2024年4月8日(月)午前7時15分。
 東京都世田谷区、多摩川沿いの堤防道路。朝の空気はまだ春の冷たさを残していたが、太陽がじわじわと川面に光を投げかけ、早起きのランナーたちの背中を照らしていた。
 その中に、ひときわ目立つ高校生がいた。
 黒いウインドブレーカーの上着を腰に巻き、Tシャツ姿で短距離ダッシュを繰り返す男子——桜丘高校陸上部2年・三枝朔太郎。鍛えられた脚筋と切れ味のあるフォームから、ただの朝ランナーではないことは一目瞭然だった。
 その朔太郎が、堤防上に設けられた横断歩道の信号が青に変わる瞬間、電光石火のような加速で飛び出した。
 「あと十秒……行ける!」
 全身が弾けるように前方へ突き出される。靴底がアスファルトを蹴り、空気を切り裂くように走る朔太郎。その視線の先には、カウントダウン表示された信号機があった。
 9、8、7……信号が点滅する寸前に、朔太郎は対岸へ滑り込むように着地した。
 「っしゃ……ギリ!」
 息を切らしながら振り返ったその時だった。
 「あ、落としたよ」
 背後から声がした。少し低めで、落ち着いた女子の声。
 振り返ると、グレーのセーラー服に紺のリュックを背負った少女が、彼の足元に近づいてきた。
 「これ、君の?」
 手に握られていたのは、朔太郎の胸ポケットから滑り落ちていた小さな紙切れ——学校の時間割表だった。
 「……あ、サンキュ」
 彼女の目は、信号を渡り切った朔太郎の足元と腕の振り方を一瞬だけ見てから、ふっと細く笑った。
 「速かったね、でもフォーム、ちょっと右肩が……」
 「……なに? 分析?」
 返す朔太郎の目が鋭くなる。だが少女は落ち着いた表情のまま、カバンからスマホを取り出した。
 「いえ、ただの観察。走る人ってリズムに癖が出やすいから」
 「君、……誰?」
 「それは、そっちもでしょう?」
 言いながら、彼女は堤防沿いの小さなプレートを指さした。
 「じゃあ、ここからあの橋の階段まで、もう一本。測らせてもらってもいい?」
 朔太郎の中で、火がついた。
 名乗らずに挑まれたレース。これ以上の朝食代わりはない。

 朔太郎はわずかに鼻を鳴らした。
 誰だかわからない転校生らしき少女の、その目の据わり方に既視感があった。感情をあまり揺らさず、頭の中だけで全部計算しているようなタイプ——自分と真逆。けれど、その冷静さが逆に、競争心に火を点けた。
 「いいぜ。タイム測るって言ったな?」
 「うん。ストップウォッチ、あるし」
 彼女はスマホのタイマーアプリをさっと表示させる。余計なアニメーションもない、シンプルなUI。
 「じゃ、3、2、1でいく?」
 「いや、スタートの掛け声は俺が出す。……自分の呼吸で決めたい」
 「了解」
 にこりともせずに彼女は頷く。そのやりとりすら、まるで科学実験のように無駄がない。
 二人は並んで立った。堤防を挟む歩道の白線に、各々のつま先を合わせる。
 「ゴールは、橋の階段上のベンチまで」
 「OK」
 朔太郎は軽く足踏みし、反動をつけた。呼吸は深く、脈は穏やか。
 そして、彼の中でカウントダウンが始まる——自分のペースで。
 ——スリー
 ——ツー
 ——ワン
 「ゼロ!」
 声と同時に、靴底が地面を裂いた。空気が軋む。
 朔太郎の走りは、風と同期するように一直線に伸びた。呼吸と心拍が一致する、たった数秒の世界。
 並走する少女も、まったく遅れていない。膝の使い方が正確で、無理な力が入っていない。まるで数学の関数グラフがそのまま走っているような滑らかさ。
 「——!」
 朔太郎はちらりと視界の端で確認する。予想以上に速い。彼女のポニーテールが風を切り、わずかに遅れてその香りが追ってくる。
 堤防の道幅が徐々に狭くなる。人の少ない朝だからこそ成り立つ、無言のデッドヒート。
 「ラスト——!」
 朔太郎は腰を落とし、最後の5メートルで加速した。少女も同時に重心を低くし、足を滑らせるように追ってくる。
 ゴール地点のベンチ。二人の足音が、同時に止まった。
 ——0.3秒。
 朔太郎の方が、わずかに速かった。
 「……ハァ、ハァ……」
 朔太郎は息を切らしながら、横目で彼女を見た。
 「……結構やるじゃん」
 「そっちこそ。フォーム、さっきより修正されてた」
 息一つ乱さず、少女はタイマーを止める。自分の記録を確認して、頷いた。
 「7秒91。信号横断より0.2秒速い」
 「俺は……7秒61」
 「……なるほど、じゃあこの勝負はあなたの勝ちね」
 あっさりと、そしてどこか嬉しそうに、彼女は言った。

 朔太郎は肩で息をしながらも、口角をわずかに上げた。
 「勝ったけど、手加減された気がする」
 「そんなことないよ。全力だった。計算含めて、ね」
 少女の口元が少しだけ、ふっとほころんだ。それは「感情」というより、「認識の共有」によって生まれた笑みだった。
 「じゃ、これで」
 彼女はさっき拾った紙——時間割表を返すと、名乗ることもなくくるりと踵を返した。
 「待てよ」
 朔太郎が、思わず呼び止める。
 彼女は立ち止まる。振り返らず、ただ空を見上げたまま言う。
 「また学校で会えるかもね。……たぶん、ね」
 その声にはどこか、自分のことを“特別な存在ではない”と語るような、冷ややかな客観性が含まれていた。
 だが、それは朔太郎にとって逆だった。
 「会うに決まってる。勝負は一回じゃ終わらねぇ」
 自分でも理由はよくわからない。けれど、再戦を前提とした言葉が、もう口をついていた。
 彼女は数歩歩いてから、ようやく振り返った。
 「じゃあ、次も……その時の“青信号”が、間に合えばね」
 曖昧で、けれどどこか詩的なその言葉を残して、彼女は堤防を降りていった。
 その背中が交差点に吸い込まれていくのを見届けながら、朔太郎は足元を見下ろした。
 まだ脈拍は速い。呼吸も乱れている。だが、胸の奥は別の熱を持ち始めていた。
 「誰なんだよ、あいつ……」
 ぼそりとつぶやく。
 次に会う時は名前くらい聞こう、そう決めながら、朔太郎はスマホのタイマー履歴を確認し、自分のラップタイムを保存した。
 それは、ただの朝ラン記録ではない。
 新学期、最初の「ライバル」との遭遇を刻んだ、スタートダッシュの証だった。
 そしてこの数時間後、教室で二人は再び顔を合わせることになる。
 互いの名前をまだ知らぬまま——。