私の新たな「戦い」は苦戦続きだ。
 私は、自分の気持ちに正直に向き合った結果、ユーイの鍛冶屋へと足繁く通うようにした。もちろん毎日だ。
 しかし、ユーイに会って会話をする私を邪魔するかのように、強敵、そう、あの小娘がユーイの鍛冶屋にやってくる。
 彼女が来るたびに内心で舌打ちし、無言の牽制を繰り返した。
 それは、鍛冶場の火を前にするよりも、魔物の群れを相手にするよりも、私の心を掻き乱す。

 しかし、そんな日々の中で、私はユーイのほんのわずかな変化も見逃さないよう、翡翠色の瞳で彼を追い続けた。
 彼の作業する手元、時折見せる困ったような笑顔、そして、私への変わらぬ畏怖の念。
 その全てが私の心を乱し、不思議な熱を灯し続けていた。

◇◇◇◇

 ある日の午後、いつものように鍛冶屋の戸を叩いた。
 
 だが返事はない。

 何度叩いても、あの心地よい金属の打音も、ユーイの気弱な声も聞こえない。

 嫌な予感が、背筋を這い上がった。
 私は店に入ると、魔物の気配を探るように、神経を研ぎ澄ませた。店から漂うのは、いつもと違う、どこか閉塞した空気。
 私は戸を押し開けると、火床の炎はいつもより勢いがなく、鉄を打つ槌の音も聞こえない、ひどく静まり返った店内に足を踏み入れた。

「ユーイ、いるか!」

 声をかけるが、やはり返事はない。
 私の声は、広い店内に吸い込まれるように消えていく。
 奥の居住スペースへと続く扉がわずかに開いていた。そこから、うっすらと熱気が漏れてくるのを感じた。
 心臓が不穏なリズムを刻み始める。
 
 慌てて扉を開けると、目に飛び込んできたのは、床にぐったりと倒れ込んでいるユーイの姿だった。
 顔は真っ赤に上気し、額には脂汗がにじんでいる。
 呼吸は荒く、苦しそうだ。
 まるで、鍛冶場の火に焼かれたかのように、その細い身体からは異常な熱が発せられていた。

「ユーイ!? どうした!」

 私は動揺を隠せないまま駆け寄った。
 彼の額に手を当てると、剣を打つ火床よりも熱いのではないかと思うほどの熱が伝わってくる。
 彼の肌は焼け付くように熱く、その熱が私の指先から全身に広がり、私自身の体温まで奪っていくかのようだった。
 その荒い呼吸を聞いていると、私の胸まで締め付けられるような気がした。

「うぅ……ロレッタ……さん……?」

 ユーイはうわ言のように私の名を呟いた。
 その声は、普段の彼からは想像できないほどか細く、弱々しい。
 瞳は焦点が定まらず、私の顔をぼんやりと見つめている。

 この一大事に、リリアの姿はどこにもない。こんな時まであの娘はユーイのそばにいないのか、と胸にざらつく不快感が湧いた。
 しかし、それと同時に、ユーイの傍にいるのが私だけだという、どうしようもない安堵と焦りが込み上げた。
 最強の冒険者である私が、こんな状況で立ち尽くしている場合ではない。

 私は、熱にうなされるユーイの細い身体を、ぎこちなく抱きかかえた。
 こんな風に男の身体を抱きかかえることなど、人生で一度もない。
 普段、私が抱え上げるのは、討伐した魔物の死骸か、傷ついた冒険者たちだ。

 だが、ユーイの身体は、それらとは全く違う。華奢で、頼りなく、そして異常に熱い。
 まるで壊れてしまいそうなほどの、危うさがあった。
 その軽さに、彼の普段の作業の過酷さを思わずにはいられなかった。

 彼を慎重に抱え上げ、居住スペースの奥にあるベッドへ運ぼうとした、その時だ。

 足元にあった鍛冶道具に不意に足を取られ、私はバランスを崩して後ろへ倒れ込んだ。
 そして、その衝撃で、抱えていたユーイの身体が、私の胸元へと倒れ込んできた。

「ひゃっ……!?」

 思わず、私にしては珍しい、小さな声が漏れた。

 ユーイの顔が、私の柔らかな胸に埋まる。
 彼の熱い髪が、熱い頬が、私の肌に直接触れる感触。
 まるで火傷しそうなほどの熱が伝わってくる。

 そして、その手が、私の胸をぎゅっと掴んだ。
 意識が朦朧としているユーイは、まるで何かを掴んでいないと落ちてしまうかのように、私の胸元に顔を押し付け、その手を離さない。
 彼の指が、衣服越しに私の肌に食い込むような感覚があった。

「う、ぅあ……」

 ユーイの熱い吐息が、胸元をくすぐる。

 彼は朦朧としながらも、自分の手が触れている場所に気づいたのか、ハッと目を見開き、その顔はみるみるうちに真っ赤に染まった。
 いや、熱のせいだけではないだろう。
 熱にうなされているにもかかわらず、その瞳にははっきりとした後悔と、顔面蒼白になるほどの狼狽が浮かんでいる。
 彼の小さな口が、何かを言おうと震えている。

「も、申し訳……ありませ、ん……!」

 ユーイはすぐに手を離し、私の腕の中で恐縮しきったように身を縮め、謝罪の言葉を口にした。その様子は、まるで罪を犯した小動物のようだ。彼の顔は、熱とは違う意味で、真っ青になっている。今にも泣き出しそうな、その弱々しい姿に、私は怒りを覚えるどころか、むしろ保護欲のようなものを感じていた。

 普通なら、激怒するところだ。Sランク冒険者である私の身体に、ましてや胸に、無礼にも触れるなど、許される行為ではない。剣を抜き、地面に叩きつけていたかもしれない。
 だが、なぜだろう。私の心臓は激しく波打ち、全身の血が熱く駆け巡っている。嫌悪感など、どこにもない。むしろ、胸の奥が温かくなるような、嬉しい感覚が、じわじわと広がるのを感じた。まるで、私の奥底に眠っていた感情が、呼び覚まされたかのように。
 こんな感情は、生まれて初めての経験だった。

「……気にすることはない。それより、ひどい熱だ。医者は?」

 私は、努めて冷静を装って言った。しかし、私の声は、普段より少しだけ震えていたかもしれない。ユーイは弱々しく首を横に振った。

「そ、それが……親しい医者が、遠方に往診に出ていて……今日中には、戻らないと……」

 私しかいない。この状況で、ユーイを助けられるのは、私が唯一なのだ。私の胸の中で、使命感にも似た、熱い決意が固まった。

 私が、この男を守らなければ。私が、この男を癒さなければ。

 私は、不器用ながらもユーイの看病を始めた。
 冷たい水で手拭いを絞り、熱い額に当ててやる。熱を持った肌に触れるたび、私の胸もじんわりと熱くなる。
 脂汗を拭い、ひどく乾いているだろう喉を潤すために、水を飲ませた。薬箱を探し出して、解熱剤を見つけ出し、用法をよく確認してから飲ませた。

 これまで、人の世話など焼いたことがない。冒険に出て以来、自分の身は自分で守ってきたし、他人の面倒を見るような機会もなかった。
 常に己の強さだけを追求し、剣を振るうことしか知らなかった私の手が、誰かのために使われることに、私はどこか新鮮な感情を抱いた。

 ユーイが苦しそうにうなされるたび、私の胸も締め付けられる。

 早く楽になってほしい。ただ、その一心だった。

 時折、ユーイが身じろぎ、苦しげな声を漏らすたび、私の心臓は強く脈打った。

 彼の顔色は少しずつ落ち着いてきたが、まだ油断はできない。私は冷たい水で濡らした手拭いを何度となく絞り直し、彼の額や首筋を拭った。
 その度に、彼の熱が私の掌から伝わり、私自身の体が熱を帯びていくような不思議な感覚に包まれた。
 疲労など感じない。ただ、目の前の彼が、少しでも楽になることだけを願っていた。

 夜通し、私はユーイのそばに付き添った。

 熱が下がるまで、一瞬たりとも目を離さなかった。
 彼の寝顔をじっと見つめる。普段は怯えたような表情ばかりの彼の顔が、病によって無防備に晒されている。
 その幼さにも似た寝顔に、私は触れたい衝動を覚えたが、ぐっと堪えた。代わりに、彼の荒い呼吸が、少しずつ落ち着いていくのを感じ、私の心も安堵に包まれていく。

 明け方、ユーイの呼吸が穏やかになり、額の熱も引いてきたのを確認し、私はようやく緊張から解放されたように、深く安堵のため息をついた。

 朝焼けの光が、静かに鍛冶屋の窓から差し込む頃、ユーイはゆっくりと目を開けた。まだ少し虚ろな瞳が、私を捉える。その瞳に、徐々に意識が戻ってくるのが見て取れた。

「ロレッタさん……? ずっと、看病してくださったのですか……?」

 彼の声は、昨晩よりずっとしっかりしている。その瞳には、感謝と、かすかな戸惑いが混じっていた。昨晩の出来事を思い出しているのだろう。

「……ああ。貴様が倒れているのだから、当然だろう」

 私はそっけなく答えたが、内心では、彼の意識が戻ったことにホッと胸を撫で下ろしていた。
 彼の顔色が、昨日よりずっと良くなっていることに、私の心は満たされていく。

「ありがとうございます……。ご迷惑をおかけして、すみません……」

 ユーイは弱々しく微笑んだ。

 その笑顔は、どこか遠慮がちで、いつもの怯えが混じったものだった。
 しかし、私には、彼の口から出た感謝の言葉が、何よりも嬉しかった。
 彼の命が助かったこと、そして彼が私に感謝してくれたこと。その事実が、私の心を温かく満たした。

 
 この看病を通じて、ユーイとの間に、以前よりも確かに距離が縮まった。
 彼の私への畏怖が少し薄れ、私の存在を受け入れてくれたような感覚。
 それは、ただの看病ではなかったことを、私の胸の奥が知っている。
 
 この夜が、私たち二人の関係を、確実に変えたのだ。