12月24日、午後六時三十分。
 桜丘高校の進路指導室の前に、薄く暖房の風が漂っていた。
 校舎の外は静まり返っている。終業式を終えた生徒たちは、すでにそれぞれの予定に散っていったのだろう。
 教室棟の窓はほとんどが真っ暗で、わずかに点いた電灯が、廊下に橙色の明かりを落としている。
 朔太郎は、椅子に深く腰を沈めたまま、目の前の机を睨んでいた。
 担任の吉田が、封筒から一枚の資料を取り出す。
 「……お前の記録なら、ここのスポーツ推薦、いけるぞ。試験免除、実技だけで勝負になる」
 机の上には、都内の有名私大のリスト。推薦枠のある体育学科にはすでに数枠空きがあるらしい。
 「今の総合杯順位をキープすれば、校内枠も通る。無理はない。どうだ?」
 朔太郎は即答できなかった。
 指の先が震えているのを見られないように、手を膝の上に置いたまま、視線だけを外へやった。
 外は寒い。夕方には氷雨だった空が、いまは星を隠したままの濃い雲を垂らしている。
 「推薦……って、ことは、そこで決まり、ですよね」
 「まあな。進学も、競技も」
 「でも、俺……」
 言葉に詰まる。喉が引っかかるように硬かった。
 担任は黙ったまま、朔太郎を見つめている。
 ——この一年、朔太郎は走ってきた。
 誰よりも速くなりたくて、結果を出すために、己の全力をぶつけてきた。
 だが、いま浮かぶのは、あの横に並んで走った誰かの姿。
 莉音だ。
 競い合う相手だったはずの彼女と、無言で火花を散らしながら、時に支え合ってここまで来た。
 その莉音が、あの夜のグライド測定で言ったのだ。
 ——「あと少しで、見える。ずっと上を」
 彼女は、ただ数学の天才なだけじゃない。努力で、知性で、そして思いやりで、あらゆる道を切り拓いていく。
 自分も、そうなりたい。
 ただ走って、ただ勝って、結果だけ手にするのではなく、進む場所を自分で選びたい。
 朔太郎は深く息を吐いた。
 「……推薦、辞退します」
 担任の目がわずかに細められる。
 「理由を聞こうか」
 「自分の力で勝ちたいんです。ここで終わりたくない。総合杯の結果を、自分で取りに行きたいんです。競技も、進学も、自分で決めたいから」
 吉田は黙っていた。そして小さくうなずいた。
 「……そうか。なら、勝て。最後まで走りきってから、もう一度進路を考えればいい」
 それだけ言って、彼は面談用紙に「保留」と記し、封筒に戻した。
 「廊下、寒いぞ。外のやつ、もう待ってないだろうな」
 朔太郎は立ち上がると、ドアノブに手をかけた。
 「……一人だけ、います」
 扉を開けた先に、莉音がいた。
 白いマフラーを首に巻き、進路資料の入ったバインダーを抱えたまま、廊下の端で腰かけている。
 何をしていたわけでもない。ただ、俯いていた。
 朔太郎が歩み寄ると、莉音はすっと立ち上がった。
 「……待ってたの?」
 「うん。進路、どうしたか気になって」
 「辞退した」
 莉音は小さく瞬きをしたが、すぐにうなずいた。
 「やっぱり。あなた、そんな気がしたから」
 「なんで分かるんだよ」
 「直感。……あと、少しは、私と似てるのかもって」
 ふとした沈黙。
 そして朔太郎が口を開く。
 「おまえは、面談?」
 「うん。コンテスト応募に関して、文献リストの確認が必要だったから。……あと、推薦状の添削も」
 「で、どうだった?」
 「……たぶん、通る。でもまだ出さない。私も、もう少しだけ粘るつもり」
 二人は、無言で窓の外を見つめた。
 外には、駅前のイルミネーションが遠く光っている。ピンクと白の光が、小さく点滅していた。
 校舎の冷えた廊下に、暖房の残り香がゆっくり流れていた。
 「じゃあさ」
 朔太郎がふいに口を開いた。
 「今はまだ、競争中ってことでいい?」
 莉音は頬を少しだけ赤らめたように見えた。
 「うん。まだ、負けてないし」
 二人はゆっくりと並んで歩き始める。
 廊下の先、階段を下り、昇降口を出た先の、静かな校庭の雪混じりの風のなかへ。
 その歩幅は、自然にぴたりと揃っていた。

(第22章「クリスマス・ゼミ面談」完)