ユーイの鍛冶屋を後にした私の胸には、リリアという女の存在が影を落としていた。
 あと四日間、あの鍛冶屋に行けない。その間に、リリアがまた当たり前のようにユーイの元へ通う姿を想像すると、胸の奥がざらつくような不快感に襲われる。

 このままでは、あの女にユーイを奪われてしまうのではないかという、漠然とした不安が私を苛む。
 このままでは、私は完全に後れを取ってしまう。

 何に対する「遅れ」なのかは、私自身にもまだ明確ではなかった。
 しかし、リリアよりも遥か後方にいるような、得体の知れない不安と痛みが心を締め付ける。

◇◇◇◇

 翌朝、私は冒険者ギルドへと向かった。
 とにかく、目の前の依頼を早く終わらせ、ユーイの元へ戻りたかった。
 そんなことを思いながら依頼板を睨んでいると、背後から聞き慣れた声がした。

「おお、ロレッタ! ちょうど良かった。お前を探していたところだ」

 振り返ると、そこにいたのは冒険者ギルドマスターのバートだった。分厚い腕を組み、口元には不敵な笑みを浮かべている。嫌な予感がした。

「なんだ、バート。私に何か用か?」
「うむ。実はな、お前にしか頼めない、緊急の指名依頼だ」

 バートが提示した依頼内容は、私を絶句させるようなものだった。
 いや、私にとって討伐が不可能だというわけではない。
 この街から片道三日はかかる、国境近くの山脈に出没した魔獣の討伐。しかも、その魔獣は集団で行動し、高い知能を持つ厄介な種だという。

「……冗談だろう? なぜ、私がそんな遠方まで行かねばならん」

 私は思わず声を荒らげた。
 片道三日。往復で六日。
 討伐に要する時間を加えれば、一週間は確実に街を離れることになる。そんな猶予、今の私には一瞬たりともなかった。

「片道三日は遠方じゃないだろ。そもそも、このあたりにいるSランク冒険者は、お前だけだ。それに、この依頼を早急に解決しなければ、近隣の村々に多大な被害が出かねん。報酬も弾むぞ?」
「報酬なんてどうでもいい! 私は……私は今、この街を離れるわけにはいかないんだ!」
「なんだと? お前が依頼を断るなど、聞いたことがないぞ。まさか、何か理由があるのか?」

 バートの鋭い眼差しが、私の内心を見透かすように突き刺さる。
 理由など言えるはずがない。私が、鍛冶屋の若造に会いたい一心で、国境の危機を放置したなどと、口が裂けても言えない。

 「そ、それはだな、え、えっと……やかましい! 貴様には関係ないことだ!」

 結局、私はバートと口論になった。私の言葉に、周囲の冒険者や受付嬢が怯え、遠巻きに見ている。
 しかし、バートは一歩も引かない。

「ロレッタ。お前がSランクである以上、この街の平和を守る義務がある。それに、あの魔獣は並の冒険者では手に負えん。頼む、この依頼を受けてくれ」

 バートの真剣な顔に、私は奥歯を噛み締めた。この男が、ここまで頭を下げて頼むことなど、滅多にない。
 結局、私はため息と共に頷くしかなかった。

「……わかった。引き受けよう。だが、さっさと終わらせてくる。覚悟しておけ」

 バートはにやりと笑い、私の肩を力強く叩いた。

「さすがはロレッタだ! 期待しているぞ!」

 くそっ、と内心で悪態をつきながら、私はすぐに冒険者ギルドを後にした。

◇◇◇◇

 ユーイに会いたいという気持ちと、街を守る冒険者としての使命。
 相反する感情が胸の中で渦巻き、私は不機嫌さを隠そうともせず、西の山脈へと足を進めた。
 片道三日の道のりは、ひどく長く感じられた。
 普段なら気にも留めない道中の景色も、今はただの障害にしか思えない。
 頭の中では、ユーイが今頃、どんな顔で作業をしているのか、リリアがまた差し入れを持ってきているのではないか、そんなことばかりがグルグルと駆け巡っていた。

 しかし、いざ魔獣との戦闘が始まれば、私の意識は完全に切り替わる。
 私は「紅蓮の竜殺し」ロレッタだ。
 目の前の敵を仕留めることに、寸分の迷いも許されない。怒涛の勢いで襲い来る魔獣の群れを、私は瞬く間に薙ぎ払っていった。
 炎のように燃え盛る剣が、闇を切り裂き、次々と魔獣を葬り去る。三日分の鬱憤を晴らすかのように、私は剣を振るい続けた。

 討伐はあっけなく完了した。
 予想通り、並の冒険者では歯が立たない強敵だったが、私にとっては造作もないことだ。
 魔獣の群れを殲滅し、あたりに危険がないことを確認すると、私はすぐに引き返そうとした。その時、ふと、ある考えが脳裏をよぎった。

(そういえば、ユーイのやつ……何か、喜ぶものはないだろうか)

 リリアがユーイに差し入れをしていた光景が、鮮明に蘇る。
 あの時のユーイの嬉しそうな顔。私にも、彼をあんな風に喜ばせることができるだろうか?

 私は、近くにあった小さな村に立ち寄った。
 この村は、山脈に近いが故に、珍しい特産品が豊富にあると聞く。
 土産物屋の軒先を覗き込むと、色とりどりの品々が並んでいた。木彫りの人形、鮮やかな布製品、珍しい鉱石……。

 だが、どれを見ても、ユーイが喜ぶ姿が想像できない。
 彼はいつも地味な作業着を着て、鍛冶場に籠っている。彼がどんなものに興味を示すのか、私には全く分からなかった。

「おい、店主。これらは、何だ?」

 私は一番奥に飾られていた、やけに凝った装飾の施された金属製の置物を指差した。

「へい、お嬢さん。それはこの地の魔獣の骨を加工した置物でさあ。厄除けにもなると評判でね。旅の思い出にどうだい?」

 旅の思い出? 厄除け? そんなもの、ユーイがもらって喜ぶのか? 私は眉間に皺を寄せた。

「……もっと、こう、実用的なものはないのか。例えば、この辺りの良質な鉱石、鍛冶に使えるようなものはないか?」

 私の言葉に、店主は目を丸くした。

「ああ、鉱石ならいくつかあるぜ。特に、この辺りでは珍しい、質の良い鉄鉱石の原石なんかもあるが……。まさか、お嬢さんみたいな剣士さんが、そんなものに興味があるとはねえ」
「なっ……!? そ、それがどうした! 私はただ、個人的に鉱石に興味があるだけだ!」

 店主の言葉に、私の顔がカッと熱くなった。動揺を隠し、必死で平静を装う。怒鳴り散らしてやりたい衝動に駆られたが、必死で堪える。
 こんなところで騒ぎを起こせば、無駄に時間がかかるだけでなく、彼に渡すという目的が果たせなくなる。
 内心で「まさか、彼に渡そうとしていることがバレたのか」という焦りが募った。

「ははは。そりゃあ失敬。まあ、この原石は、見かけによらず純度が高くてな。それにしても、お嬢さんみたいな剣士さんが、ただの鉱石にこれほど食いつくとはねえ……。ま、腕の良い鍛冶職人なら、間違いなく喜ぶ代物だ」

 店主は、からかうような目をしながら、奥から小さな箱を取り出した。
 中には、不揃いな形をした石の塊がいくつか入っている。一見するとただの石だが、よく見ると、鈍い光を放つ金属の粒が混ざっている。

「……これか?」

 私は一つ手に取ってみた。ずっしりとした重みがある。ユーイがこれを見て、どんな顔をするだろう。あの真剣な瞳で、これを検分するのだろうか。そう思うと、少しだけ胸が高鳴るのを感じた。

 結局、私は最も美しい光沢を放つ鉄鉱石の原石を一つ購入しニヤニヤした店主から受け取った。
 手に持った原石のずっしりとした重みが、私の胸の奥で、またしてもわけのわからない熱を生み出している。

 戸惑いが心を渦巻いているが、なによりも、早くユーイに渡したい。
 そして、彼がどんな顔をするのか、見てみたい。

 その一心で、私は来た時よりも遙かに速い足取りで、キサラエレブの街へと引き返した。