緊張が張り詰める中、スタートブロックに脚を掛ける。
2024年8月3日、日曜日の午前九時三十分。都大会予選会場である駒沢オリンピック公園の陸上競技場は、朝からうだるような熱気に包まれていた。
「フライングだけは、マジで気をつけろよ」
競技前、控えエリアで竜輝がそう声をかけてきた。
返事代わりに朔太郎は軽く肩をすくめた。
(そんなの、言われなくてもわかってるよ)
今日の予選を通過すれば、次は都大会本戦、さらにその先には関東ブロック予選がある。数字と区間がすべての短距離走者にとって、この一本は単なる「予選」ではない。「自分の現在地を証明する」ための、本気の一発勝負だった。
ピストルが鳴る。あるいは鳴らない。
その、わずか〇・〇数秒のために、朔太郎は二ヶ月以上、スタート練習を繰り返してきた。反応速度の平均は〇・一四秒台まで上がり、集中力の維持時間も測定上は問題ない。
なのに。
スターターが声を張り上げた瞬間、
「位置について——用意——」
反射のように身体が、前へ出てしまった。
カン、と空気を裂くような警告音。審判がレッドカードを掲げる。
場内アナウンスが、朔太郎のゼッケン番号を無機質に読み上げた。
「ゼッケン一七八番・桜丘高校・羽成朔太郎、スタート違反により失格」
……終わった。
頭の中に、冷たい何かが流れ込んでくる。
観客席にいた莉音は、静かに立ち上がった。
朔太郎の名が呼ばれると同時に起きたざわめきの中、彼女だけは立ったまま一点を見つめていた。すでに応援ボードも掲げていない。
スパイクの先を揃えて下を向く朔太郎が、ただの少年に見えた。
(これは……単なる反応の早すぎじゃない。リズムが崩れてた)
反応速度の数値は一定でも、「身体の入り」が予定より〇・一五秒早い。莉音は無意識に空中に数式を描いた。
目線の高さ、体軸の前傾角、蹴り出しの地面接触点――それらの位置が、通常時よりもほんの少し、手前にずれていた。
「プレッシャーによる前傾維持時間の短縮か……」
手元のノート端に、数行の文字を記す。
彼の集中の質が“過集中”に変わるとき、身体は反応しすぎる。
この現象は以前の定期試験直前や、学内記録会の朝にも見られた。
(じゃあ、今回の誤差も予測できた?)
違う。そう思い直す。
予測ではなく、調整だ。朔太郎のリズムを数式化し、実戦形式に落とし込んだタイミング制御。
莉音の手が、自分でも驚くほどすばやく動き始める。
一方、その頃。
競技場の裏手、器具搬入路の奥。
赤い顔で座り込んでいた朔太郎の前に、竜輝がスポーツドリンクを差し出した。
「飲め」
「いらない」
「いいから。人間、ミスったときは口を動かせ。言葉でも水でも」
無理やり渡されたボトルを握りながら、朔太郎はようやく口を開いた。
「……俺、何やってんだろうな」
「何って、緊張しすぎて飛び出した。それだけだろ」
「わかってたはずなんだよ、間の取り方も、呼吸の合わせ方も……」
「全部理屈通りにいくなら、誰も苦労しない」
「いや……俺は、“いかせなきゃいけない側”だったんだよ」
朔太郎の肩が落ちる。
その姿を見ながら、竜輝はため息をついた。
「じゃあ、その“いかせるための方法”を、探すしかないだろ」
「方法って……何だよ、俺もう走れねえんだぞ」
「いや、違うな。今からでも探せる“誰か”がいる」
そう言って、竜輝が軽く顎をしゃくった先――
そこに、莉音がいた。
「次、リズムの再調整、手伝うわ」
莉音はそう言って、バッグから折り畳んだプリント用紙を取り出した。
そこには、彼女が空中に描いていた図形とほぼ同じものが印刷されていた。時間軸上のピッチ推移と踏み込み角度のグラフが、並列して示されている。
「……何これ。俺のスタートのデータ?」
「予備の記録から再構築した。正確には、君が“理想と思ってる動き”の再現モデル。今日の走りとは違う」
「俺の……理想?」
「うん。今のあなたは、理想の走り方を“記憶”してるだけで、再現できてない」
莉音はまっすぐに朔太郎を見つめた。
口調は冷静で論理的だが、目はどこか、それ以上の熱を帯びていた。
「その理想は、記録の中に眠ってる。今ここで組み立て直せば、次の大会には間に合う」
「でも、予選は終わった。このままじゃ……」
「都大会は終わった。でも、“次の競技会”のエントリーは、竜輝くんがすでに申し込んでる」
「……おい」
「え、マジかよ、竜輝」
「だから言ったろ、誰かが先にリスク取ってやらないと、お前は飛べないんだよ」
竜輝がにやりと笑った。
莉音は一瞬だけ息を止めてから、再び淡々と語り出した。
「次は八月十七日の市民陸上大会。地方規模だけど、ランキング更新には十分。今なら滑り込みで記録申請が通るはず」
朔太郎は、少しだけ顔を上げた。
「……また、走っていいのか。俺」
「もちろん。ここからが再スタート」
莉音が差し出した手には、再調整メニューの表があった。
重ねられたその紙には、彼女の小さな文字でこう記されていた。
《Start=一度崩れた歩幅を、今度は自分で取り戻すこと》
手を伸ばしかけた指先が、一瞬だけ止まる。
けれど――朔太郎は、紙をしっかりと受け取った。
朔太郎は競技場をあとにしながら、ふと立ち止まった。
夏の陽射しは無慈悲なほど強く、汗がじんわりと首元を濡らしていく。けれど、その熱すら、今の彼にとっては不快じゃなかった。
失格。それは確かに大きな痛手だった。
けれど、それ以上に今は――誰かが自分を信じて手を差し伸べてくれたことが、何よりも心に残っていた。
(まだ、終わってない)
歩幅を見直す。ピッチを組み替える。フォームを解体して、また一から構築する。
かつての自分なら、こんな「遠回り」は無駄だと決めつけていただろう。
でも今は違う。
目の前に、並んで走ってくれる仲間がいる。
竜輝は前を向き、どこかふざけた様子で鼻歌を歌いながら歩いていた。
莉音は手元の資料を折りたたみ、バッグにしまうと、言った。
「ねえ、朔太郎。帰ったら、今日のピッチデータ、もう一度見直したいんだけど。いい?」
「……おう、いいよ」
照れ隠しに鼻をかいたその瞬間、莉音がふと立ち止まり、少しだけ顔をこちらに向けた。
「あなたが、また“理想”を掴めるように。私は、できる限りのことをしたいから」
その一言に、心のどこかが熱を帯びる。
競争相手としての緊張ではなく、伴走者としての温度。
それを今、少しずつ朔太郎は理解し始めていた。
この夏、まだ終わらない。
失速はした。でも、歩みを止めたわけじゃない。
だからきっと、また走れる。
(第13章「一歩先の失速」了)
2024年8月3日、日曜日の午前九時三十分。都大会予選会場である駒沢オリンピック公園の陸上競技場は、朝からうだるような熱気に包まれていた。
「フライングだけは、マジで気をつけろよ」
競技前、控えエリアで竜輝がそう声をかけてきた。
返事代わりに朔太郎は軽く肩をすくめた。
(そんなの、言われなくてもわかってるよ)
今日の予選を通過すれば、次は都大会本戦、さらにその先には関東ブロック予選がある。数字と区間がすべての短距離走者にとって、この一本は単なる「予選」ではない。「自分の現在地を証明する」ための、本気の一発勝負だった。
ピストルが鳴る。あるいは鳴らない。
その、わずか〇・〇数秒のために、朔太郎は二ヶ月以上、スタート練習を繰り返してきた。反応速度の平均は〇・一四秒台まで上がり、集中力の維持時間も測定上は問題ない。
なのに。
スターターが声を張り上げた瞬間、
「位置について——用意——」
反射のように身体が、前へ出てしまった。
カン、と空気を裂くような警告音。審判がレッドカードを掲げる。
場内アナウンスが、朔太郎のゼッケン番号を無機質に読み上げた。
「ゼッケン一七八番・桜丘高校・羽成朔太郎、スタート違反により失格」
……終わった。
頭の中に、冷たい何かが流れ込んでくる。
観客席にいた莉音は、静かに立ち上がった。
朔太郎の名が呼ばれると同時に起きたざわめきの中、彼女だけは立ったまま一点を見つめていた。すでに応援ボードも掲げていない。
スパイクの先を揃えて下を向く朔太郎が、ただの少年に見えた。
(これは……単なる反応の早すぎじゃない。リズムが崩れてた)
反応速度の数値は一定でも、「身体の入り」が予定より〇・一五秒早い。莉音は無意識に空中に数式を描いた。
目線の高さ、体軸の前傾角、蹴り出しの地面接触点――それらの位置が、通常時よりもほんの少し、手前にずれていた。
「プレッシャーによる前傾維持時間の短縮か……」
手元のノート端に、数行の文字を記す。
彼の集中の質が“過集中”に変わるとき、身体は反応しすぎる。
この現象は以前の定期試験直前や、学内記録会の朝にも見られた。
(じゃあ、今回の誤差も予測できた?)
違う。そう思い直す。
予測ではなく、調整だ。朔太郎のリズムを数式化し、実戦形式に落とし込んだタイミング制御。
莉音の手が、自分でも驚くほどすばやく動き始める。
一方、その頃。
競技場の裏手、器具搬入路の奥。
赤い顔で座り込んでいた朔太郎の前に、竜輝がスポーツドリンクを差し出した。
「飲め」
「いらない」
「いいから。人間、ミスったときは口を動かせ。言葉でも水でも」
無理やり渡されたボトルを握りながら、朔太郎はようやく口を開いた。
「……俺、何やってんだろうな」
「何って、緊張しすぎて飛び出した。それだけだろ」
「わかってたはずなんだよ、間の取り方も、呼吸の合わせ方も……」
「全部理屈通りにいくなら、誰も苦労しない」
「いや……俺は、“いかせなきゃいけない側”だったんだよ」
朔太郎の肩が落ちる。
その姿を見ながら、竜輝はため息をついた。
「じゃあ、その“いかせるための方法”を、探すしかないだろ」
「方法って……何だよ、俺もう走れねえんだぞ」
「いや、違うな。今からでも探せる“誰か”がいる」
そう言って、竜輝が軽く顎をしゃくった先――
そこに、莉音がいた。
「次、リズムの再調整、手伝うわ」
莉音はそう言って、バッグから折り畳んだプリント用紙を取り出した。
そこには、彼女が空中に描いていた図形とほぼ同じものが印刷されていた。時間軸上のピッチ推移と踏み込み角度のグラフが、並列して示されている。
「……何これ。俺のスタートのデータ?」
「予備の記録から再構築した。正確には、君が“理想と思ってる動き”の再現モデル。今日の走りとは違う」
「俺の……理想?」
「うん。今のあなたは、理想の走り方を“記憶”してるだけで、再現できてない」
莉音はまっすぐに朔太郎を見つめた。
口調は冷静で論理的だが、目はどこか、それ以上の熱を帯びていた。
「その理想は、記録の中に眠ってる。今ここで組み立て直せば、次の大会には間に合う」
「でも、予選は終わった。このままじゃ……」
「都大会は終わった。でも、“次の競技会”のエントリーは、竜輝くんがすでに申し込んでる」
「……おい」
「え、マジかよ、竜輝」
「だから言ったろ、誰かが先にリスク取ってやらないと、お前は飛べないんだよ」
竜輝がにやりと笑った。
莉音は一瞬だけ息を止めてから、再び淡々と語り出した。
「次は八月十七日の市民陸上大会。地方規模だけど、ランキング更新には十分。今なら滑り込みで記録申請が通るはず」
朔太郎は、少しだけ顔を上げた。
「……また、走っていいのか。俺」
「もちろん。ここからが再スタート」
莉音が差し出した手には、再調整メニューの表があった。
重ねられたその紙には、彼女の小さな文字でこう記されていた。
《Start=一度崩れた歩幅を、今度は自分で取り戻すこと》
手を伸ばしかけた指先が、一瞬だけ止まる。
けれど――朔太郎は、紙をしっかりと受け取った。
朔太郎は競技場をあとにしながら、ふと立ち止まった。
夏の陽射しは無慈悲なほど強く、汗がじんわりと首元を濡らしていく。けれど、その熱すら、今の彼にとっては不快じゃなかった。
失格。それは確かに大きな痛手だった。
けれど、それ以上に今は――誰かが自分を信じて手を差し伸べてくれたことが、何よりも心に残っていた。
(まだ、終わってない)
歩幅を見直す。ピッチを組み替える。フォームを解体して、また一から構築する。
かつての自分なら、こんな「遠回り」は無駄だと決めつけていただろう。
でも今は違う。
目の前に、並んで走ってくれる仲間がいる。
竜輝は前を向き、どこかふざけた様子で鼻歌を歌いながら歩いていた。
莉音は手元の資料を折りたたみ、バッグにしまうと、言った。
「ねえ、朔太郎。帰ったら、今日のピッチデータ、もう一度見直したいんだけど。いい?」
「……おう、いいよ」
照れ隠しに鼻をかいたその瞬間、莉音がふと立ち止まり、少しだけ顔をこちらに向けた。
「あなたが、また“理想”を掴めるように。私は、できる限りのことをしたいから」
その一言に、心のどこかが熱を帯びる。
競争相手としての緊張ではなく、伴走者としての温度。
それを今、少しずつ朔太郎は理解し始めていた。
この夏、まだ終わらない。
失速はした。でも、歩みを止めたわけじゃない。
だからきっと、また走れる。
(第13章「一歩先の失速」了)



