十二月半ばの朝七時。空気が張りつめたように冷たく、校庭を囲むフェンスの影がまだ長く伸びていた。
 屋外走路の端で、朔太郎はスパイクの紐を締め直していた。
 いつもより時間がかかっていたのは、なにかがおかしいと感じていたからだ。
 片方のスパイク、左の靴底の接地感がやけに緩い。
 「……接着、剥がれてるか?」
 つぶやいた声が白く浮かび、すぐに風に溶けた。
 試しに歩いてみると、左のかかとがグラついた。トラックを何百周と走ってきたスパイクは、ついに限界を迎えていた。
 「マジかよ、今日このタイミングで……!」
 今日は冬期リレー選抜の最終選考日だった。
 各チームがタイムを競い、春の全国リレー大会へ出場する校内代表が決まる。
 短距離陣にとっては、個人戦とはまた違う名誉のある舞台だった。
 「朔太郎!」
 声がして振り向くと、竜輝が走ってきた。手には、履き込んだスパイクシューズ。
 「お前の、壊れたな?」
 朔太郎は何も言わなかった。代わりにスパイクを高く掲げて見せた。
 「使え。俺の。お前の走りに期待してる。だから俺が走れなくてもいい」
 言葉に迷いはなかった。
 竜輝は目の前で、自分の靴紐をほどくと、そのまま朔太郎に押し付けるように渡した。
 「テープ巻いたから、ちょっときついかもだけど、滑りはない。あと——」
 言いかけた竜輝の言葉をさえぎるように、別の影が駆け寄ってきた。
 莉音だった。
 彼女は手に工具箱を抱え、走路にしゃがみこんだ。
 「このトルクで締め直して。靴底のバネ圧に合わせれば、ズレないはず」
 そう言いながら、莉音はすでに小さなレンチを差し込み、スタッドを確認している。
 「もう一度、トレッド角度を測って」
 朔太郎が無言でうなずき、全体重をかけて地を蹴った。
 左脚の接地がわずかに沈み、だが軸はズレなかった。
 莉音は満足そうに小さく笑った。
 「これでいける」
 竜輝が立ち上がり、ぽんと朔太郎の背を叩く。
 「行け。お前は今、誰より速い」
 視線が交錯する。
 ——そうだ。俺が目指してたのは“勝つこと”じゃない。“速くなること”だ。
 スパイクを履き替えた朔太郎は、ひと呼吸置いて、走路のスタートラインに立った。
 対面には他の候補者たち。
 雄貴が撮影用のカメラを構えているのが見えた。ノエルがその脇で手を上げて合図をしている。
 冷たい風が通り抜ける中、スタートのピストル音が校舎に反響して響いた。
 朔太郎の身体は、迷いなく前へと飛び出していた。
 地を蹴り、腕を振り、呼吸のリズムを速める。
 竜輝の靴が、まるで自分の足と一体化しているように馴染んでいた。
 ターンの瞬間、踏ん張った左足にかかった力を、スパイクが正確に受け止めた。
 莉音の調整が生きている。滑りもない。ぶれもない。
 「行け……!」
 観客席から聞こえた真紀の声。裕美子が何かを記録している気配。
 みんなの視線が走路に集まるのを、肌で感じた。
 ——この一瞬を、最高の一歩に変える。
 フィニッシュラインを抜けた瞬間、朔太郎は一歩、二歩、惰性で走り抜け、ようやく脚を止めた。
 心拍が跳ね上がる中、彼はゼッケンを掴んだままうつむいていた。
 ノエルが距離を測りながら近づいてくる。
 「10秒48」
 莉音の声だった。
 彼女は手に持った計測器の画面を見つめ、静かに告げた。
 「歴代三位」
 その瞬間、校庭に拍手が起こった。
 雄貴が声を上げ、裕美子がガッツポーズをし、竜輝は黙ってうなずいた。
 莉音が朔太郎に歩み寄り、小さく言った。
 「——あとは、並んで走るだけだね」
 朔太郎は、その言葉を聞いて、頷いた。
 自分の勝ち負けを越えたところに、ようやく立てた気がした。
 スパイクが揺れる。竜輝の意思と、莉音の支えと、自分の決意が宿ったその靴が、冬空の下で、風にきらめいた。

(第20章「冬空に揺れるリレーシューズ」完)