2025年1月1日、午前6時45分。城南島海浜公園の冷たい砂浜に、ひときわ白い息がいくつも浮かび上がっていた。
 「行ける?」
 莉音が言ったのは、短く簡潔な一言だった。
 応じた朔太郎の顔は、汗よりも先に潮風と霜気で濡れていた。息を吐くたびに脇腹が軽く跳ね、既に体力の三割以上が削れているのは明白だった。
 「行ける。残り、二十本だろ?」
 「十九本。次で百一本目」
 その横で、カウントボードを持った雄貴が無言で親指を立てた。彼の隣には、防寒パーカーにくるまった真紀が、スマホの画面を覗き込んでいた。
 「コメント、三千件超えた」
 「お年玉代わりに視聴者の皆さんへ、最後にひとこと入れてよ、朔」
 雄貴の言葉に、朔太郎は応じなかった。ただ視線を莉音に向ける。
 その瞳は、ただの勝負師のものではなかった。
 誰かの言葉で動かされるのではなく、自分の意思で地面を蹴っているという確かな確信。
 莉音は心拍センサーをチェックした。
 脈拍は167。許容範囲ギリギリ。しかしリズムは安定している。
 「次、レスト35秒。合図でスタート」
 「合図は?」
 「初日の出よ」
 空がわずかに赤く染まり、地平線の彼方から光の帯が浮かび上がろうとしていた。
 朔太郎は、一歩砂に踏み込み、肩をゆっくり回す。その姿は、正月の神事というより、祈りを捧げる戦士のようだった。
 夜明けを待つ間に、真紀がマイクを雄貴へ差し出す。
 「今、彼が走る理由って、なんだと思う?」
 雄貴はカメラに目線を寄越すことなく、ただつぶやいた。
 「競争ってさ、他人とやってるうちは終わらない。でも朔は今、誰とも争ってない。ただ、自分のベストとだけ向き合ってる」
 「じゃあ、それを見てる莉音は?」
 「……たぶん、同じとこに立ってる」
 その瞬間、太陽が顔を出した。
 莉音が即座に声を放つ。
 「——行って!」
 朔太郎は、何も言わずに地面を蹴った。
 裸足に近い薄底シューズで、冷え切った浜辺のコースを一直線に走る。
 走る。
 ただ走る。
 目の前の光に、誰よりも早く届くために。
 莉音は腕時計を見ず、数値でもなく、耳に届く足音と風の擦れ音だけを頼りに、次の合図を送る。
 「ペース維持、あと五秒!」
 朔太郎は声に応じるでもなく、踏み込みを強めた。
 背筋がわずかにしなり、風がその輪郭をなぞる。
 そして一気にフィニッシュ。
 「103本目、完了!」
 雄貴がボードを掲げた。真紀のマイクに拍手と歓声が交じる。
 だが朔太郎は振り向かず、そのまま背を見せて海に向き直った。
 朝日が完全に昇り、赤金の光が海面に反射する。
 莉音が歩み寄り、朔太郎の脇に立つ。
 「あと十七本。できる?」
 「……できるさ。隣で声を出してくれるなら」
 その言葉に、莉音は口元だけで微笑む。
 「じゃあ、最後まで付き合う。ペース指示は心拍とリズムだけで出す。時計はもう見ない」
 「上等だ」
 二人は同時に、砂の上に足を置いた。
 その一歩先には、まだ誰も踏み込んだことのない、一年の最初の地平が広がっていた。
 ――互いの歩調を測るためではなく、
 一緒にその先へ進むために。

(第24章「初日の出インターバル」完)