放課後の視聴覚ホールは、ふだんよりもざわついていた。
 壇上のプロジェクターには、今学期の〈複合探究ゼミ〉スコア最終集計が映し出されている。
 画面の左端には「学力」「創造」「貢献」の三項目。右には、上位十名の得点が並んでいた。
 教室後方の椅子に腰掛けた朔太郎は、脚を組んでその数字を睨んでいた。
 「……また、1点差かよ」
 視線の先には、得点1位の「朔太郎:150点」と、そのすぐ下に並ぶ「莉音:149点」が映し出されている。
 前学期に続き、またも1点差。
 ほんの誤差と見るか、決定的な差と見るかは、その人次第だった。
 「まあ、順位に意味があるなら、1点だって立派な壁かもしれないけど」
 朔太郎がぼやくと、隣の席から低い声が返ってきた。
 「結果には意味あるよ。俺が保証する」
 竜輝だった。軽く肘で突かれ、朔太郎は小さくうなずく。
 「お前のこの点数があるから、推薦枠が動くんだ。俺は動くの、見てたし。あの都庁レースのあと、先生らの反応も変わってた」
 「あれは……まあ、自分でもちょっと驚いた。体が思ってたより反応してたっていうか」
 「違うよ、お前が“誰かの視線の先に立ってた”ってこと。いつも言ってるだろ、注目されるために走るんじゃない。注目を引っ張る側になれって」
 「お前の方が演説向いてるな」
 「まあな」
 二人のやり取りを、少し離れた位置から莉音は見ていた。
 観客席の中央あたり。真紀の隣で手帳を開いて、なにか記録している。
 顔は伏せているが、その肩の揺れ方や指の動きには焦りも動揺も見られない。
 ——まるで「想定内」。
 朔太郎は、ちらりと目をやりながら思う。
 莉音にとっての「1点差」は、おそらく敗北ではなく“次の数式”を立てるためのデータでしかない。
 ——それでも、悔しくないわけないよな。
 得点が発表された瞬間、莉音の左手が一瞬止まったのを、彼は見逃さなかった。
 彼女は意地でも、そういう感情を表に出さないタイプだ。
 でも、今までの共同作業や、夜の実験、あの階段レースを共に支え合った時間が、彼の中にある直感を育てていた。
 彼女の中にも「火花」はちゃんとある。
 ただ、それを燃やすのは理性の炉の中だ。
 静かに、しかし確実に高温を保ち続けている。
 「次はどうするんだろうな、あいつ」
 竜輝がぼそっと言った。
 「お前に負け続けて、じゃあもうやめた、って言うような子じゃないのは知ってるけど……この競争、そろそろ限界なんじゃね?」
 朔太郎は答えない。
 いや、答えられなかった。
 今、彼自身の中に――競争そのものへの疑問が芽生えていた。
 目標を超える快感。結果を残す達成感。
 どちらも好きだ。誰にも負けたくないという気持ちは、今でも消えてはいない。
 でも。
 莉音と過ごした時間が増えるほどに、もう一つの感情が湧いてきていた。
 ——この子と「並んで」走ってみたい。
 競争ではなく、伴走者として。
 いつか、自分が得点を気にせずに走れるときが来たら、きっとそれは彼女が隣にいるときだ。
 そのとき、きっと、いまの“火花”は“あかり”になる。
 そんなことを考えていたとき、壇上に登ったのは、真紀だった。
 「みなさん、今期の得点発表、ありがとうございました」
 マイク越しの声に、会場が静まり返る。
 真紀はスライドを切り替え、桜丘高校の探究ゼミ成果一覧と、生徒個別の活動実績を映し出した。
 「得点は、確かに大事です。でも、今日私が伝えたいのは、“数字では見えない景色”のことです」
 ざわつきの気配。
 しかし真紀は微笑んだまま続けた。
 「競争は、すごく意味のあること。比べることで見えることはたくさんある。でも、“一緒にやる”ことでしか見えない景色も、あるんです」
 朔太郎は、はっとしたように顔を上げた。
 壇上の真紀が、莉音のほうへと視線を送る。莉音も、すっと視線を返す。
 そして、ふたりは微笑み合った。
 まるで、なにかの示し合わせでもあったかのように。
 観客席に小さな拍手が広がり、それは徐々に大きな波になった。
 真紀の言葉が、空気を変えた。
 成績発表の場だったはずの視聴覚ホールに、“対立”ではなく“共有”の気配が満ちていた。
 朔太郎はもう一度、莉音を見た。
 彼女の視線もまた、今度は彼のほうへと向けられていた。
 いつものように冷静な表情だったが、その瞳の奥に、たしかに火が灯っていた。
 そして、小さく――ほんのわずかに、彼女はうなずいた。
 まるで「準備はできている」と言わんばかりに。
 朔太郎は、静かに息を吸い、また小さく笑った。
 「……じゃあ、もう少しだけこの“勝負”、続けようか」

(第19章「総合杯・秋学期順位」完)