蝉の声すら届かないほど静かな午後の海だった。
 館山の海岸は都内よりもいくぶん風が涼しく、白い砂と青い空のコントラストがまぶしい。
 波打ち際では、小学生たちがキャッキャと水を蹴ってはしゃぎ回っている。
 その少し奥。岩場に近いエリアに、桜丘高校の一行は簡易テントを張っていた。
 「えーと、マイクテスト、テスト。……おー、聞こえてるっぽい!」
 タブレット越しに声を確かめながら、裕美子は小さなBluetoothスピーカーを岩の上にセットした。
 「この配置で、波の反響音がいちばん綺麗に入ると思うんだけど……ねえ、莉音、波形見えてる?」
 「うん、見えてる。今、FFTかけてるから少し待って。直進音と反響音の差を分離できれば、条件設定いけそう」
 「うわー、まじで頼りになるわー莉音。ほんとサイエンティストって感じ!」
 「それ、褒めてる?」
 「もちろん!」
 二人は顔を見合わせて笑った。
 夏合宿後半。今回は文化祭の準備も兼ねて、星空プラネタリウムの“音響演出”の実地テストを海辺で行っている。
 今回のアイデアは、裕美子が夜の浜辺で聞いた「波音のリズム」から着想したものだった。
 「ほら、あの波って、リズムがあってさ。だんだん落ち着くような、包まれるような……あれって、もしかして脳波に関係してんじゃないかなって思って!」
 それが始まりだった。
 そこに莉音がデータ解析とシミュレーションを持ち込んで、実験の形に落とし込む。
 「今測ってる波形、1/fゆらぎに近い。一定以上の周期を保ちつつ、微細に揺れてる」
 「じゃあ……この音、リラックスに効くってこと?」
 「少なくとも、集中力や記憶定着には有効って言われてるわ。再現できれば、文化祭で“音と星のヒーリング”ができる」
 「最高かよ!」
 両手を挙げた裕美子が、軽くスキップしながら波際へ戻っていった。
 砂浜の上には、小型の指向性マイク。バックパックにはモバイルバッテリー。まるで遊んでるように見えて、その実すべてが実験装置だ。
 莉音はスピーカーの角度を少しだけ変え、再度タブレットを覗き込んだ。
 (やれる。理論上、いける)
 ただ――海風は、そんな自信にいたずらな揺らぎを持ち込んでくる。
 テントの外から、ドスンと音がした。
 「うおお、まじでこれ飛ばされるって! 誰か押さえてくれー!」
 雄貴の声だった。

 莉音がテントの外に顔を出すと、風に煽られた幕を全身で押さえ込む雄貴の姿があった。隣には、ドローンケースを抱えたノエルもいる。
 「砂地にペグが刺さりにくいみたい。風速、今5メートルくらいあるかもね」
 ノエルが涼しい顔でドローンのセンサーデータを確認していた。
 「もう、こっちはこっちで大変なんだよ。ライブ配信用の三脚、全部傾いてるし」
 「重しが足りないわね……ペットボトル使う?」
 莉音が水入りのペットボトルを差し出すと、雄貴は「天才かよ!」と即座に受け取った。
 「てかさ、この風でもうまく音拾える? 俺の実況、ノイズだらけにならない?」
 「だいじょうぶ。マイクにはウインドスクリーン付けたし、あとはこのシミュレーションが合っていれば……」
 莉音がタブレットを見せると、ノエルが少し目を細めて覗き込んだ。
 「波形のピーク、見事に揃ってる。これ、あえて風の中で試す意味あるね」
 「うん。私たち、室内でしか試してなかったから」
 「じゃあ今日で、仕上げちゃおう」
 ノエルが指示を出すように、小さく手を挙げる。莉音と裕美子もそれにうなずいた。
 浜辺の即席実験室は、急きょ「強風下・臨界条件テスト」へと移行した。
 そこへ、朔太郎が遅れて現れる。ランニング用のサンダルに、首にかけた心拍センサー。
 「おお、何か本格的なこと始まってるな。俺、手伝える?」
 「じゃあこれ持って、音の反響点まで走って。できれば一定ペースで、波の合間をすり抜けて」
 「……どんな無茶ぶり!?」
 そう言いながらも、朔太郎はすぐにスピーカーを受け取り、莉音が示したマークまで駆け出していった。
 莉音はタブレットの波形を凝視しながら、タイムラグと風切り音の分離を行う。
 (行ける。あの距離なら、約0.46秒後に反響……)
 それは、まるで音楽を奏でるような作業だった。
 ビートに合わせて、波と走者とスピーカーの配置が完璧に一致した瞬間――
 パァン、とひときわ大きく波が砕けた。

 波の砕ける音とともに、全員のタブレットと心拍センサーが同時にビープ音を発した。
 「……一致した!」
 莉音が小さく声を上げた。
 「観測値、誤差0.02秒。これなら、文化祭でも自然音と同期した投影ができるよ」
 「すげぇ……そんなことまで計算できるの?」
 朔太郎が息を切らしながら戻ってくる。
 「できるようにしたの。朔太郎が一定ペースで走ってくれたおかげ」
 「じゃあ俺、波とテンポ合わせた男ってことで?」
 「もうちょっとマシな言い方にしなさいよ……」
 裕美子が笑いながら、朔太郎の腕に冷たいペットボトルを押し当てる。
 「でもほんと、今日でかなり詰められたね」
 「うん。あとは、夜のテストだけかな」
 莉音が周囲を見渡す。
 砂浜の向こうには、薄くオレンジがかった空と、かすかに灯る漁船の光。
 「暗くなったら、星と波と光の干渉を試す」
 そう呟いた瞬間、朔太郎がぽつりと、
 「お前さ、そういうの――なんか、きれいに言うよな」
 と言った。
 莉音は、一瞬だけ黙り込んでから答える。
 「それが、数式にできる美しさだと思ってる」
 「俺には無理だな」
 「だから、私にできるんでしょ」
 その応答に、朔太郎はふっと笑った。
 砂浜に並んだ影が、ほんの一瞬だけ重なる。
 この時、誰も言葉にはしなかったが――
 この「計算された美しさ」が、きっとどこかで未来の一歩になることを、全員が確かに感じていた。