外は、見慣れたはずの東京の夜なのに、どこか異世界のような静けさだった。
 環七通りを走る都バスの後部座席。時間は午後十時を回り、車内にはまばらな乗客がいるだけ。街灯の明滅とともに、車内の蛍光灯もかすかに揺れていた。
 「混雑度、25パーセント……ってとこかな」
 莉音がタブレットに目を落としながら、小さく呟いた。
 深夜のフィールドワーク。今回の課題は“公共交通機関の利用実態調査”。彼らの班が選んだのは、夜間の都バス循環線。
 竜輝の「リスクの少ない調査ってつまんない」という発言をきっかけに、誰かが「じゃあ深夜バスでどう?」と乗っかったのが始まりだった。
 座席には、莉音・朔太郎・竜輝・裕美子・ノエルの五人。
 「センサー、正常に稼働してるよ」
 裕美子が手元の小型端末を見せる。
 「IoTセンサーで、乗降時の温度変化を記録中。同時に騒音レベルも並列取得」
 「乗客動線、三次元マッピング済み。あとでPDF吐き出す」
 ノエルが無駄なく淡々と補足する。
 彼の膝には、コンパクトなラップトップ。画面には、座席レイアウトと共に、色分けされた線が折り重なっていた。
 「すご……。うちの調査、ちょっとガチすぎじゃない?」
 竜輝が後部窓にもたれながら、半笑いでつぶやいた。
 「でもその分、得点は期待できる」
 莉音が即答する。
 「ってか莉音、よくぞここまで精密に班を組んだな……このメンツ全員、何かしら尖ってるぞ」
 「戦略的最適化。今期の評価項目に“革新性”があるから」
 「ひえ〜……またそれか」
 竜輝が首をすくめたその時、朔太郎が、立ち上がろうとしていた高齢者の動きを目に留めた。
 「ちょっと……」
 言いながら、朔太郎は小走りでその場へ向かい、降車ボタンの位置を示しながら軽く腰を支えた。
 「階段、段差あります。ゆっくりどうぞ」
 ほんの一言の声かけに、相手の老人は安心したように微笑み、軽く会釈した。
 莉音はその様子を見ていた。しばらく黙ったあと、小声で手元のメモに走り書きをする。
 「……“協力行動が、空間緊張を緩和する”」
 「なにそれ論文の見出し?」
 竜輝が笑うと、莉音はほんの少しだけ肩をすくめて答えた。
 「そういうのって、意外と評価されるから」
 再びバスが走り出す。車内には軽くブレーキの揺れと、エンジン音だけが響く。
 夜の東京は、騒がしいくせに、時々妙なほど静かになる。
 車窓からの光がちらつくたびに、誰かの顔にかすかな影が揺れた。
 「……ねえ、あと何ループ?」
 裕美子がタブレットを覗き込みながら尋ねた。
 「環七ぐるっと一周、ちょうど90分。あと一周すれば十分。最終便の前に下車」
 「データは?」
 「ほぼ十分。サンプル数も整った。あとは帰って統計処理するだけ」
 莉音の指が、なめらかに画面を滑っていく。その横顔を、朔太郎はさりげなく眺めていた。
 無駄のない視線。的確な指示。
 そして、ひとつだけ、目の奥に残る微細な影。
 「……お前、寝てないだろ」
 朔太郎がぼそりとつぶやく。
 莉音は、驚いたように瞬きをして、それから目をそらした。
 「バレた?」
 「いつから?」
 「三日前から、平均睡眠3時間。中間成績が気になってて」
 「言えよ、そういうの。協力班って、協力すんだろ?」
 莉音は数秒だけ黙っていたが、やがてふっと、ほんのわずかに微笑んだ。
 「じゃあ、帰ったら……ちょっとだけ仮眠取る。あなたがいる間は」
 「よし。見張るから、ちゃんと寝ろよ」
 やり取りを聞いていた竜輝が、わざとらしく鼻を鳴らした。
 「……なにその青春台詞。俺、空気になるの慣れてないんだけど」
 「慣れろ。空気も必要だ」
 「そっちのが青春だな!」
 一同が、ぷっと吹き出した。
 バスはまた一つ角を曲がる。
 そのたびに揺れる天井の手すりに、無数の手の記憶が残っている。
 小さな共同体のなかで、彼らはたしかに、ひとつの時間を共有していた。
 フィールドワークの名のもとに、走る深夜のバスの中で——。

(第27章「深夜バスのモニタリング」完)