数学準備室は、冬の午後らしく、しんと静まり返っていた。
 外では乾いた風が落ち葉を舞い上げているが、この部屋だけは時の流れが止まったような空気をまとう。
 壁一面の本棚には、微分積分、統計解析、フーリエ変換、複素数、幾何代数などの分厚い専門書がずらりと並び、その真ん中の黒板には、まるで詩のように並ぶ数式の列。
 「やっぱり、ステップ幅の変動は虚数平面上で見た方が綺麗に収まる」
 莉音の声は、落ち着きながらも、どこか楽しげだった。
 その指先がチョークを走らせるたび、空間には新しい秩序が描き出されていく。
 朔太郎はその様子を、黒板越しに眺めていた。
 椅子の背にもたれ、手には半分開いた陸上ノート。ページの隅には、今日の走りのタイムと歩数が記録されていた。
 「理屈で走るより、筋肉で走った方が早い気がすんだけどな」
 「その筋肉が、どんな“理屈”で動いてるか考えたことある?」
 「そりゃあ……反射とか反動とか?」
 莉音はふっと微笑み、チョークを置いた。
 「正解。けど、その反射も反動も、全部“再現可能な規則”として定式化できる」
 彼女の描いた黒板には、複素数平面上のスパイラル状の軌道があった。
 座標には“リアル(実数)”と“イマジナリ(虚数)”が並んでいる。
 「たとえば、今朝の君のインターバル走。第3セット目でステップ幅が急に縮まった。その原因は、左膝の屈曲角の過度な振動。でも数式にすると……」
 莉音は、ボードの右端を指さした。
 「tanθ ≒ Im(z)/Re(z)。この角度が、想定より3度増えただけで、ステップ幅は13cm減少」
 「……わかるようで、わからん」
 朔太郎がぼやくと、莉音は席に戻りながら、ノートを広げた。
 「それでも、君の走りには、ちゃんと数式の美しさがある」
 「……それ、褒めてる?」
 「もちろん。私が数式で表現したくなるものなんて、そうそうないから」
 朔太郎はしばらく黙っていた。
 そして、不意に立ち上がり、黒板に向かって歩くと、手に取ったチョークでその複素平面の一角に、別の式を書き始めた。
 「なにしてるの?」
 「えっと……今日、走ってる時にふと思ったんだけど……」
 彼は不器用に、“1 + r + r² + … + rⁿ”という等比数列を書き、その右に、莉音のスパイラル軌道と同じ形を描いた。
 「これ、俺の中じゃ、“走りながら積み上げてるリズム”の感じに近いんだ。初動で1、次が少し強くて、その次がもっと……で、ある地点でリセットが入る」
 莉音はじっとその式を見ていた。
 やがて、チョークを取り、横にさらさらと一言だけ加えた。
 “|r|<1 のとき、収束あり”
 「つまり、走り続けるには、成長率を暴走させちゃいけないってこと?」
 「うん。暴走しないで、でも止まらないで。そういうリズムを維持しながら」
 「……面白い。ちゃんと数学的にも意味が通る」
 二人は黒板の前に並び、しばし言葉を交わさなかった。
 冬の西陽が斜めに差し込み、粉のようなチョークの粒がきらめいていた。
 「ねえ」
 不意に、莉音が呟いた。
 「もし、私が“計算できない領域”に踏み込んだら……君は、どうする?」
 朔太郎は、少し考えたあと、首をかしげるように言った。
 「多分、全力で走って追いつく。理屈はあと」
 莉音は、驚いたように彼を見て、それから、笑った。
 「……なんか、それも正解に聞こえるのが悔しい」
 彼女の声には、わずかな照れと、芯のある嬉しさが混じっていた。
 数学準備室の午後は、ゆっくりと終わりに近づいていた。
 黒板には、数式とともに、二人の思考が並び、静かに冬の夕陽がその上に影を落としていた。

(第28章「ステップ幅の虚数」完)