10月11日、土曜日の夕方。18時30分。
 東京都庁の階段下に、スタートラインが引かれていた。
 「……これ、想像よりえげつない階数だぞ」
 朔太郎は額の汗をタオルで拭いながら、地上から見上げた都庁第一本庁舎を前に苦笑した。
 「45階。段数にして、約840段。しかも一段一段が、結構高い」
 莉音の手元にあるスマート端末には、事前に計測した階段ピッチと踏み面のデータが表示されている。
 横には、今回のために開発した“ラップタイム計測アプリ”。エントリー選手が通過する各階のドアセンサーと連携し、自動で計測・記録・公開する設計だ。
 「朔太郎。第一目標は、どこまで?」
 「20階までは飛ばす。そこから5階ごとにスパート分割。最後の5階は……本気」
 「心拍は190を上限に設定するから、それ超えたら通知する。あと、水分補給は上でしかできないから、今のうちに飲んで」
 朔太郎は差し出されたペットボトルを受け取り、口を湿らせる。炭酸水。彼の集中を一瞬で引き戻す効果を持つアイテムだ。
 階段レース――スカイラン。今回の競技は、秋の都庁を使ったナイトラン形式で、エンタメ性と競技性を兼ね備えていた。
 主催は都内スポーツイベント運営会社。SNSでの実況やドローン撮影を前提としたレースで、学校単位の参加も許可されている。
 その中で、桜丘高校代表として朔太郎が選ばれ、莉音が技術支援を担った。
 今夜の都庁、展望室には報道カメラ。下には一般観客。実況席には――
 「オーケー視界クリア、ドローン第一号、発進!」
 雄貴の声が無線から響く。空中を滑るように飛ぶドローンが、朔太郎の肩上をすり抜け、階段口へ向かって飛行していく。
 「それじゃ、いってきます」
 朔太郎は、莉音と目を合わせる。
 言葉はない。ただ、彼女がそっと画面をタップし、計測アプリの“START”を点灯させた。
 ――ピッ。
 電子音とともに、彼は駆け出した。
 最初の一歩、二歩、三歩……重力に逆らって加速する。
 途中から階段は螺旋を描き始める。足元が鈍く感じた時点で、すでに12階。
 15階のドアを過ぎたところで、一瞬だけ横腹に違和感。
 それでも、彼は止まらない。
 苦しさの代わりに、「まだ誰にも負けていない」という感覚が脳を支配する。
 22階。心拍アラートが振動する。
 莉音の画面にも、190bpmの赤表示。
 「……あと十秒は保つ」
 莉音はアプリの安全制限を解除しない。彼が無理をするタイミングを、これまで何度も見てきたから。
 でも、今日の朔太郎は違った。
 26階。内腿の筋肉が悲鳴をあげ始める。
 29階――吸気が浅くなる。
 31階。視界がぶれる。けれど。
 『走るって、登ることだ』
 莉音が以前、そう言っていたことを思い出す。
 『登るって、誰かに見えない高さを越えることだよ』
 今、自分が越えているのは、誰かの記録でも、制限時間でもない。
 競争ではない。
 ただ、“もっと先へ行けるかもしれない自分”だった。
 ――そして、ついに、朔太郎は展望フロアへの最後の踊り場を越える。
 踏み出した一歩に、フラッシュの光。
 ドローンが彼の姿を真上から捉え、ライブ配信のコメント欄が騒然となる。
 〈速すぎん?〉
 〈今何段目?〉
 〈心拍ギリギリやん!〉
 莉音は、そのコメント欄を閉じた。
 彼の記録が、ただの数字として扱われる瞬間を、なるべく見たくなかった。
 そして、画面上に表示されたタイムが、静かに停止する。
 「04分59秒37」
 都庁記録保持者の高校部門最高タイム――「05分03秒42」。
 それを、3秒以上塗り替えていた。
 静寂の後、展望フロアに鳴り響く拍手。
 朔太郎が、両手を広げて膝に手を置く。
 莉音は、静かにアプリの記録ボタンを押した。
 そして、画面に浮かび上がるメッセージ。
「あなたの走りは、誰かの目線を上へ向かわせました」
 それは、莉音がこっそり仕込んでおいたメッセージだった。
 数分後、朔太郎がエレベーターで地上に降りてくると、莉音がすっと差し出したのは、冷えたタオルとスポーツドリンク。
 「……どうだった?」
 「5秒くらい、宇宙にいた気がする」
 朔太郎の返答に、莉音は笑った。
 「なら、成功ね」

(第18章「月下のスカイラン」完)