風が凍るような月曜日の放課後。
気温は三度、空は灰色に沈み、細かい氷雨が校舎の窓を濡らしていた。
外走路は使用中止。気象条件の悪化で、体育の授業すらピロティに変更されている。
しかし、朔太郎の足は止まらなかった。彼の視線の先には、濡れたコンクリートの床が広がっていた。
「ここでやるのか……?」
ノエルが大きなケースを肩に担いで現れた。ケースを床に置くと、内部から慎重に機材を取り出し始める。
「スプリントの初速、助走の精度。雪でも雨でも、測定はできる。日本の冬は、止まる理由にならない」
その口調に迷いはない。まるで北欧のコーチのようだった。
朔太郎は濡れた床に視線を落とす。
スパイクでは滑りすぎる。だが、滑りを逆手に取れば——。
「グライド距離、稼げるな……摩擦を減らして、蹴り出しで一気に前に出す」
そのつぶやきに、隣でノエルがうなずく。
「滑るからこそ、角度が重要。コンマ一度単位で最適化すれば、加速ラインが伸びる」
そう言ってノエルが差し出したのは、可搬型レーザー距離計と補助用センサー。
朔太郎は黙って受け取った。すでに集中は走路の一点に向けられている。
そこへ、莉音が現れた。
白いマフラーを巻き、片手にはタブレット端末。画面には複数の数式とグラフが並んでいる。
「滑走時の摩擦係数は0.28。踏み込み角を65.3度にすれば、力点が床方向に逃げずに済む。再現できれば、グライドは0.8m以上伸びる」
莉音は計算式を切り替え、動作中の関数をリアルタイムで調整しながら言った。
「速度に対する反作用トルクが——このくらい」
彼女はグラフの一点を示した。赤い線が小さく右へ跳ねた。
「了解。合わせてみる」
朔太郎は即座にスタートラインへ移動し、姿勢を低く構えた。
手足の感覚を研ぎ澄ませる。屋根から落ちた一滴が、コースの端で弾けた。
莉音の声が響く。
「測定開始。ノエル、カウント」
「Three, two, one——Go!」
瞬間、朔太郎の身体が床を蹴った。
水気を帯びた地面を、あえて滑らせながらのスタート。
接地からの跳ね返りを利用して、推進力に変える。
まるでスキーのジャンプ台を走るような滑走。風が、低い姿勢を切り裂く。
10メートル先に設置されたレーザーが、彼の足の動きを正確に記録した。
莉音の指が画面上を走り、次の数式を投入していく。
「グライド角修正。蹴り出しの重心ズレ0.4ミリ。次、もう一回——!」
朔太郎は息を切らせず、再びスタート位置へ戻る。
——滑る。だけど、コントロールできれば“滑走”になる。
彼の脳裏には、文化祭のプラネタリウムで天井を駆け回った星々の軌道がよぎっていた。
無駄のない線。自然に逆らわず、それでも前へ。
「Ready」
「Go!」
ふたたび風が切れる。莉音の数式が、ノエルのデータが、朔太郎の走りに融合していく。
何度目かの助走を終えたとき、ノエルが首を傾げた。
「今の、加速スパンが一気に伸びた。4.3メートル地点で最大速度を超えてる」
莉音もタブレットを確認し、目を見開いた。
「トルク最大値、想定より2.1%オーバー。式を……」
手元で数式が組み直される。直線グラフがカーブを描き、極点を描いた。
「……こっちだ。次の走り、グライド限界値更新できるかも」
朔太郎は頷いた。冷気が肺に入り込み、身体の芯まで染み渡っていた。
だけど——。
「……まだ行ける」
声にならない独白。全身が、まだ前に進みたがっていた。
雪まじりの風の中、滑る床で最速を目指す。
単なる練習ではない。この走りが、春へつながる。
莉音がタブレットを置き、立ち上がった。
「……朔太郎」
呼びかけに、彼は振り返る。
「さっきのデータ。あれ、全国レベルでも十分通用する走りだよ」
「……マジか」
莉音は小さく頷いた。そして一歩だけ前に出た。
「あと少しで、見える。ずっと上を。あの春の先の光景」
その言葉に、朔太郎の心臓が、ひときわ強く鳴った。
——なら、その景色まで並んで走ろう。
朔太郎は最後の助走姿勢に入った。ピロティの隅では、ノエルがカメラを構える。
「さあ、ラスト一本!」
莉音の声が、今日いちばん力強く響いた。
風を斬る音、濡れた床に残る靴痕、飛沫が散って、すぐに凍る。
冬の空に、グライドする一条のスピードが刻まれた。
(第21章「雪のグライド測定」完)
気温は三度、空は灰色に沈み、細かい氷雨が校舎の窓を濡らしていた。
外走路は使用中止。気象条件の悪化で、体育の授業すらピロティに変更されている。
しかし、朔太郎の足は止まらなかった。彼の視線の先には、濡れたコンクリートの床が広がっていた。
「ここでやるのか……?」
ノエルが大きなケースを肩に担いで現れた。ケースを床に置くと、内部から慎重に機材を取り出し始める。
「スプリントの初速、助走の精度。雪でも雨でも、測定はできる。日本の冬は、止まる理由にならない」
その口調に迷いはない。まるで北欧のコーチのようだった。
朔太郎は濡れた床に視線を落とす。
スパイクでは滑りすぎる。だが、滑りを逆手に取れば——。
「グライド距離、稼げるな……摩擦を減らして、蹴り出しで一気に前に出す」
そのつぶやきに、隣でノエルがうなずく。
「滑るからこそ、角度が重要。コンマ一度単位で最適化すれば、加速ラインが伸びる」
そう言ってノエルが差し出したのは、可搬型レーザー距離計と補助用センサー。
朔太郎は黙って受け取った。すでに集中は走路の一点に向けられている。
そこへ、莉音が現れた。
白いマフラーを巻き、片手にはタブレット端末。画面には複数の数式とグラフが並んでいる。
「滑走時の摩擦係数は0.28。踏み込み角を65.3度にすれば、力点が床方向に逃げずに済む。再現できれば、グライドは0.8m以上伸びる」
莉音は計算式を切り替え、動作中の関数をリアルタイムで調整しながら言った。
「速度に対する反作用トルクが——このくらい」
彼女はグラフの一点を示した。赤い線が小さく右へ跳ねた。
「了解。合わせてみる」
朔太郎は即座にスタートラインへ移動し、姿勢を低く構えた。
手足の感覚を研ぎ澄ませる。屋根から落ちた一滴が、コースの端で弾けた。
莉音の声が響く。
「測定開始。ノエル、カウント」
「Three, two, one——Go!」
瞬間、朔太郎の身体が床を蹴った。
水気を帯びた地面を、あえて滑らせながらのスタート。
接地からの跳ね返りを利用して、推進力に変える。
まるでスキーのジャンプ台を走るような滑走。風が、低い姿勢を切り裂く。
10メートル先に設置されたレーザーが、彼の足の動きを正確に記録した。
莉音の指が画面上を走り、次の数式を投入していく。
「グライド角修正。蹴り出しの重心ズレ0.4ミリ。次、もう一回——!」
朔太郎は息を切らせず、再びスタート位置へ戻る。
——滑る。だけど、コントロールできれば“滑走”になる。
彼の脳裏には、文化祭のプラネタリウムで天井を駆け回った星々の軌道がよぎっていた。
無駄のない線。自然に逆らわず、それでも前へ。
「Ready」
「Go!」
ふたたび風が切れる。莉音の数式が、ノエルのデータが、朔太郎の走りに融合していく。
何度目かの助走を終えたとき、ノエルが首を傾げた。
「今の、加速スパンが一気に伸びた。4.3メートル地点で最大速度を超えてる」
莉音もタブレットを確認し、目を見開いた。
「トルク最大値、想定より2.1%オーバー。式を……」
手元で数式が組み直される。直線グラフがカーブを描き、極点を描いた。
「……こっちだ。次の走り、グライド限界値更新できるかも」
朔太郎は頷いた。冷気が肺に入り込み、身体の芯まで染み渡っていた。
だけど——。
「……まだ行ける」
声にならない独白。全身が、まだ前に進みたがっていた。
雪まじりの風の中、滑る床で最速を目指す。
単なる練習ではない。この走りが、春へつながる。
莉音がタブレットを置き、立ち上がった。
「……朔太郎」
呼びかけに、彼は振り返る。
「さっきのデータ。あれ、全国レベルでも十分通用する走りだよ」
「……マジか」
莉音は小さく頷いた。そして一歩だけ前に出た。
「あと少しで、見える。ずっと上を。あの春の先の光景」
その言葉に、朔太郎の心臓が、ひときわ強く鳴った。
——なら、その景色まで並んで走ろう。
朔太郎は最後の助走姿勢に入った。ピロティの隅では、ノエルがカメラを構える。
「さあ、ラスト一本!」
莉音の声が、今日いちばん力強く響いた。
風を斬る音、濡れた床に残る靴痕、飛沫が散って、すぐに凍る。
冬の空に、グライドする一条のスピードが刻まれた。
(第21章「雪のグライド測定」完)



