校舎の屋上は、真っ暗ではなかった。
 薄曇りの空に、ぽっかりと浮かんだ中秋の名月が、誰にも強制されずに光を落としていた。
 風は、冷たい。だけど、まだ冬の匂いではない。
 9月6日、土曜日の夜――。
 空に近い教室とも言えるこの場所に、六人のシルエットが集まっていた。
 脚立、ノートパソコン、プロジェクターに反射板。それぞれの機材を囲んで、言葉が少ない。
 「……ズレてるね、0.4秒くらい」
 莉音がパソコンの横で、眉間に皺を寄せた。
 星座ドームの投影タイミングが、屋上の天井シートとわずかに噛み合っていない。
 「補正値は入れてある。なのに同期しないってことは……」
 「校舎屋上の揺れか、風の影響?」
 裕美子がスマホの気象センサーをかざして、答える。
 「東風3.2m。通常より高い。あと、投影板がたわんでる」
 「了解。フレーム補強する」
 ノエルが無言で工具箱を抱えてしゃがみこむ。ドライバーの音が、夜の校舎にやけに響いた。
 「脚立、支えとくよ」
 真紀が言って、両手で銀のフレームをしっかりと支える。
 しゃがんだ姿勢でバランスを取る様子は、まるでピエロがジャグリングを準備しているみたいだった。
 「えーっと、リセットかけて再投影。莉音、いける?」
 「3分待って。今、演算スクリプト修正してるから。基準星の追従式も微調整する」
 莉音の声は、驚くほど冷静だった。
 それが逆に、朔太郎の心を少しだけざわつかせた。
 「……すごいな。お前、緊張しないの?」
 「うん。してる。でも、焦っても式は正しくならない」
 その答えを聞いた瞬間――
 朔太郎は、いつか雨の日の走路裏で、莉音に支えられたあの夜を思い出した。
 自分が転んでも、負けても、冷静に最短ルートを示してくれた彼女の背中。
 「さっすが冷静女王。なんならそのまま校長室にも投影してやろっか?」
 雄貴が機材の後ろから顔を出し、くだらない冗談を飛ばす。
 「逆に推薦取り消されそう」と真紀が笑い、裕美子は「うっかり副校長の頭に月が映るとか……」と続けた。
 「え、そうなったら“月に叱られた副校長”ってタイトルで配信するわ」
 「何百万回再生されるかねー?」
 全員が思わず吹き出した。
 だがそのとき、莉音の「投影、いける」の声が、ふいに重なった。
 月が照らす空間のなか、反射板に映る銀白の光が――ふわりと、きらめきを描く。
 その瞬間、朔太郎の息が止まった。
 「……今の、完璧だった」
 「基準星アルデバランから逆算して、風速と揺れを補正したの。あと、さっきのあなたの言葉もヒントになった」
 莉音の指先が、パソコンのエンターキーにそっと触れた。
 「焦っても式は正しくならない、って」
 朔太郎は黙ったまま、小さく頷いた。
 夜の空に星座の線が走り、投影ドームの内側を包んでいく。
 光と影が交錯するそのリハーサルのなかで、誰かが言った。
 「本番じゃないのがもったいないくらいだな、これ」
 たしかに――。
 だけど、本番は明日だ。
 文化祭の教室プラネタリウムが、全校生徒と来場者を待っている。
 莉音はそっと立ち上がると、空に向かって一言だけつぶやいた。
 「十五夜、成功させよう」
 その声に、全員の胸がわずかに熱を帯びる。
 そして屋上には、秋の夜風だけがそっと吹き抜けていった。

(第15章「屋上の十五夜リハーサル」完)