金曜日の夕方。空はすでに群青色に染まり始めていて、世田谷区立図書館のガラス扉には、通りを行き交う人々の影が淡く映り込んでいた。
 午後五時五十分。閉館まで、あと十分。
 朔太郎は、図書館の入口に駆け込むように入ってきた。冬の空気を吸い込みながら一度だけ肩で息をしてから、カウンター奥の時計を確認する。
 「——間に合った」
 口に出してみると、緊張が少しほぐれた。
 今日ここで莉音と待ち合わせていた——という建前だったが、実は彼が約束の場所を「わざと間違えて」やって来たのだ。
 彼女が指定したのは二階の閲覧机の一番奥。
 だが彼は、一階の理数系文献コーナーの棚に、すでに彼女がいると踏んでいた。
 それが、ほとんど勘ではなく“確信”に近かったのは、ここまでの八ヶ月で積み上げてきた観察の賜物だ。
 案の定、書架の最奥、細い通路の間に立っていたのは莉音だった。
 真っ黒なロングコートに、グレーのニットスカート。白いマフラーを肩にかけた姿は、冬の空気にすっかり馴染んでいて、どこか近づき難さすらある。
 だが、その両手は今まさに高く伸びていた。
 上段の棚にある一冊を、どうにか取ろうとしている。
 朔太郎は、迷わずそこへ歩いていった。
 「……届かないの?」
 その声に、莉音は少し驚いたように目を見開く。だが、すぐに表情を戻して首を傾げる。
 「……なんで、こっちにいるの?」
 「勘。ていうか、経験則?」
 朔太郎は何でもない風を装いながら、莉音のすぐ隣に立つ。彼女が手を伸ばしていた本を代わりに取り出し、無言のまま彼女に手渡した。
 「あ……ありがとう」
 小さく言った莉音の声は、ほんのわずかに震えていた。
 受け取った本の背表紙には、『競技と学力——持続的パフォーマンスの条件』という文字があった。
 「俺も、これ探してた」
 朔太郎が言うと、莉音は驚いたように目を丸くした。
 「え……この本?」
 「そ。昨日のゼミ資料に載ってた引用、出典これだったろ?」
 莉音は少しだけ笑った。
 「……よく覚えてるのね」
 「一位の座、守るためだからな」
 そう言って朔太郎は、先ほど莉音が手にした本と同じシリーズの別巻を手に取った。莉音も、手にした一冊を胸元に抱えたまま、言葉を探すように目を伏せた。
 「でも……私、負けてばっかり」
 その言葉は、風がふと吹いたように淡く、小さくて、けれど心に刺さるほどまっすぐだった。
 朔太郎は数秒、黙って莉音を見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
 「俺、怖かったよ。発表の時、名前呼ばれるまで、手汗でぐしゃぐしゃで」
 莉音は驚いたように顔を上げた。
 「え、全然そんな風に見えなかった」
 「見せなかっただけ。……でも、隣にお前がいたから、たぶん背筋が伸びたんだと思う」
 朔太郎の声は静かで、それでいて芯の通った響きがあった。
 「競争相手がいるって、やっぱりありがたいよ。張り合いってやつ。……なあ、もうちょっとだけ、俺の前走ってくれない?」
 莉音の表情が一瞬揺れた。
 けれど次の瞬間、彼女はほんの少しだけ微笑んだ。
 「……だったら、あなたはもっと後ろを気にしないとね。私、もう抜きにかかってるから」
 二人の目が合った。どちらも笑っていた。
 その瞬間、館内放送が閉館五分前を告げた。
 朔太郎は慌てて貸出カウンターへ走り、莉音は一拍遅れてその背を追った。
 棚に残されたのは、重なり合った二人の足跡と、温かい空気の余韻だけだった。

(第26章「図書館ソロリサーチ」完)