 ノエルがドローンを起動し、再び上空へと浮かび上がる。竜輝が「いけー!」と手を振る中、朔太郎は深く息を吸い込んだ。
 (ただの感覚じゃ、あいつには勝てない。数字に置き換えられる“速さ”で、証明するしかない)
 スタートの号砲代わりに、自分の声を使った。
 「いくぞ、ゼロ!」
 地面を蹴った瞬間、重心が流れる。
 1歩、2歩、そして3歩目——そこに“前への滑走感”が生まれた。
 風が、違った。足が、止まらなかった。
 気がつくと、ゴールの仮マークを通過していた。
 「——6秒92!」
 竜輝が声を上げた。
 「ベスト更新、だな」
 ノエルが淡々とデータを保存しながら言った。
 「踏み出し角、修正されてた。動画もある」
 朔太郎は肩で息をしながら、莉音の方を見る。
 彼女は淡々とメモをとりながら、小さく頷いた。
 「理論を、実行したのはあなた。それだけでも価値がある」
 「……言ってること難しいけど、助かったよ」
 「うん。じゃあ、借りは“創造得点”で返して。互いに稼がなきゃ、競争にならない」
 静かにそう返した彼女の目に、一瞬だけ、意志の火が灯った。
 この日、朔太郎は数字の力を知り、
 莉音は、数字が心を動かす瞬間を見たのだった。

【第3章 完】