空の色が、少しずつ茜に染まり始めていた。
 二子玉川の河川敷に並ぶテントと提灯は、まだ点灯前だが、その影が柔らかく地面に落ちている。
 「これ、ちょっと通路狭すぎないか?」
 朔太郎が首をかしげて、地面に引かれた白線を見つめる。
 その線は、仮設屋台と観客用スペースを分けるもので、地元商店会のメンバーが午前中に引いたという。
 だがその幅は、通勤ラッシュの電車車内のように、どう見てもぎゅうぎゅうだ。
 「こっち、飲み物の販売と焼きそばが向かい合ってるから、人が立ち止まりやすい場所なのに……通路1.8メートルはさすがに狭いな」
 莉音が手元のタブレットでシミュレーションを再計算していた。
 「人流、1分あたり最大96人通過可能。理論上は問題ないけど、実際は立ち止まり・写真撮影・子供の迷走を加味して、安全幅は最低2.5メートル必要」
 「じゃあ、ずらすしかねえな。……おい竜輝、そこの鉄板、もう一回動かせるか?」
 「えー、またぁ? 焼きそばのにおいでもう服に油しみてんだけど」
 「お前の服の話はしてねーんだよ、客の通りやすさの話!」
 軽口を叩き合いながらも、朔太郎と竜輝は手際よく鉄板とテントを持ち上げ、指定ラインから30センチだけ後ろに引いた。
 その動きを、数メートル離れた場所でカメラを構える雄貴が、にやにやしながら見ていた。
 「おっけー、いい汗だ、朔太郎。今の『黙々と働く男の背中』、いただき〜!」
 「撮んな!! 勝手に素材にすんな!」
 「これ、地域PR動画の素材だって! “地元高校生が支える夏祭り”ってタイトルで編集して、ゼミ得点もろともごっそりいただくから!」
 雄貴の手には、さっきから見慣れぬ手持ちジンバルとミラーレスカメラ。
 「いつの間にそんな機材……」
 「フリマで買った中古品。人は道具じゃなくて“撮り方”だっていうけど、俺は“映え方”を信じるぜ!」
 莉音がそのやり取りを冷静に見守りながら、タブレットに新たな数字を打ち込む。
 「祭り開始まであと45分。現状、配置ミスによる回遊性低下のリスクが15%。ただし、案内表示の追加で低下予測5%。コストは段ボール3枚、マジック2本」
 「おっけー、じゃあ俺が走る! ちょうど雄貴が撮影してるし、働いてる風も演出できる!」
 朔太郎はそう言うと、物資テントへ全力ダッシュ。莉音が持っていた段ボールを途中でひったくるように受け取り、地面の小石に躓きそうになりながら走る。
 「もう、あの人……全力がデフォルトなのね……」
 莉音はため息をつきながらも、マジックを取り出して、手際よく案内板の文字を書き始めた。

 開場のアナウンスとともに、河川敷には次々と来場者が流れ込んできた。
 浴衣姿の親子連れ、仕事帰りのサラリーマン、部活帰りの中高生。人の流れは、予想を上回る速度で屋台通りに詰まり始めた。
 「こっち、誘導足りない! ヨーヨー釣りの列が焼き鳥屋台の火元に接触しかけてる!」
 「ええと……列の整理は……」
 莉音が迷うより先に、朔太郎が身体で動いた。軽く息を整えながら、呼吸のタイミングを見計らって声を張る。
 「すみませーん! ヨーヨー釣りの方、こちらに一列でお願いしまーす! 火の近くはちょっと危ないです!」
 その声が、夕方のざわめきの中でもはっきりと響いた。
 莉音はその背を見つめながら、小さく息を吐いた。
 (こういうとき、咄嗟に身体が動くのは強いな)
 自分なら、きっと「最適な動線」を計算してから声を出していた。でも、その一瞬の遅れが、安全には致命的になり得るのだ。
 「莉音、収支の方は?」
 「今のところ、飲食系屋台は仕入れ原価に対して30%の黒字推移。平均単価450円、回転率が1時間あたり約12人」
 「さすが。俺は数字よりも汗かいてるけどね!」
 雄貴がいつの間にか真横に来ていた。手元のタブレットには、撮影したばかりの映像のサムネが並んでいる。
 「見てこれ、“炎と汗と笑顔の夏”。テーマにバッチリでしょ?」
 「それ、燃えてるのは焼き鳥でしょ」
 莉音の冷静なツッコミに、雄貴は苦笑い。
 「まぁまぁ、それっぽく見えればOKっしょ。で、朔太郎の働きっぷりがまた映えるんだわ」
 カメラ越しに見る朔太郎の背中は、確かに誇張なしで“働く青春”の具現そのものだった。汗で髪が額に貼りつき、シャツが背中に張り付きながらも、止まらず走る。
 その姿が、なぜか莉音の胸の奥に、ふとした熱を灯した。
 ——それは、炎の熱とは少し違っていた。
 「ねえ、莉音。アンタさ、朔太郎にちょっと感謝してるでしょ?」
 背後からふいに声がかかった。真紀だった。うちわをぱたぱた仰ぎながら、意味深に笑っている。
 「別に。ただ、ああいう動きがあるから、私の計算も実効性を持つってだけ」
 「へー。じゃあ逆に聞くけど、朔太郎が黙って棒立ちしてたら、今の数式って意味あるの?」
 その問いに、莉音は言葉を返せなかった。
 「……それは……」
 「つまり、両方そろって初めて“動く”ってことじゃない?」
 「……」
 莉音は数式を見つめ直した。自分のタブレットに記された、人口密度、滞在時間、消費行動の分布。
 どの数字にも、目の前の人の汗や声や歩幅は反映されていない。
 でも、今、自分が評価されようとしているこの瞬間。
 朔太郎がそこにいてくれることで、すべてが“意味を持って”成立している。
 「……ありがとう、って言ってみるか」
 小さく、唇の端だけでつぶやいた声は、真紀にもしっかり聞かれていたようだった。
 「おっ、それ録音しとけばよかったなあ〜」
 「録音する前提やめてくれる?」
 笑いながら二人が並んで立つその隣を、朔太郎が案内板を手に再び駆けて通り抜けた。
 夕焼けの中、影が長く伸びていく。
 この夏が、もうひとつの“勝負の舞台”であることに、莉音は少しずつ気づき始めていた。