それは、今年初めての夏日に、学校帰りに二人で寄った喫茶店でのこと。
 中間テストが終わり、少しだけ気持ちにも余裕ができた、そんな日だった。
 「友達の話なんだけど」
 ガムシロップを二つ分入れたアイスコーヒーは汗をかいていた。赤いラインの入ったストローがグラスの中でくるくる回る。
 「モテる人が気になっているんだって」
 青吾(せいご)の手元を眺めていた俺は、視線をあげた。二人の間で恋愛の話題が出るなんて、とても珍しいことだった。
 気温が高くなっても袖のボタンをきっちりと留め、ネクタイをしめてベストまで着ている青吾は、その見た目通り真面目で、清廉潔白で、純粋無垢だ。俺をのぞきこむ目も、やや青みを帯びて澄んでいる。
 「でさ、どうすれば自分のことを気にしてもらえるのかなって言っていて。(あきら)はモテるだろ。どうすればいいのか、教えてよ」
 アイスカフェオレを飲んでいた俺は、答えあぐねて青いラインの入ったストローから口を離せない。
 さて、なんて答えればいいんだろうね。
 俺が気にしている相手は、青吾だけなのに。

 ☆

 青吾と出会ったのは、中学一年生のときだった。
 但馬(たじま)青吾というクラスメートのことはもちろん知っていたけれど、真面目、というくらいの印象しかなかった。その頃は、自分を守るのに精一杯で、周りに目を向ける余裕がなかったから。
 小学生のときはよかった。
 小さな頃から一緒に過ごしていた同級生たちは、日本人の母よりもイギリス人の父に似ている俺を、見た目で特別扱いすることはなかった。かっこいいと言われたこともあったし、好きと言われたことも二回あったけれど、インドア派で大人しい俺よりも、同じクラスの足が速くて頭がいい佐藤くんのほうがずっとモテていた。授業で英語が始まったときには「話せる?」と聞かれたりもしたけれど、家でも英語なんて話さないから全然だよと答えれば、流暢な日本語でみんなの親と雑談する父の姿を知っている同級生たちはすぐに納得してくれた。
 つまり俺の日常は、わりと平凡で平和だった。それが中学校に入ったとたん、急にごたごたとし始めた。
 他の小学校から来た子たちは、俺を「ハーフ」として見てきた。背が高く、かっこよく、運動ができて、英語もペラペラという偶像を押し付けられた。
 そして、あっという間に失望された。
 『あの見た目で運動神経も別によくなくて英語も普通とか、逆にかっこ悪くない?』
 女の子たちが笑いながらそう話しているのを耳にしてしまったことがある。
 そのままの自分で過ごしていれば平均点をもらえていた俺は、そのままの自分で過ごしていると減点される世界線に知らぬ間に立たされていたのだ。
 そのうち、男子たちは俺をネタにするようになった。
 『日下部(くさかべ)、今からいう言葉、全部英語に訳して』
 『日下部ならスリーポイントシュートも楽勝だろ』
 できないと分かっていることを笑いながら言われるたび、こちらも笑って『うるさいな』と返す日々。
 いじめと言うには微妙なラインで、でも、心は少しずつ萎れていった。
 親には何も言わなかった。当時、妊娠中だった母親はいろいろなトラブルがあり入院していて、父親は仕事と家事と母の見舞いとで忙しかったからだ。愛情深い父のことだから、相談すれば親身に聞いて、慰め、励まし、一緒に解決方法を探ってくれるのは分かっていたが、余計な負担を少しでもかけることはしたくなかった。妹が生まれてからも、やはり新生児のお世話にてんてこまいな両親に、兄となった自分が弱音を吐くことはできなかった。
 そうして春が過ぎ夏が過ぎ秋が深まって、心がずいぶんと歪な形になった頃。青吾と俺は席替えで初めて前後の席になった。
 前に座る青吾の髪は、金髪も混ざる俺の茶色いくせ毛とは全然違って、真っ黒で真っすぐだった。こんな髪だったらいじられることもなかったのかな、と形のいい頭を俺は眺めた。
 席替えのあとすぐ、国語の小テストがあった。
 後ろから集めて、という先生の指示に従ってテストを前に回すと、青吾が後ろを振り向いた。
 『日下部くんって、字が綺麗だね』
 『……どうも』
 『大人みたいでかっこいいな』
 青吾はそれだけ言って前を向いた。こんなふうに純粋にかっこいいと言われたのは久しぶりで、萎んでいた心が少しだけ震えた。
 小さな事件が起こったのは、そのおよそ半月後。英語の授業で、二学期の期末テストを返されているときだった。
 一人ひとり名前を呼ばれ、俺の番になったとき『日下部は、英語に関してはほんと見掛け倒しだなぁ』と先生が笑った。それを聞いたクラスメートたちもクスクスと笑い、一人の男子が『その顔で日本人顔の俺らより英語できなかったらやばいっしょ』と大声で言った。
 顔が熱くなった。手の中にあるテストは八十九点。平均点よりは上のはずだった。それなのに、見た目のせいで期待外れだと思われる。俺だけ。こんな顔だから。
 いつものように笑顔を張り付けることもできず、俺はうつむいたまま席へと戻った。
 教室の中がしんとして、恥ずかしさと悔しさとそんな空気にしてしまったことへの気まずさが相まって俺は机に突っ伏した。
 『あ、じゃあ次――』
 先生が取り繕うように言ったとき、頭のすぐ近くで椅子ががたんと音をたてた。
 『先生は、日下部くんが何点をとれば見た目通りだと思ったんですか』
 青吾のよくとおる声が教室に響いた。
 『いや、別に、何点とかはないけど、まあ、もうちょっと点数がよくてもいいなとは思ったかな』
 『そのもうちょっといい点数が、何点なのか聞いてるんです』
 そろそろと顔をあげた俺の目の前で、青吾はクラス中の視線を受けながら真っすぐに立っていた。凛と。
 『うーん、まあ九十点あればいいんじゃないの』
 めんどくさそうに答える先生に、青吾はすぐに切り返した。
 『先生の理論でいくと、日本人顔の自分たちは、国語のテストで九十点とらないと見掛け倒しってことですね。今回、国語の平均は七十八点だったって先生が言ってたから、見掛け倒しの人間がかなりいるってことだ』
 青吾の言葉に、私も見掛け倒しだわ、俺もだし、私もそう、とみんながざわざわし始める。
 『そういうくだらないことを……』
 『先生が日下部くんに言ったことです。くだらないって思うなら先生がまず謝ってください』
 俺のために一歩も引かない構えを見せる青吾の背中は、キラキラとしていた。それはきっと、こぼすまいと堪えた涙に反射する蛍光灯の光のせいで、でも、俺にとっては、闇に沈んでいた部屋に差し込んだ夜明けの光のように見えた。俺の中にあった暗くくすぶっていた影は取り払われ、萎んでいた心は温められた。
 その日から俺の世界は青吾を中心として回り始めた。何かと気にかけてくれるようになった青吾の優しさに付けこんで距離を縮め続け、親友と言う立場を得た。同時に、俺と一緒にいることで青吾の価値が下がらないように勉強も運動も努力し続け、一つ、二つと自信を得て今の俺がいる。
 青吾の放つ光は、崩れかけていた俺の心と俺の世界を立て直してくれたのだ。

 だから、もしかしたらこうして俺に告白してくれる子は、俺ではなく青吾を好きになったと言ってもいいのかもしれない、なんて、告白されている最中だというのに考えてしまう。
 「それで、なんだか日下部(くさかべ)くんが気になるようになって――」
 というか、そんなことまで考えてしまうほど、目の前の子はいつどこで、どんなところを好きになったのかを延々と語ってくれている。見た目で惹かれたのではない、ということを合間合間に挟みながら。
 普通に可愛い子だと思う。でも、それだけ。道端に咲いているたんぽぽを可愛いと思うのと同じで、通り過ぎたら可愛いと思ったことすら忘れてしまう、そんな感じ。
 小学生の頃は女の子を好きになったこともあったんだけどな、と思う。
 太陽のような青吾を知った今、足元に咲く色とりどりの花には目がいかなくなってしまった。
 「なので、もし彼女がいないなら付き合ってくれませんか?」
 長い前置きが終わり、ようやく告白のクライマックスがやってきた。俺はいつものように困った笑顔を作ってみせる。
 「彼女はいないんですけど、好きな人がいるので」
 ごめんなさい、と言いかけた俺の言葉にかぶせるように、女の子が前のめりで口を開く。
 「あの、相手の人、年上の女性って本当ですか」
 「……ごめんなさい」
 肯定も否定もしていない。でも否定しないのは肯定だってみんなが受け取る。今、頭を下げて走り去った子も、きっとそう。
 そうしてまた、年上の女性に遊ばれている男だっていう話が溶けたアイスクリームみたいに広まって、蟻のように群がった人たちが持ち帰ってあちらこちらで美味しく噂する。
 でも、それで構わない。そうすれば、俺の心にいるのは誰なのか、必要以上に探られることもないから。
 教室に向かって歩き出す。ポケットからスマホを出して確認すると、クラスが違う青吾と過ごせる貴重な昼休みは、残り十分しかなかった。

 やや急ぎ足で青吾の教室にいくと、窓際でクラスメートの井沢と森と三人で机を挟み、和やかに話す姿が見えた。井沢と森は高校に入ってからの友達だ。出席番号順に並んだ席で、井沢、俺、青吾の順で横並びになったのがきっかけで話すようになり、そこに井沢と中学からの友達である森が加わって、なんとなく四人でつるむようになった。二年生になって、井沢と森と青吾は同じクラスで、俺だけが隣のクラスとなったが、変わらず四人で過ごしている。
 ただ、放課後はバレー部の井沢と森、そして帰宅部である青吾と俺はいつも別行動になるので、青吾を俺が独り占めである。
 俺が教室に入ると、森が気づいて軽く手をあげてきた。それに手を挙げ返し、教室の窓から入る光が照らす黒髪にできた天使の輪に手を当て「よ」と声をかけると、青吾が振り仰いだ。
 「遅かったね」
 「ちょっと先生につかまって」
 「そう」
 近くの席から椅子をガタガタと引き寄せて三人と同じテーブルに弁当を置くと、青吾も弁当を袋から取り出した。
 「あれ、食べてなかったの」
 「半分残しておいた。一人で食べるのってなんか寂しいだろ」
 当たり前のように言う青吾は、今日もかっこいいし優しいし可愛い。
 「俺はそんな気を遣う必要ないって言ったんだけどね」
 井沢が頭の後ろで手を組み、椅子を傾けてゆらゆらさせた。
 「だって、絶対先生じゃないじゃん。どうせ告白だろ」
 声量を下げることもなく能天気に言い放った井沢の言葉に、教室のあちらこちらから視線が集まるのを感じる。井沢はいいやつではあるが、こうして悪気なく余計なことを言ってくるのが玉に瑕である。
 黙ったままやり過ごすのって感じが悪いかな、と考えながら弁当箱の蓋を開ける俺の前で、青吾が井沢のことを真っすぐに見て口を開いた。
 「彬が先生につかまったって言うなら、それでいいだろ」
 「え、でも気になるじゃん」
 「野次馬禁止。彬が言わないなら、それは言いたくない理由があるってこと」
 青吾の正論に、森が「そのとおりすぎる」と笑い、井沢も「まあそうだけど」と椅子を戻す。同時にみんなの渦巻いた好奇心も、するっと解けていった。
 口に放り込んだ卵焼きと一緒に青吾の良さを改めて噛みしめながらも、ちょっと引っかかるものを感じる。
 これまで、告白されたことを青吾に伝えたことはない。帰りに待たせることになったとしても、友達に呼ばれて、とか、忘れ物しちゃって、とか言っていたし、女の子に目の前で呼び出されても、相談事があったんだって、と言っていた。
 いつも、それを素直に受け止めてくれる青吾の疎さも愛しく思っていたのだけれど、もしかしてこれまでも全部告白って分かっていながら、今言ったような理由で流してくれていたのだろうか。
 ということは、これまで話題に出たことはないけれど、もしかして、俺が年上の女性を、という噂話も知っていたりする?
 じっと青吾を見ると、おにぎりを頬張りながら、なに?とでも言いたげに見返してきた。

 ☆

 梅雨前の晴れた空の下、学校から解放されて家路につく。途中の自販機でそれぞれ炭酸を買い、いつも通り他愛もない話をして歩きながら、噂話を知っているかどうかを聞くタイミングを俺はうかがっていた。
 青吾に好きだと伝えるつもりはない。困らせるから。でも、だからといって、青吾以外の人を好きだと誤解されたくもない。他の人との恋路を悪気なく応援されたりしたら、笑顔のまま気絶してしまうかもしれない。
 理想は、誰かと恋愛するより青吾と過ごす方がずっと楽しい、というスタンスでそばに居続け、青吾にも、彬はそういう人なんだ、と受け入れてもらうこと。青吾という恒星の光の恩恵を受けながら決して交わることなく、一定の距離を保って周りを公転し続ける惑星のように。
 青吾が誰かと恋愛して俺から離れていく、という可能性はとりあえず無視。今のところ、恋愛しそうな気配なんてゼロだし、そのときが来たら考えればいい。
 ――ま、恋愛と無縁なのは、俺のせいもあるかもしれないけど
 メロンソーダが流し込まれていくたびに動く、白い喉をちらりと見る。
 青吾は決して派手な見た目ではないし生真面目な性格だからか、分かりやすくモテるわけではないけれど、その魅力に俺のように気づいてしまう人がたまに現れる。
 青吾のことばかり見ているから、自分と同じように青吾に視線を向ける女の子はすぐ分かる。でも、俺がちょっと優しくして笑いかければその子たちは青吾より俺を見るようになり、そのたびに、そんな程度の気持ちしか持たないやつに、青吾を奪われるわけにはいかないと、俺はますます青吾に対してのセキュリティを高めていって今に至る。
 本当は、青吾が俺以外と男子と仲良くしているのも、たとえ友情だとしても同じように牽制したい。でも、やりすぎると青吾への恋心がバレてしまうかもしれないし、青吾の交友関係を狭めるのはよくないと思うから、自他ともに認める親友である自分の立場が脅かされない限り我慢するつもりだ。できるだけ。
 当然、昨日青吾が話していた友達の存在も気にかかっている。学校の友達かと聞いたら、塾の友達と言っていた。昨日はそこまでで止めておいたけれど、徐々にどんな人なのか聞きださないといけないし、塾にも一度、青吾の親友である俺という存在を見せつけに行かなければいけないと思っている。
 いつ頃行こうかな、と考えていると「そういえばさ」と青吾が口を開いた。
 「昨日、早速友達に彬のアドバイス伝えたんだけど」
 「あ、あぁ、うん」
 まるで、俺の脳内を見ていたかのようなタイミングで友達の話が出てきて、少し動揺する。
 「ギャップを見せるといいんじゃないかって言ってただろ。でもギャップって難しいなって話になって。例えばどんな感じ?」
 「うーん、そうだなぁ……」
 当たり障りのないことを言ったツケが回ってきてしまった。適当に答えたのだから、すぐにいい回答が浮かぶこともなく「たとえば、ピアスを開けるとか?」と言ってみる。
 俺の言葉を聞いた青吾はびっくりした顔になって、自分の耳たぶを触った。
 「ピアス?」
 「たとえば、の話だって。あの、ほら、カテキョの古賀先生がさ、前に耳の上のほうにけっこうごつい輪っかのピアスつけてて驚いたことがあって。そういうのするんだって聞いたら、カテキョに来るときは親にも会うし、真面目な恰好で来るように気を付けてたのに外すの忘れたって言ってて。それ思い出しただけ」
 「そっか。確かに、あの先生がごついピアスってあんまり想像できないかも」
 「だろ」
 俺の家に家庭教師として来てもらっている古賀先生と青吾は、二度だけ会ったことがある。一度目は、俺の参考書を探しに古賀先生と一緒に本屋に行ったとき。青吾も本を買いにきていて、そのまま一緒に帰ることができたラッキーな日だった。二度目は、俺の部屋で一緒にテスト勉強していたとき。古賀先生と入れ替わりで帰ろうとする青吾を引き留めて、二人とも悩んでいた問題について教えてもらったことがある。律儀な青吾はその場で財布を出してお金を支払おうとして、慌てた古賀先生に断られていた。
 「でも一応、ピアスのことも伝えてみる。ほかになんかない?」
 「んー、青吾の友達がどんな人かも分からないし、相手の人もどんな人かわかんないからな。難しいよ」
 俺の返事に青吾は少し考えるように目を伏せた。
 「俺の友達は、まあなんていうか俺みたいな感じで、恋愛経験も全然ない人」
 青吾みたいな人間がほかにいるわけないだろ、と思わず反論したくなるが頷くにとどめる。青吾は進学コースに在籍している。きっと同じコースに通う真面目な友達なのだろう。
 「で、友達が好きな人は……優しいし、かっこいいし、頼りがいもあるけど、今、彼女はいないって。ただ、片思いしてる相手がいるっていう話もあるから難しいとは思ってるみたい」
 「そうかぁ」
 その友達が言うとおり難しいだろうな、と正直なところ思う。自分もいくら告白されたところで青吾以外に気持ちが向くことはない。
 でも、そんなことを言ってしまったら元も子もないから、俺はもっともらしく言葉を続ける。
 「まあ、片思いの人がいるっていっても、その人以外を恋人に選ぶ可能性だって十分あると思うけどな。報われない相手よりも、確実に報われる相手のほうがいいってこともあるし、付き合っているうちに本気で好きになることだってあるだろ」
 まあ、俺の場合はないけど、と心の中で続けたところでふと気づく。
 「ってか、相手の人に彼女がいないっていうことは、その友達って女の子?」
 「あ、あぁ、うん、そう。女の子だとまたアドバイスも変わる?」
 「いや……でも女の子だったら髪型とか変えてギャップを出せるかもね。その子、髪長い?」
 「肩下くらい、かな。いっつも一つに結んでるからちゃんとは分からないけど」
 「なら、髪を下すだけでも雰囲気変わるんじゃないかな」
 「なるほど。伝えてみる」
 真面目に頷く青吾を見ながら、黒い染みが胸の中に広がるのを感じる。友達だというから、てっきり男だと思っていた。女子だとしたら話は変わってくる。男女の友情が絶対にないとは言わないけれど、塾でしか会わないのに、恋愛相談をするほどの仲になるものだろうか。それよりは、恋愛相談をするふりをして青吾に近づこうとしているというほうが可能性は高い気がする。
 学外の人間関係に油断していた自分に胸の中で舌打ちする。塾に様子を見に行く日を早めなければいけない。
 「彬、どうした?」
 「え」
 「なんか険しい顔してるから」
 「あ、ほんと? ちょっと眩しいなって思って」
 「確かに天気いいもんな」
 空を見上げた青吾の顔の上で街路樹から漏れ出る光が踊るのを見つめながら、家庭教師が来なくて青吾の塾がある日となると最短で次の火曜か、と考える。でもなんの理由もなく行くと変に思われるかもしれないし、と思案していると、ふいにその視線が俺へと向けられた。
 「彬はどうなの?」
 「なにが?」
 「彬も年上の人にずっと片思いしてるんだろ。それでも、ほかの人に気持ちが向く可能性はあるの?」
 すっかり思考の外に追いやっていたことを、青吾のほうから正面切って問われて一瞬言葉に詰まる。
 「……いや、それ、誤解って言うか、ただの噂で」
 無垢な目でじっと見てくる青吾に言い訳をするように俺は早口で続けた。
 「高校入ってすぐくらいに、年下と年上のどっちがいいかって聞かれたことがあって、どちらかと言えば年上って答えたんだけど、それが年上の女の人に片思いしてるって改変されて広まってるっぽい」
 「じゃあ、好きな人がいるってのも誤解なんだ」
 「それは……」
 俺は、唾をのんだ。その好きな人を前に、どう答えるのが正解なのだろう。分からないけど、嘘はつきたくなかった。
 「それは、本当」
 少しだけ、声が掠れた。

 ☆

 週明けの月曜日。お昼ご飯を食べながら井沢が話し出した。
 「昨日、うちの妹に、中学生なのに彼氏がいたって分かってさぁ」
 「そういうの、家族の中でオープンに話すんだ」
 森が尋ねると、井沢が首を横に振った。
 「母ちゃんが、卵を買い忘れたとかで夕飯前にスーパーに向かったら、早紀が途中の公園で男と二人でいて、なんか言い争ってるから、変な奴に絡まれてると思って大声出して腕あげて走っていったんだって。そしたら彼氏だったって」
 「気まずすぎるな」
 森の言葉に、ほんとに、と隣で頷く。もちろん妹も気まずかっただろうけど、腕を振り上げてたお母さんはさらに気まずい気がする。腕を下ろすタイミングとか。
 「それな。んで帰ってきてから、早紀は彼氏にフラれたら空気が読めない母ちゃんのせいって逆切れして、母ちゃんが私服姿じゃ中学生かどうかなんて分かんないんだから仕方ないってまた怒ってって感じで、一部始終が俺にも伝わったってわけ」
 「それはそれは」
 「じゃあ、言い争ってたのも気のせいだったってこと?」
 「それがさ、なんか彼氏と同じ塾の女子から、デート中にも何回もメッセが来てたっぽくて。早紀が休みの日にこんなにメッセが来るなんてあやしいって怒って喧嘩してたらしい」
 「嫉妬しちゃったんだね」
 青吾がミートボールを箸でつまみながら共感するように言い、俺は嫉妬という言葉の響きに胸をざわつかせる。青吾も、誰かにそんな気持ちを抱いたことがあるんだろうか。
 この前、俺が好きな人がいると伝えたときは「そっか」と明るく言うだけで、嫉妬するような様子は微塵もなかったし、相手が誰なのか知りたそうな様子もなかったけれど。つまり俺の恋愛事情にはさほど興味がないということで、分かっていてもその事実を目の当たりにした俺は、夜ご飯をいつものようにお代わりする気にもなれず、母親に具合でも悪いのかと心配された。
 「で、その余波が俺のところにやってきて、彼氏の塾帰りを待ち伏せするのに付き合わされることになってさ。巻き込まれたくないけど、女の子一人で、じっと立ってたら変な男に声かけられるかもしれないから着いてけって親にまで言われて」
 「同情するわ」
 青吾に少しは俺の恋愛に関心を持ってほしかったなと、改めて静かに凹んでいた俺は、深く考えずにそう返す。それに対し、井沢が意味ありげな視線を向けてきた理由を、俺は夜にかかってきた電話で知ることになった。

 「早紀がさー、待ち伏せするとき、彬にも来てほしいって言ってんだよね。塾まで一緒に来てくんない?」
 井沢の妹の早紀ちゃんとは、部活が休みになるテスト期間に、一度だけ井沢の家で顔を合わせたことがある。井沢と同じく、人懐っこく天真爛漫な雰囲気の子だった。
 「なんで。俺、関係なさすぎるだろ」
 「もし、彼氏がその女の子と仲良く出てきても、彬が横にいたら強気でいられるからって」
 「別に俺がいても何も変わんないだろ」
 「いやいや、イケメンが横にいるだけで戦闘力が百倍になるらしいよ」
 「戦うつもりならますます断りたいけど」
 「気持ちの問題ってことな。頼むよー、あいつ言い出したら聞かないからさ」
 文句を言いつつも、井沢なりに妹のことを大事に思っているんだろうと言うことは伝わってくる。自分にも歳の離れた可愛い妹がいるから、頼まれたら断れないその気持ちは分かる。
 「ね、同情するって昼に言ってたじゃん。頼むよー」
 「ってか、なんでわざわざ電話で言うん。昼に話せばよかっただろ」
 「だって、青吾が絶対、彬は関係ないから巻き込むなって正論で理詰めしてくるだろ。正しいから俺、何も言えなくなるもん」
 「そこが青吾の良さでもあるだろ」
 「分かってるよ。だから、逆に青吾を巻き込まないように電話してんの。しかも早紀の彼氏が通ってる塾ってさ、青吾と同じとこなんだよね。それなら俺が彬の代わりに、とか言い出しそうじゃん。それに対して、イケメンがいいから、とも言えないし。いや、青吾がイケメンじゃないとかそういうことではなく、彬が規格外のイケメンってことね」
 「ふーん……じゃあ、まあいいよ」
 「迷惑なのは分かってるけど――えっ、マジ!? いいの!?」
 さらに説得しようとしていたらしい井沢が、素っ頓狂な声を出す。
 「いいよ。ただ俺、家庭教師に来てもらってるから、いつでもってわけにはいかない。その彼氏が塾に行く曜日教えて」
 「あ、今は水金で行ってるらしい」
 「なら、金曜で。今週?」
 「ちょっと待って、聞いてみる」
 電話の向こうから井沢が話す声が漏れ聞こえる。早紀ちゃんがやった!と大声を出すのも聞こえた。 
 俺も、やった、と胸の中で小さく呟く。行き先が青吾の塾だなんて渡りに船である。そして金曜日を指定したのは、青吾の塾の曜日が火金だから。青吾に見つかっても堂々と理由を言えるし、お人好しだなぁと呆れられるかもしれないけど不審には思われないし、パーフェクト。
 「彬? 金曜日でオッケーだって。お礼にさ、夕飯にバーガーおごるわ」
 「マジ? じゃあ遠慮なく」
 俺は電話を切ると、家族用のカレンダーに金曜の夕飯はいらないと書くため一階へと降りる。
 「にいに、きた!」
 テレビの前で踊っていたらしい妹の梢が両手を挙げたまま振り返る。
 「みて、じょうず?」
 ポーズをとる梢に「上手上手」と拍手をすると嬉しそうに走り寄ってきて「おんぶー」とせがまれる。
 しゃがんで梢を背中に載せ、キッチンで夕飯の準備をしている母にカウンター越しに声をかける。
 「母さん、金曜日、井沢と夕飯食べてくるからいらない。カレンダーにも書いておいたから」
 「はいはーい。あんまり遅くなりすぎないようにね」
 「たぶん、青吾の塾の帰りを待って一緒に帰ってくるから十時くらいかな。帰る前に連絡する」
 「青吾くんも大変ね。遅くまで」
 「だね」
 「にいに、ぐるぐるして!」
 「よっしゃ」
 梢をおんぶしたまま緩く回ると、キャッキャッという笑い声が響いた。
 「もういっかーい!」
 「目が回るから無理―」
 「にいに、おねがーい! I love you to the moon and back!」
 「そう言えばなんでも言うこと聞いてもらえると思うなよ」
 と言いつつも、俺はもう一回くるくると回る。
 ――月に行って帰ってくるくらい愛してるよ。
 イギリス人の父が、口癖のように俺たちに、そして母に伝えるフレーズ。
 俺も小さい頃は両親相手によく言ってたな、と思う。大きくなったら好きな人にも伝えたいなんて当たり前のように思っていたけれど、そんな機会は、きっとこの先ないのだろう。

 ☆

 霧雨が降っている中、井沢と早紀ちゃんと俺となぜか森も一緒に塾の前へと移動する。
 妹の彼氏の様子を塾まで見にいくと森に話したら、面白そうだから一緒に行くと言ってついてきたのだそうだ。俺としても、井沢兄妹と三人でいるよりは気が楽なので有難い。
 早紀ちゃんは傘をさしていたが、男三人は、傘をさすほどでもないだろうと、とりあえずパーカーのフードを被っただけである。
 中学生の授業が終わるのは、高校生より三十分早いらしい。終わるまであとちょっとか、とスマホで確認したあと、雨で少しぼやけるビルの窓の灯りを見上げる。あの中のどこか一つの教室で、青吾が真剣に授業を受けているのだと思うと、蛍光灯の光すらもトキメキの材料となる。今度どこの教室なのか教えてもらおうと眺めていると、早紀ちゃんが隣で真剣な声で話し出す。
 「最後の確認なんですけど、私の彼氏が一人で出てきたら、私が一人で行きます。そのあと、揉めるようだったら、右手をあげるので彬くんが来てください」
 「はい」
 「今更だけど俺でもよくね?」
 井沢の言葉に、早紀ちゃんが「だめ」と言う。
 「家族がでしゃばると、重いじゃん。ただでさえ、この前、お母さんが鬼みたいな顔で走ってきたのでだいぶ引かれてんのに」
 「じゃあそもそも俺に頼んでくるなよ」
 井沢のもっともな言葉は軽く無視される。
 「それで、もし彼氏が女の子と二人で出てきたら、最初から彬くんと一緒に行きます」
 「あ、はい」
 「兄貴の友達っていうのも十分に引かれるだろうが」
 「そこは言わなければわかんないし」
 「なら俺のことも兄貴って言わなきゃわかんないだろ」
 「いや、それは分かる」
 森がツッコみ、俺も頷く。井沢と早紀ちゃんは、眉と目が垂れているところがあまりにも似すぎているのだ。
 早紀ちゃんが心の底から嫌そうな顔をしたところで、塾のドアが開き何人か出てきた。すぐに傘をさす人、傘をささずに歩き出す人、手を出して雨の強さを確認する人、さまざまだ。
 彼氏の顔は分からないので、横に立つ早紀ちゃんの様子をうかがう。
 しかし、五分待っても十分待っても、お目当ての彼氏は出てこないようで、早紀ちゃんの唇がイラつきのせいか尖り始める。雨も少しずつ強まってきて、バッグの中の折り畳み傘を出そうかどうしようか迷いはじめたところで、井沢が大欠伸をしながら早紀ちゃんに話しかける。
 「ほう、やふみなんやないろ?」
 なんて?と俺が尋ねる前に、早紀ちゃんが「今日は休みじゃないはず。休みなら私に嘘ついてることになるからそれはそれで問題」と答える。
 さすが妹、よく聞き取れるなと感心していると、突然俺のパーカーの裾がぎゅっと握られた。
 「いた」
 早紀ちゃんの視線を追うと、塾から体格のいい男子とショートカットの女子が並んで出てくるところだった。男子が開いた傘にぴょんっと跳ねるように入った女子が何かを言って、二人で笑う。
 見るからに親密そうな雰囲気だと思った瞬間、腹の部分がめくれるくらいの勢いでパーカーが引っ張られ、俺は引きずられるようにしてついていく。
 ずんずんと近づいていくる早紀ちゃんに先に気づいたのは女の子のほうで、しかしその視線はすぐに俺へと向けられる。あえて目をそらし、彼氏の方を見ると、口をぽかんと開けて俺と早紀ちゃんを交互に見ていた。
 「仲いいんだね!」
 早紀ちゃんの不自然なほど明るい声が響く。駅にほど近いこのあたりは人通りも多い。視線がちらちらと向けられるのを感じて、俺はパーカーのフードをさらに深くかぶる。
 「ね、この前の日曜日さ、デート中なのに空気読まないで何回もメッセ送ってきたの、この人?」
 パーカーの裾が早紀ちゃんの手によって、さらにぎゅうっと握りこまれていく。大して濡れていないパーカーから、水が絞り出されてしまいそうだ。これは怒りによるものか、それとも不安によるものか。それとも両方の感情の相乗効果か。
 「空気読まないって、だって、栗田はそんな俺がデートしてるなんて知らなかったんだから仕方ないだろ。ってか、その、その人誰だよ」
 「彬くん。お兄ちゃんみたいな人。一人じゃ心細いからついてきてもらった」
 「はぁ?」
 彼氏が眉間に皺をよせ、俺も、いつの間にそんな関係性に……?と疑問顔になりそうなところをぐっとこらえる。
 「私たちのことより、そっちの二人の関係について聞きたいんだけど」
 「だから友達だってば! この前も言ったじゃん」
 早紀ちゃんの彼氏が苛立ったように、しかし躊躇なく答えた瞬間、栗田さんの顔が三ミリだけ強張って、早紀ちゃんの手が三ミリだけ緩んだ。
 「友達って言ったって、私たちだって最初は友達だったところから付き合ったんだから、ならいいか、とはならないんだけど」
 「友達にもいろいろあるんだよ。栗田は友達以上にならない友達。男友達と一緒なんだって!」
 さらに強くなっていく雨の中、早紀ちゃんしか見ていない彼は、周囲の人など気にも留めず泥水を跳ね上げて走っていく車のようだった。さらに顔を強張らせた栗田さんの心には間違いなく泥がかかったと思われたし、巻き添えをくらった俺の心にもびしゃりと泥がかかった。
 分かっている。友達から恋人になる人もいれば、どう転がっても友達止まりで終わる人もいることくらい。しかもその認識がお互い同じとも限らない。俺と青吾のように。彼と栗田さんのように。友達の定義と言うものは、とても曖昧で、ときに無慈悲だ。
 「すみません、私もそんなつもり全然ないんで、帰ってもいいですか」
 栗田さんが固い口調で割り込む。
 「もう休みの日にも連絡しないんで」
 何か言いたげな早紀ちゃんからさっと視線を反らし、傘から出て駅の方へ歩き出す栗田さんに「傘なくて大丈夫?」と早紀ちゃんの彼氏が声をかける。
 「ある!」
 大声で答えた栗田さんは歩きながらバッグを探って折り畳み傘を取り出した。通りの上にパッと花開いたのはチューインガムのようなショッキングピンク。
 「こんな派手な傘、使いたくなかっただけだから!」
 栗田さんは、傘から少しだけ顔をのぞかせてそう言い残すと、速足で去っていった。表情までは見えなかった。
 「傘なんてそんな誰も見てないと思うけどなぁ」
 よく分かんねー、と言った彼氏を、早紀ちゃんが「鈍感すぎ」と睨みつける。
 まあとりあえず、鈍感な彼氏ではあるけれど、早紀ちゃん一筋なのはわかったし、これでお役御免か、と思っていた俺の目が、塾から出てくる人たちの中に見慣れた姿を捉えた。
 あ、と思った瞬間、その青吾の肩に誰かが手を置いて引き留めた。
 青吾が振り向いて話しているのは、おそらく塾の先生であろうジャケットを着た若い男だった。通りすがる女子生徒に手を振られ、笑顔で手を振り返す男は、一般的に見てイケメンと呼ばれる類だろう。自分とはタイプが違う、剣道でもやっていそうな爽やかさ。
 そして人が周りにいなくなったタイミングで、男が少し身をかがめて青吾に何かを言う。
 ちょっと近すぎないかと思った途端、青吾がぱっと右耳に手をやった。そこに、何かついているのが見えて、雨でけぶる中、俺は目をこらす。
 ――ピアス……?
 あの真面目を絵に描いたような青吾が?
 「ごめん、もう大丈夫だよね。俺行くわ」
 怒りはなくなったようではあるが、まだ俺のパーカーの裾をつかんだまま、彼氏と話している早紀ちゃんに声をかける。
 「あ、ありがとね、彬くん」
 「早紀ちゃんの彼氏も、ごめんね。俺、もし心変わりされていたときに虚勢を張るための道具として早紀ちゃんに連れて来られただけだから」
 早口で言い訳だけして、ようやく解放されたパーカーの裾を直す余裕もなく俺は青吾のところに走り寄る。
 「青吾」
 俺に声をかけられた青吾は、目を見開いて振り返った。その顔が赤らんでいるのを見て、また不審に思う気持ちが増す。
 「あれ、彬、どうしたの」
 「いや、ちょっと……」
 近くで見ると、やはり青吾の右耳にはフープ型のピアスがついていた。シンプルなシルバーの少し幅広のピアス。その控えめな輝きは青吾には似合っていたけれど、でも、なんで。
 戸惑っている俺を「すみません、友達です」と青吾が先生に紹介する。
 「ども」
 ぶっきらぼうに挨拶をすると、「こんにちは」と笑顔で挨拶を返された。
 「ま、知っておいて損はないから。でも、ピアスが似合ってるのは本当。いいと思う」
 先生に再び話しかけられた青吾の顔の赤みが増した。
 こんな顔、初めて見る。なんで。似合ってるって言われただけで。
 「やほー」
 そこに能天気な声がかかった。青吾と一緒に振り向くと、井沢と森が雨の中駆け寄ってくる。
 「ようやく早紀たちが帰ったからさー。マジ目立たないようにパーカーかぶってじっとしてたらめっちゃ濡れたわ。あ、ども、青吾の友達でーす」
 井沢が先生にぺこっと頭を下げ、先生がまた律儀に「こんにちは」と返す。
 「じゃあ、但馬、また次の授業で」
 「はい、有難うございました」
 ひらっと手を振って戻っていく後姿にきっちりと頭を下げた青吾が、改めて俺たちを見まわす。
 「で、なんでみんなこんなとこにいんの?」
 「いや、実は俺の妹の彼氏がここの塾にいてさ。浮気疑惑? みたいなので、駆り出されてた。まあ、駆り出されてたのは彬だけで、森は勝手についてきたんだけど」
 「そうだったんだ」
 「あれ。青吾がピアスしてる。もしかして穴開いてんの?」
 森が首をかしげて青吾の右耳を覗き込む。
 「あ、いや、違う、これ、あの……挟むだけのやつで」
 「へぇ、そうなんだ。なんか意外だけどいいじゃん」
 「そうかな」
 「ギャップ萌えってやつか」
 「萌えってことはないと思うけど……」
 森と井沢に褒められてまた少し赤くなった青吾が、手を伸ばしてそのフープをとり、ポケットに入れた。
 「あれ、取っちゃうの?」
 「まだ付け慣れてなくて、なんか雨の日に落としたら探すの大変そうだし」
 「あー、たしかに」
 三人の会話を黙って聞きながら、俺はちょっと前に青吾と交わした会話を思い出していた。
 モテる人に気にしてもらうためにはギャップを見せるといいのではないかと言ったのは俺で、ピアスという例えを出したのも、俺だった。
 なんだか急に雨が染みたパーカーが冷たく、重くなったように感じる。
 なあ、青吾。
 塾にピアスをしてきて、今、先生がいなくなった途端それを外したことに、なんか意味ってある?

 そもそも、青吾が話していた友達の話って、本当に友達の話なのかどうか。
 家に帰った俺は、鳥型のクッションを抱えベッドに寝転がり、ぐるぐると考えていた。
 今、考えられる可能性としては三つ。
 一つ目は、青吾の説明通り、塾の友達が俺らに関係ない人を好きだというだけのパターン。
 二つ目は、考えたくないが、塾の友達が青吾のことを好きで、相談と言う体で青吾に近づいているパターン。 
 そして、三つ目。まさかとは思うが、友達の話と言いながら青吾が自分の話をしているパターンがあるのかもしれない。自分の気持ちを知られないように友達の話という体で相談したりする場面、漫画でも何回も見たことある。
 ――その場合、相手は……
 心の中で続きを呟くのを止めて、俺はクッションをぎゅうっと抱きしめる。
 そんなわけないって、そう思いたい。
 これまで、青吾からは好きな人の話どころか、クラスの誰が可愛いとか、そういう話すら聞いたことがない。井沢や森が話題を出しても、青吾も俺も「よく分からない」「興味ない」で終わらせるから、最近は二人も恋愛トークのようなことは、あまりしてこなくなったしなおさらだ。
 自分はともかくとして、青吾は本当にまだ恋愛に興味がないんだろうし、俺が外見で判断されて傷ついたことを知っているから、人の見た目をあれこれ言うのはよくない、と考えているのだろうと思っていたのだけれど。
 でも、実際には、学校にいる人たちに興味がなく、好きな人も大っぴらに言えるような相手じゃなかっただけなのだろうか。それこそ、塾の先生で、さらに同性の人、とか。
 確かにモテそうな人だった、と短めの黒髪が似合っていた先生を思い出す。青吾に庇われるような情けない自分とは全然違う、頼りがいがありそうな大人の男の人。そういや、友達の好きな人も頼りがいがあるって言ってた気がする。
 そんな人に、ちょっと優しい言葉をかけられただけで、赤くなっていた青吾の可愛さも思い出されて、胸が苦しくなる。あんな顔、見たことなかった。これから先も俺以外には見せないでほしい。そんなこと思ったって、どうしようもないけど。
 もちろん、青吾が話していたのは本当に友達の話だっていう可能性もまだあるけれど、考えれば考えるほど、三つ目の可能性が高いような気がしてきて、ため息をつきながらベッドの上で起き上がる。
 カーテンの隙間から見える窓の外はまだ雨が降っていて、真っ暗だ。
 今頃、青吾は何を考えているのだろう。あの先生との会話を思い返したりしているのだろうか。少しは突然現れた俺のことを考えてくれたりするかも、なんて。
 ――よく考えたら、本当に青吾があの先生のことが好きなら、同性でも可能性はあるってことだよな
 そう思うのと同時に、『友達以上にならない友達』というフレーズが耳の奥で響き、俺はクッションを再び抱きかかえて顔をうずめる。そう。もうずっと片思いをしているけれど、友達以上になれそうな気配なんて一度も感じたことはない。
 早紀ちゃんの彼氏にかけられた泥は思ったよりもしっかり心に染み込んでいた。きっと白いスニーカーに染み込んだ泥と同じように、いくら取り除こうと頑張っても完全には無理なのだろう。これからも、青吾の態度や言葉にほんの少しでも期待を持つたび、この言葉がよぎって友達という立場の自分を自覚するのかと思うと、つらかった。
 誰かに話したら少しは楽になるのだろうか、とふと思う。でも、井沢や森に話すとしたら青吾抜きでは不審がられる気がするし、青吾のことだとバレないように話す自信もない。
 ――古賀(こが)先生に話してみようかな
 青吾が好きかもしれない先生と同じように高校生を教えている立場だし、なにか違う視点でアドバイスがもらえるかもしれないと、俺は再びゆっくりとベッドに倒れ込んだ。眠たくはなかったけれど、起きている元気も、もうなかった。

 ☆

 「えーっとさ、一応確認するけど」
 古賀先生は腕を組み、首を傾げた。
 「俺が、彬に好意を持ってるんじゃないかって疑ってるってこと?」
 「それはないです」
 「え、もしかして俺に惚れちゃった……?」
 「なんで?」
 「いや、さっきの聞き方だとどう考えてもそうなるだろうが。もう一回言ってみ」
 言われて、自分がなんと聞いたかを改めて思い返す。
 「だから、こうやって高校生を教えてるうちに、恋愛対象として意識することあるんですかって――」
 「この場面には彬しかいないんだから、必然的にその問いに出てくる高校生は彬ってことになるだろ」
 「現代文じゃないから」
 とりあえずツッコんだあと「そうじゃなくて」と俺は続ける。
 「そういう可能性についてどう思うかっていうか、家庭教師だけじゃなくて塾の先生とか。そういうの聞いたことないかなって思って」
 「まあ、聞いたことないこともないけど、あんまないと思うな。生徒は生徒として見てる人がほとんどだと思うよ」
 「でも生徒を好きになる人もいるってことですよね」
 「まあ、そこは人間だし。聞いたことあるパターンだと生徒側から好きになられて意識するってことが――どうした」
 思わずがっくりとしてしまった俺の頭を古賀先生がペンのうしろで軽くつつく。
 「いや、やっぱ好きになられたら、そうなることもあるよなって……」
 自分の言葉にあんな可愛い反応されたら、同性の生徒だって気になり始めるかもしれない。青吾の赤くなった顔を思い出して小さくため息をつくと「どうした?」と再度聞かれる。
 「まさかと思うけど、恋の悩み?」
 「悩みって言うか、ただ聞いてほしいっていう感じなんですけど」
 「おー、もちろんもちろん! まあ、どう見ても俺より彬のほうが恋愛偏差値は上だろうからアドバイスとかはできなさそうだけど」
 冗談っぽく言ってコーヒーに手を伸ばす先生に、俺は首を横に振る。
 「いや、絶対先生のほうが上です。だって先生、彼女いるじゃないですか。俺は付き合ったこととかないんで」
 「え、そうなの!?」
 俺の顔を、古賀先生がまじまじと見た。
 「告白されたりとかは」
 「それはありますけど」
 「そういう子と付き合わないの」
 「いや、俺、好きな人いるし。ほかの人とは付き合わないですよ」
 俺の返事に、古賀先生はカップを持っていない方の手で目を覆って天を仰いだ。
 「ほんと、今日の今日まで君を誤解していたことを申し訳なく思う」
 「なんだと思ってたんですか、俺のこと」
 「女をとっかえひっかえしている陽キャ、というのは嘘だけど、まあこれだけスペック高いんだから普通に彼女の一人や二人はいると思ってた」
 「二人いるのは普通じゃないですけどね」
 「真面目か。じゃあ俺もちょっと気合入れて話聞くわ」
 「さっきまで気合入れるつもりじゃなかったってこと?」
 「どうせモテ男の悩みに見せかけた自慢話だろって思ってたからさ」
 笑った古賀先生はコーヒーをもう一口飲んだあと、俺に改めて向き合って「よし、どうぞ」と言った。

 家庭教師に来てもらうようになったのは、高校に入ってから。青吾が中学生の頃から目指している大学に一緒に行きたいという一心で、親に頼み込んだ。青吾のお父さんが昔通っていて、青吾のお兄さんが現在在籍しているその大学は、自分にとって独学で目指せるようなレベルではなかったからだ。
 青吾と同じ塾に入る、という選択肢もあったけれど、中学に入ったあとのごたごたによるトラウマで、高校に入るだけでも若干気が重かった俺にとって、また物珍し気に見られるであろう新しい集団に入るのは、できるだけ避けたいものだった。あと単純に、青吾と一緒だと勉強に身が入らない自信があったというのもある。
 そんな俺の希望を受けて、父が知り合いの伝手で探してきてくれた大学生の古賀先生は、青吾が第一志望としている大学に在学している。それを知った俺は勝手に運命を感じ、何度目かの家庭教師の日に、古賀先生と同じ大学に絶対入りたいから頑張りたいと伝えた。ただ、今の段階では無理なのは分かっているから親には言わないでほしいと言うと、先生はご両親をびっくりさせようと笑って答えてくれた。
 古賀先生の指導は分かりやすく的確で、青吾には及ばないものの上位の成績をキープできるようになったし、勉強の合間にはちょっとした相談にのってもらったり他愛もない話をしたりして、今となっては信頼できる兄貴分のような存在となっている。
 ちなみに妹の梢も懐いていて、最初の頃は部屋によく乱入してきていたが、それを阻止するため古賀先生が来ている間に母さんに習い事に連れて行かれている。つまり他の人に聞かれる心配がないので、そういう意味でも古賀先生は絶好の相談相手とも言えた。
 好きな子が男だというところだけは隠し、塾の友達の話として恋愛相談を受けたこと、用事があって塾の近くいったとき、自分がアドバイスをしたピアスでのギャップをその子が実践しているのを見てしまったこと、塾の講師にピアスが似合うと言われて赤くなっていたことを順に説明する間、先生は黙って頷きながら聞いていた。
 「塾の友達の好きな人っていうのも、その講師の人に当てはまってて。もしかして、友達の話って言いながら自分の話だったのかなって」
 「まあ、そうなってくると友達の話じゃなくて、その子の話って考えた方が自然かもな」
 「ですよね……」
 「ただ、彬が言ったことを実践してるってことはさ。実は彬を好きって可能性もあるんじゃないの」
 「それなら俺の前でピアスをつけない意味が分かんなくないですか?」
 「まずは彬のいない塾でつける練習をしてるとか」
 「ピアスつけるのに練習もなんもない気がするんですけど」
 「ピアスをつけていく気持ちの練習っていうかさ。っていうか、告白しちゃえばいいんじゃないの? 彬に好きって言われたら大抵の女の子はOKすると思うけどな」
 「うーん、他に好きな人がいたら、絶対断るタイプなんで……」
 そんな話をしたことがないから分からないけど、絶対そうだろうと思う。まあいいか、という気持ちで誰かと付き合う青吾なんて想像できない。
 「それに、俺も告白する気とかなくて。けっこう長いつきあいだから、関係性を壊すくらいなら今のままがいいって言うか」
 「いつから好きなの」
 「中二くらいからですね」
 「中二!? 三年も片思いしてんの!?」
 純愛すぎる、と古賀先生が再び天を仰ぐ。
 「ってか、彬がそこまで好きになる子ってどんな
 子よ。すげー美人だったりすんの?」
 「俺から見たらもちろん可愛いとは思うけど、一般的にはどうなんだろ。そんなモテるタイプではないっぽいですね。制服とかきっちり着て、真面目そのものって感じ」
 「へー。そういう感じか。中身も真面目なの?」
 「めっちゃ真面目です。あと、なんていうのか、すごい真っすぐな性格。素直で、正義感が強くて、優しい。ちょっと天然なところもあるけど、頭もいいし、努力家」
 俺が羅列する青吾のいいところを聞いて、古賀先生はニヤニヤした。
 「そういうところを好きになったのかぁ」
 「まあ……そう」
 確かにきっかけはそこだった。弱り切っていた俺を正論で守り、立ち直らせてくれたあの日から、俺の世界の中心は青吾だ。
 だけど最初に青吾に向けていた気持ちは、好きは好きでも、崇拝とか憧れとか、そういう類のものだった。それが、仲良くなっていくうちに、真面目一辺倒な青吾が見せるようになった無防備な笑顔だとか、思わぬ弱音だとか、俺を見つけると当たり前のように隣にくる姿だとかに、次第にその感情はゆっくりと変化していった。
 恋愛感情を自覚したのは、中二になってクラスの女子に告白されたとき。断ったら、好きな人がいるのかと聞かれて、その瞬間、俺の脳裏に浮かんだのが青吾だった。特に驚きはなく、俺はすんなりとその事実を受け入れた。青吾以上に素晴らしい人なんていないのだから、当然だろうとも思った。
 「で、彬としてはこれからどうしたいの?」
 「いや、だからさっきも言ったけど、告白する気はないし、別にどうしたいとか、そういうのはないです」
 「付き合いたいとかは?」
 「そこまで大それたことは考えたこともないというか……」
 本当に、ただ一緒にいられればいいと、ずっと思ってきたのだ。付き合うなんて、考えたことはないというか、考えてはいけない、くらいに思っていた。
 「同級生と付き合いたいって、全然大それたことじゃないと思うけど?」
 「いや、でも、ほんと、俺にとっては大それたことなんで」
 「なんでその顔面でそんな謙虚になれるのか、意味が分かんねーな」
 苦笑した古賀先生が「まあ、とりあえず塾の先生とその子がどうこうなるってことはないと、俺は思うよ」と言う。
 「ですかね」
 「駅前の塾だろ。あそこけっこう大手だし、そのへんかなり厳しいと思う。その子もピアスしてるだけで別に分かりやすいアプローチしてるわけでもなさそうだし、しかも目立つような美人でもないのであれば、まずないよ」
 「でも、その先生に褒められたときの反応とかすごい可愛かったし……」
 「おそらくそれ、惚れた欲目」
 納得はいかないが、絶対そうでないとも言えない。
 「あとさ、さっきから告白する気はないとか付き合いたいとは思ってないとか言ってるけど、その子の好きな相手を気にして分かりやすく落ち込んでる時点で、それは嘘だろって思うな」
 「……」
 「今回のその子の恋愛がうまくいかなかったとしてもさ、彬がそこまで好きになるくらいの子なんだから、誰かと両想いになるなんて十分あり得るだろうし、そうなったとき後悔しないの?」
 「でも、さっきも言ったけど、今の関係性を壊したくないんで。もしそばにいられなくなったら、俺、生ける屍になっちゃいます。きっと」
 眉根を寄せ、できるだけ悲壮感を伝えようとするが、古賀先生はふっと笑った。
 「その子に好きな人ができたかもっていう可能性だけで、そんだけ動揺してしてるんだから、その子に恋人なんてできたあかつきには、どちらにしろ生ける屍になるんじゃないの?」
 「それは、そうかもしれないですけど……」
 確かに、これまで青吾が恋愛しそうな気配がまったくなかったから、綺麗事だけ言えていたのかもしれない。そばにいられればいいなんて、青吾の恋愛を見届ける勇気もないくせに。でも。
 「どうせ生ける屍になるなら、気持ちを伝えた方がいいと思うけどな、俺は」
 「それでも告白は――無理です」
 断られるのが怖いだけじゃない。青吾にとって自分が親友だという自覚があるから、青吾にとって数少ない気を許している相手だっていう自覚があるから、俺の身勝手な気持ちのせいで、青吾の居場所を一つ奪うことになることへのためらいもある。親友にそういう目で見られていたという事実が、青吾に精神的な負担をかけてしまうのではという心配もある。俺の気持ちに応えられないことで、青吾が罪悪感を抱くなんてこともさせたくない。それくらいなら、親友として隣で安心して笑っていてほしい。
 「その人に告白して、悩ませるくらいなら、自分が生ける屍になったほうが、マシなんで」
 俺が続けた言葉に、古賀先生は少し首を傾げた。
 なんでそんなに頑ななのか、と思われているのかもしれないけど、相手が男で親友だと伝えることはできない。古賀先生と青吾は会ったことがあるから、男だと知ったら真っ先に思い浮かべられそうだし、俺が青吾を好きなのはともかくとして、青吾が塾の男の先生を好きかもしれないなんて知られるようなことだけは絶対駄目だ。
 これ以上余計なことは言わないように、と口をつぐんだ俺を首を傾げたまましばらく見ていた古賀先生は「それなら」と口を開いた。
 「言葉で伝えるんじゃなくて、態度で伝えて相手に意識してもらえるようにするとかは? それならどう?」
 「態度っていうと」
 「相手にも分かるくらい特別扱いするとかさ。あれこれ誘って一緒にいる時間を増やすとか」
 「それはけっこうしてるかもしんないです」
 「それなら、相手の子もさすがに彬に好かれてることには気づいてるんじゃないの」
 「うーん……なんていうか、友だち、っていう先入観が向こうにあるから――」
 十分に特別扱いをしているし、一緒にいる時間も、すでにできるだけ取っている。
 でも俺は、「友達以上にならない友達」だから。青吾からそれらを意識されることは一生ない。
 俺が再び黙ったのを見た古賀先生が「あとは」と続けた。
 「相手の子が恋愛経験豊富なら、逆にちょっと距離をおいたりして駆け引きするのもありだけど――聞いてるとそうでないみたいだし、あえて不安にさせるようなことはしないほうがいいだろうな。根本的なところで信用してもらえなくなるし」
 「相手の子は全然恋愛経験ないって言ってるし、俺も駆け引きとか全然わかんないからそもそもできないですね」
 「じゃあそこは大丈夫だな。うーん、その子、恋愛とか相手の気持ちに疎い感じなのかもね。経験がない分」
 「そうかも」
 「しかも彬相手だもんな。自分を好きだなんて想像できないのも分かる気はする」
 先生が言っている意味とは違うけど、それはそのとおりだと思う。親友の男に好かれているなんて想像できないのだろう。
 古賀先生は、手元のコーヒーを飲んでからまた話し出した。
 「となると、普段とは違うことをして意識させるとかかな。例えばたまたま通りかかったふりをして塾に迎えにいってみるとかさ。そうすれば、うまくいけばその塾の先生にも彬のことを印象付けられるし、普通に考えたらわざわざ迎えに来るなんて彼氏とか特別な存在かなって思われるだろ。そういう相手がいれば、ますます先生にとっては恋愛対象外になると思うし。同年代のこんなイケメンの男に勝てるとはまず普通の男なら思わないからさ」
 「なるほど……」
 「それにまだ、その先生が好きな相手って決まったわけでもないんだろ。もしほかの塾の人が好きなんだとしても有効だと思うし」
 そう言われて、自分がすっかり相手をあの先生だと思い込んでいることに気づかされる。まだそうだと決まったわけではないのだ。一緒に勉強している中にそういう相手がいるのかもしれない。もちろん、本当に友達の話の可能性もあるし、それを口実に女子に近づかれている可能性もある。
 なんにせよ先生の言うとおりもう一度塾に行ってみるのがいい気がする。でもあんまり立て続けにいくと不審に思われるだろうか。これまで行ったことなんてなかったのに。
 「迎えにいってみたいけど、でも理由をどうすればいいかな。ただ迎えにきたかったって言うわけにもいかないし」
 「それなら、その子が塾ある日に、俺と新しい参考書買いにいく? だいぶ理解もできてきてるし、夏休み中は問題を多くこなして公式をしっかり定着させるのもいいかなって思ってたとこだから。そしたら、実際に参考書も見せれるし言い訳もできるんじゃないの」
 「助かります! あ、でも、その人の塾がある曜日って火曜と金曜なんで、家庭教師の日じゃないんですよね……」
 「いいよ別に。そんなら金曜にするか」
 「マジですか。じゃあ俺、なんかご飯おごります」
 「やめろよ。高校生におごられたくないって」
 笑った古賀先生が「よし」と手に持っていたコーヒーカップを机に置いた。
 「じゃあ、来週行こう。いやー、それにしても彬がそんなに好きな子ってどんな子なんだろうな」
 「塾までついてこないでくださいよ」
 「そこまでデリカシーないことするつもりはないけどさ。でも、うまくいったら紹介してな。会ってみたい」
 実は会ったことあるけど、と内心で思いつつ頷いた俺に「よし、それじゃあ勉強に戻るか」と赤ペンを手に持った先生が言う。
 「間違っているところが二か所あるから一緒にやってみよう」
 「はい」
 いったん青吾のことは意識の外に追いやって、先生がペンで指した問題をもう一度読み直す。
 青吾と同じ大学に行く。その目標のためには、苦手な数学も頑張るしかなかった。

 ☆

 金曜日の夜、塾の自転車置き場の横に置かれた花壇に腰かけた俺は、ジンジャーエールを飲みながら青吾を待っていた。
 そういえば、どの教室なのかまだ教えてもらっていないな、と真上にそびえる建物を見上げる。
 ふいに思ったよりも冷たい風が吹いてきて、肘下までまくりあげていたカーディガンの袖を手首のほうまでおろす。夏が近づいているといっても、夜はまだ涼しい。
 しばらくすると、ちらほらと生徒たちが出てきた。
 俺を横目で見た女子たちが「え、めっちゃかっこいい」「彼女とか待ってんのかな」と囁きあうのが聞こえてくる。
 その言葉に、自分が好きな人を待っているのだということを急に意識してしまう。同じ人を待つのに、友達だと思って待つのと好きな人だと思って待つのでは、ずいぶん違う。
 今日は人の目を集めるために、髪を整えて顔が見えやすいようにし、服も参考書を買ったあとに古賀先生に一緒に選んでもらった。胸元と肩にポイント的に柄の入っている、鮮やかなグリーンの薄手のカーディガン。小さいロゴの入った白いTシャツ。ヴィンテージ感があるごついバックルのベルト。太めのネイビーのパンツ。服に着られているような感じになっていないだろうか、気合が入りすぎてて引かれたりしないだろうかと今さらどうしようもないことを考えていると、青吾がスマホを見ながら出てきた。
 念のためその後ろを確認するが、例の先生は今日は出てきていないようだった。一番の目当ての人に印象付けるのは失敗に終わったようだけど、まあいい、と俺は立ち上がる。
 目立つ男が青吾を迎えに来ている、というのが生徒の間で広まれば、あの先生の耳にも届くかもしれない。青吾の好きな人が先生じゃなかったとしても、もし青吾に近づこうとしている人がいたとしても、その人にも届くかもしれない。注目されやすい自分の見た目を最大限に活用するときだ。
 こちらを見ることもなく通り過ぎようとするのに、小さく深呼吸してから「青吾」と声をかける。びっくりしたように顔をあげた青吾はキョロキョロとし、俺を見つけて目を見開いた。今日もその左耳にピアスがついていて、心がちりっとする。やっぱり、塾ではつけているのか。
 「彬、どうしたの?」
 「んー、ちょっと出かけてて。帰るとこだったんだけど、ちょうど青吾の塾が終わるくらいの時間だし会えるかもって思ったから来てみた」
 俺の言葉を聞いた青吾は微妙な顔になった。その顔の意味が分からず黙って様子をうかがっていると、後ろから「但馬くんの友達?」という女子の声がした。
 自己紹介までできればより印象付けられるだろうと、振り向いて挨拶しようとするが、その前に俺の背中を押した青吾が「そう、またね」と答えて歩き出す。
 触れられていることに単純にどきりとした俺も、押されるがままに素直に足を進める。
 駅前の雑踏を抜けたところで、ようやく青吾が背中から手を離し、隣にならんできた。
 「なに、なんか俺が会ったらいけない人だった?」
 「いや、彬を紹介しろって一部の女子から言われてて」
 「俺を?」
 「ほら、この前、森と井沢と来たときあっただろ。あのとき、彬のことを見かけた女子たちから噂が広がったみたいで。今日もどんな人かって質問攻めにあったばかりだったから」
 パーカーかぶって目立たないようにしていたつもりだったけれど、すでに印象付けることには成功してたってことか。
 「そうなんだ。ごめん、迷惑かけて」
 「別に彬のせいじゃないよ」
 ようやく笑顔を見せた青吾にほっとしたのも束の間、また後ろから「たじまくーーーん」「たじまくーん」と数人で呼ぶ声が聞こえ、俺らは顔を見合わせる。
 「逃げよう」
 そう言ったかと思うと、青吾が俺の手首をつかんで走り出し、人通りもまばらな街灯に照らされた道を駆け抜けていく。
 しばらく走っても「待ってー!」と後ろから声が追いかけてきて「根性あるな」と青吾が呟き、笑ってしまう。
 「そこの角曲がろう」
 勢いよく曲がったところで、遠心力に負けた青吾の手がすべって離れていく。
 慌てて手を伸ばし、青吾の手をしっかり握った俺は、今度は自分が引っ張るようにして住宅街の中を走っていく。
 世界は青く染まっていた。ワンワンと犬が吠えていた。三日月が光っていた。遠くから車のクラクションが聞こえた。公園のブランコが風で揺れていた。カレーの匂いがした。
 最後、二人ではぁはぁと息を吐きながら、俺たちはどちらからともなく立ち止まった。念のため振り向いたが、さすがに女の子たちの姿はなかった。
 繋いだままの手を持ち上げて、青吾があははっと笑う。
 「手をつなぐ必要、なかったんじゃないの?」
 「なんとなく、はぐれたらヤバイ気がして」
 「あの子たち別にゾンビとかじゃないからね」
 青吾の手の力が抜け、その温もりに未練を残しながら、俺も握っていた手を開く。
 「でも、こんな全速力で逃げるくらいには、めんどうな感じでからまれてるんだよな。逆に次の塾のときとか色々言われて大変なんじゃない?」
 「いや」
 青吾が首を振る。
 「別に大丈夫。でも、彬は嫌だろ。女の子たちに見世物みたいにされるの」
 「うん……」
 殊勝な顔で頷く。今日は見世物になるつもりで、髪も服も気合を入れてきましたとはまさか言えるわけがない。
 「それに、俺も彬と二人のほうがいいし」
 にっこりと笑った青吾が愛しくて、さっきまで繋いでいた手もまだ温かくて、いつもぎゅっと抑え込んでいる恋心が膨らんでくる。
 月明かりに照らされた静かな夜道。俺を見上げる少し火照った可愛い顔。きらっと光る銀色のピアス。
 もういっそのこと告白してしまおうか、という思いが胸をよぎる。
 ここで抱きしめて、ずっと好きだったよって、付き合ってって言って、そして断られても聞こえなかったふりで、受け入れてくれるまで手をつないで夜の中を永遠に一緒に歩くのだ。
 「なんてね」
 小さい声で呟き、青吾が「ん?」と聞き返してくるのに笑顔を向ける。
 「なんかちょっとだけ食べて帰らない?」
 「賛成。走ったから喉乾いたし、お腹空いた」
 お母さんに連絡するわ、とスマホを取り出しながらまた駅のほうへ歩き出す青吾の後ろをついていく。
 「そういえば、今日どこに出かけてたの」
 青吾がこちらに背をむけたまま聞いてくる。
 「古賀先生と出かけてた。夏休み用に問題集を買おうってことになって」 
 「そうなんだ。いいね、そうやって一緒に出掛けられるの」
 それは、どういう意味だろうと一瞬考える。単純に関係性の良さをいいと言ってくれているのか、それとも個人的に一緒に出掛けられない自分とあの先生のことを考えているのか。
 「今日、服がなんか大人っぽいのもそのせいか」
 「え、そうかな」
 「いつもパーカーとかだから」
 「……変?」
  やっぱり気合をいれすぎていたか、と恥ずかしくなり、夕方まで着ていた服たちが入っているバッグを意味なく撫でていると「変じゃないよ。全然、いい感じだけど」と青吾が慌てたように振り向いて言う。
 「ただ、いつもとなんか違うなって思っただけで」
 「あー、あの、ほら、古賀先生と出かけるのにあんまり子供っぽい格好だとあれかなって思って」
 苦し紛れの言い訳をする俺を、青吾が無垢な目でじっと見てくる。
 「あの、ちょっと背伸びをね、したっていうか」
 「そっか」
 「そう。で、どこ行く? ファミレス?」
 これ以上服について突っ込まれないように話題を変えると、スマホをバッグに仕舞った青吾は「バーガー食べたい」と笑顔で答えて前を向いた。
 その可愛さにまた胸がぎゅっとなりながら俺は少しだけ走って隣に並ぶ。
 もう一度、さっきの女の子たちが急に現れたりしないだろうか。そうしたらもう一度手をつないで走れるのに。そのままどこまででも走れるのに。
 すぐ横にあるけれど触れられない手と手の距離の遠さを感じながら、西の彼方に沈んでいこうとしている三日月を眺める。
 ――Love you to the moon and back
 言わないつもりの言葉だけど。隣を歩く人へ、胸の中だけで言うだけなら許されるだろう。

 その日の夜、夜空にかかった光の坂の上を、青吾の手を引いて月に向かって走っていく夢を見た。どのくらい好きなのか証明するからね、と何度も言う俺に、青吾は嬉しそうに笑いかえしてくれていた。

 ☆

 いつものように弁当を持って教室にいくと、森しかいなかった。
 「青吾と井沢は?」
 「二人とも今日はパン買いに行ってる」
 「へー。井沢はあれだけど、青吾は珍しいな」
 「弁当忘れたって言ってた。なんか、ここんとこ、ちょっとぼーっとしてる感じあるくね?」
 「あー、俺も思ってた」
 そう、今週に入ってから、少し青吾の元気がないのが気になっていた。風邪とかではないみたいだし、本人が『別に何もないよ』と笑うので、それ以上聞けていない。
 塾に迎えにいった金曜日は普通だったと思う。だとすれば、週末に何かあったのだろうか。
 でも、こんな分かりやすく落ち込むことなんて、そうそう考えられない。家族に関することか、それとも――
 「恋愛系の悩みかな」
 同じことを考えていたらしい森が言う。
 「恋愛系……そんな落ち込むようなことあるかな」
   週末は塾がないから、あそこに好きな人がいたとしても関係ないだろう。まさか個人的にプライベートで会うようなことがあるとは思えない。
 あり得るとしたら、出先でたまたま、好きな人が恋人といるところを見てしまったとか。
 そんな偶然、あまりなさそうだけど。
 うーん、と考えていると、森が机に頬杖をついてまた話し出す。
 「青吾って一年のときに失恋してたじゃん。引きずってたっぽかったけど、また好きな人できてたのかな」
 「え!?」
 思わず大きな声を出してしまった俺は、周囲の視線を感じて慌てて声をひそめる。
 「え、なにそれ。青吾が失恋したっていつの話?」
 「うそ、彬知らんかった? まあでも、自分から話すタイプでもないか」
 「なんで森は知ってんの」
 勢いよく詰め寄ってしまいそうな自分を抑えて尋ねると、森は視線をあげて少し考えるような顔をした。
 「去年さ。俺の彼女の友達が彼氏ほしいって言ってて」
 森は、他校に中学時代から付き合っている彼女がいる。直接会ったことはないが、森のスマホの待ち受けが彼女とのツーショットなので顔だけは知っている。バレー部で一緒だったという、背の高いボーイッシュな雰囲気の可愛い子だ。
 「真面目な人がいいって言うから、青吾に聞いてみたのよ。彼女とかいないなら会ってみない、って」
 「そんな話、聞いてない」
 「彬は見た目が派手だから声かけなかったしなー。みんなに話して俺も俺もってなったら面倒だし、個人的に声かけたから。そんで、青吾が速攻断ってきたから、もしかして彼女とかいんの、って聞いたら、明らか動揺してるからさ。それなら教えてくれればいいじゃんって言ったら、彼女はいないんだけど、実は失恋したばっかで、でもまだその人が好きだからって」
 「一年のいつ頃」
 「一学期。夏休みにダブルデートできたら楽しそうだねって話から始まったから」
 「全然気づかなかった……」
 一年の一学期。何かあっただろうか。
 思い返してみても、特に思い当たることがない。青吾の様子がおかしくなったことなんて、ないと思う。
 ――あ、でも
 やけに家庭教師について聞いてきたことがあった、と思い出す。塾じゃなくて家庭教師っていうのもいいかなって思って、と言っていた。古賀先生といるときに会ったすぐあとだったから、単に興味を持ったのかと思っていたけれど、もしかしたらあのとき、塾の人に失恋していたのだろうか。相手はあの先生か、他の人かは分からないけど、それで塾をやめようと考えていたのだろうか。
 「まあ、彬に言わなかったんだとしたら、あれじゃね? 青吾が好きになった子が彬を好きだったとか、そういうこともありそう。それだと彬には言いにくいよな」
 「……」
 「ま、なんにせよ青吾が言わなかったんなら、彬からは何も聞かない方がいいと思う。前に青吾も、彬が言わないなら、それは言いたくない理由があるってことだって井沢に言ってたろ」
 「……そうだな」
 「ってか、口を滑らせた俺がよくなかったよな。ごめん」
 「いや、それは全然」
 俺に言えない理由。もちろん今、森が言ったように俺がある意味恋敵だったということも考えられるだろう。だけど、相手が同性だったから言いにくかった、という可能性はないだろうか。
 失恋しても、ピアスをしてギャップを見せて、少しでも気にしてもらいたいという相手は、やっぱりあの先生なのではないかという予想に、どうしても戻ってきてしまう。
 「ちなみになんだけど、相手は誰とか、は聞いてないよな」
 「俺が知らない人、ってだけ言われた。だから勝手に中学の人かなとか思ってたけど、塾の人とかの可能性もあるし、逆に身近な人だと思われないように言ってた可能性もあるよな」
 そういや、と森が唐揚げをつかみながら続ける。
 「この前さ、塾にいったとき、青吾がピアスしてたじゃん。右耳にしてたのすぐ取ってたけど、右耳に一個だけピアスするのって、男が好きだっていうアピールになることがあるって知ってた?」
 「いや……」
 「ピアスしてなきゃ知らんよな。俺、実はさ、穴開けてんだけど」
 そう言って森が左の耳を見せてくる。言われなければ分からない穴が確かにそこには開いていた。
 「休みの日とか彼女とペアのピアスを一個ずつ着けてんだけど、そのときにどっち耳につけるのかとか調べて知ってたから、あとから青吾にメッセ送って、片方だけピアス着けるなら左耳のほうがいいよって言ったのよ。特に理由は言わないで。そしたら、塾の先生に、理由教えてもらったから左につけるようにするって返事がきてさ」
 あぁ、塾から出てきたときか、と思う。塾の先生に知っておいて損はないって言われてた。青吾が顔を赤らめていたのも、もしかしたらその意味を知らされたせいだったのだろうか。
 「だから、男が好きなんだっていう目で見られるのは、ちょっと嫌だよなって返したんだけど」
 身体がぴくりと揺れる。待て。この言葉に同意していたら、塾の先生に恋している青吾はいなくなるけど、俺が流れ弾に当たって立ちあがれなくなるかもしれない。しかし止めることなどできるわけもなく、淡々と話す森の口元を俺は息をのんで見つめる。
 「青吾から、嫌がる理由は何もないって言われてさ。ただ、今のところ誰かと付き合ったりするつもりはないから、これが恋愛の一つのアピールになるなら、期待させたり誤解させたりしたら申し訳ないからやめておこうと思っただけって」
 青吾らしいよな、と笑った森に俺も安堵して笑い返す。しかしそれと同時に、男性との恋愛にも拒否感がないことが分かって、つまり、あの先生を好きって可能性も高まったな、と思ってしまう。青吾にどうあってほしいのか、もう自分でも分からない。
 「ただいまー」
 元気な井沢の声が聞こえて振り向くと、その後ろで、青吾が微笑んでいた。いつも通り可愛いけれど、その顔はやはりどことなく元気がなく見える。
 どうした、何があった、と聞いてもなんでもないと言われれば、それ以上踏み込めないし、せめて甘やかすとかそういうこともできない。だって俺は、友達以上になれないただの親友だから。
 カタン、と椅子を引いて座った青吾が「久しぶりにパン買いにいったけど争奪戦がすごかった」と話しかけてくる。
 「でも美味しそうなの買えてるな」
 「頑張った」
 にこっと笑って、パンの袋を開ける横顔から目をそらし、俺も弁当を食べ始める。
 青吾を困らせたくないから、一生告白なんてするつもりなんてなかった。付き合うなんて想像もしていなかった。
 でも、もし、青吾が誰かに失恋しているのだとしたら。相手が男でもいいのだとしたら。俺でもいいんじゃないのかなという気持ちが、心の奥底で押さえつけていた蓋の隙間からふいに漏れ出てぷかりと浮いてくる。
 そうしたら、つらくなるような思いは絶対させないのに。いつまでも引きずるような恋愛を忘れさせるくらい大事にして、甘やかして、楽しいことばかりの毎日にするのに。
 ぷかり、ぷかり。
 隙間からは絶え間なく、青吾に対すると気持ちが漏れ出し、胸の中を埋めていく。
 今のまま、親友のまま、と自分に言い聞かせるのも、もうとっくに限界だったのかもしれない。
 心の奥底にもう一度押さえこむことができないほど次々に浮かび上がってくる気持ちを抱えた俺は、途方にくれながら弁当を黙々と食べた。

 ☆
 
 「これ、どう思う?」
 ゆるっとした白の襟付きシャツを自分の身体にあてて見せてくる青吾に「めっちゃ似合う」と答えると、むっとした顔で睨まれた。
 「さっきからそればっか。絶対適当に言ってるだろ」
 「いや、本当に全部似合うから……」
 少し元気がないと思っていた先週に比べると、だいぶいつもの青吾に戻って安心していた今週の木曜日。
 以前一緒に鑑賞した映画の続編を観にいかないかと学校帰りに誘ってくれたのは、青吾のほうだった。それなら土曜日に観にいって一日遊ぼうということになり、その日の夜から、俺は落ち着かない時間を過ごしていた。もちろん、これまでも何度も一緒に出掛けたことはあるが、あくまでも親友とのお出かけであるという心づもりでいたから、嬉しいものの平常心であった。でも、気持ちを押さえられなくなっている今となっては、一緒に出掛けるってすなわちデートでは?と思ってしまって、まったくダメである。
 そうしてやや寝不足で迎えた今日は、映画を朝一で見に行き、今は映画館が入っているショッピングモールで服が見たいという青吾に付き合っているわけだけれど、本当にどの服も青吾のためにあるんじゃないかというくらい似合うので、感想がすべて同じになっているという状況である。
 ――でも、いつもの青吾の服とはちょっと違う系統のものが多いな
 難しい顔でまたほかの服を見ている青吾を眺める。
 制服をいつもきっちりと来ている青吾は、私服もきっちりとしたものがほとんどだ。
 今日も、半袖の水色のポロシャツを首元のボタンまでしっかりとめて、チノパンの中にインしている。足元は白のスニーカー。耳にはピアスなし。決して今時ではないけど、清潔感のある雰囲気は青吾にぴったりで、育ちの良さが感じられる。
 しかし、先ほどから青吾が見ているのは、少しラフで落ち着いた色合いのものが多い。まあ、年齢によって好みの服も変わるのは当然で、実際に自分も、もう好みが分からないから似合いそうと思っても服を買えない、と去年あたりに親から言われた。その分、今は梢の服を買うのをとても楽しんでいるようだけれど。
 「あのさ」
 次はどんな服を選ぶのかと眺めていると、服を探す手をとめた青吾が話しかけてきた。
 「ん?」
 「この前、塾に彬が来たときさ、ちょっと大人っぽい感じの服着てただろ。ああいう服ってどういう店で見つけるの」
 「あー、あれは古賀先生のいきつけの店で――」
 あの日は周りを牽制する目的もあったから、大人っぽいかっこいい服を選んでもらえないかと古賀先生に自分から頼んだ。もし、相手があの塾の先生だとしたら、子供っぽい格好のままじゃ、気持ち的に太刀打ちできないと思ったからというのもある。
 古賀先生が連れて行ってくれたのは古着も扱うセレクトショップで、俺の予算を聞いたうえで似合いそうな服をのりのりで選んでくれた店員さんにはまたおいで、と言ってもらったけど、正直なところちょっとおしゃれすぎてハードルが高い。
 「行けなくもないけど、まずそこに行くための服が必要、みたいな店なんだよな」
 「じゃあ。俺みたいな感じだと無理か」
 ちょっと目線を下げて小さく笑った青吾に「そんなことない」と慌てて言う。
 「そうじゃなくて、なんていうの、店を紹介する側の俺がさ、あの店にあってない格好っていうのがちょっと。俺も古賀先生に連れて行ってもらったときは、全然、今日みたいなカジュアルな格好だったし、俺がちゃんとしてれば青吾のことも普通に連れて行ったけど、こんなだから。ごめん」
 あわあわしながら、Tシャツに膝丈のゆるいショートパンツという自分を指し示す。
 「そんな、謝るようなことじゃない。ごめん、俺も変な言い方して。じゃあ、今度連れていってほしい」
 俺の動揺に対し穏やかに答え、また服に目を戻した青吾に「そんなにあの服、良かった?」と聞いてみる。
 青吾がいいと思ってくれたのだとしたら、買ったかいがあるというものだ。
 「もちろん良かったし、なんていうか」
 言葉を選ぶように、青吾はいったん口をつぐんだ。
 「俺も背伸びしてみたくなったっていうか」
 「え、別に青吾はそのままでもいいのに」
 思わず言うと、青吾はまた小さく笑った。
 「俺も、彬はそのままでいいと思うけど、古賀先生に釣り合うように背伸びしてるんだろ」
 「いや、まあ……うん」
 あの服を着ていた本当の意味を言うわけにもいかず、俺は曖昧に頷く。
 「俺も、こんな子供っぽい自分から脱却したら、何か変わることもあるかもしれないし」
 独り言のように付け足された一言に、どこか諦めの色が滲んでいる気がして、俺は青吾の横顔を見つめる。
 大人っぽくなりたいのは、誰かと釣り合いたいからなんだろうか。だとすれば、少なくとも、その相手は俺じゃない。だって、普段の俺は、今日のように大人っぽいとは無縁な格好をしているわけだから。
 ――やっぱり、あの先生なのか
 失恋したあとも諦めきれなくて、大人っぽくなればもしかしたら意識してもらえるかもしれないとか、思っているのだろうか。純粋で清廉潔白な青吾の心は、振り向いてもくれない先生を真っすぐに求めているのだろうか。
 俺を見ればいいのに、と思う。俺は、そのままの青吾が大好きなのに。
 棚に積まれていた黒のポロシャツを手に取った青吾が、じっとそれを見たあと、棚に戻して俺を振り向いた。
 「やっぱ、服は今日はいいや。お昼食べにいく?」
 「いいの?」
 「うん、なんか自分がどんな服がほしいのか分かんなくなった。まだこの時間ならフードコートも空いてそうだし」
 そう言って店から出ていくのを追いながら、俺はせめて青吾の好きな相手が本当にあの先生かどうかだけでも、なんとかして確かめられないだろうかと考えを巡らせた。

 陽の長くなったこの時期、六時になっても明るい公園には、子供たちの声が響いていた。遊具から離れたところに設置されているベンチでコーラを飲みながら、青吾に好きな人について聞こうと考えている俺の心臓は、和やかな光景とは裏腹に跳ね回っていた。
 あのあと、お昼を食べ、そこから本屋にいったりゲーセンにいったりしているうちに夕方になってしまい、青吾の好きな人について何かを聞き出す間もなく最寄り駅についてしまったから、これがラストチャンスである。
 喉が渇いたから家に帰る前にジュース買って飲んでいきたいと言った俺に、いいよと頷いてくれた青吾は、隣でメロンソーダを飲んでいる。
 よし、いこうと、俺は午後中考えていたとおりに話を切り出す。
 「そういえば、友達ってどうなった?」
 青吾は、少し首を傾げた。
 「なにが?」
 「ほら、好きな人に気にしてもらいたいって言ってた」
 「あぁ……」
 青吾が思い出した、と言いたげに数回軽く頷いたあと、少し言いにくそうに続ける。
 「片思いしてる相手がいるっていうのが、噂じゃなくて本当だって分かったんだって。しかもうまくいきそうだから、諦めることにしたらしい」
 「え」
 「相談のってもらったのにごめんねって言ってた。伝え忘れてた」 
 「いや、それは全然」
 そこで話は終わってしまい、俺はコーラを飲みながら考える。
 これが、本当に青吾の友達の話だとしたら、それでいい。その片思いの相手が俺たちの知らない人だろうと、青吾だろうと、理由がなんであれ勝手に終わらせてもらえればいい。その友達の好きな人が青吾だとしたら青吾の片思いしている相手は誰だ、という一点だけは気になるけれど。
 でも、もし、友達の話でなく、青吾の話だったら?諦めるっていうのは、本心なのだろうか?
 それなら、俺にもチャンスはある?
 もう少し探りたくて、俺はまた口を開く。
 「……でも、その好きな人が誰かは聞いてないんだろ? ならその子が好きな相手っていう可能性もあるんじゃないの?」
 俺の言葉に、青吾は目を見開く。
 「そんな都合のいい話、ないだろ」
 「直接聞いたの?」
 「話してるのがたまたま聞こえたって」
 「なんて?」
 「彼女がいるのかってほかの人に聞かれて、好きな人がいるって答えてたって」
 「じゃあ、やっぱりその子だって可能性はあると思うけど」
 青吾が困った顔をするのを見ながら、俺は続ける。
 「それに好きでいたら、チャンスがあるかもしれないだろ。それでも諦めんのかな、本当に」
 「彬は、片思いしている相手よりも、好きになってくれる相手を選ぶ可能性もあるって言ってたもんな。付き合ったらちゃんと好きになるかもしれないしって。でも、ほかに好きな人がいるって知りながら付き合えるのを期待し続けるって、けっこうしんどいんじゃないかな」
 そういえば、友達の話を相談されているときにそんなことを言ったかもしれない。でも、それはあくまでも一般論でしかないし、自分は好きな人に一途な人間だ。しかし、それをアピールする前に青吾がため息をついて、手の中にあるメロンソーダのペットボトルを見た。
 「ま、でも、その前にその友達が好かれてるってことはないし、チャンスもないと思う。実は友達が好きな人、塾の先生なんだよね」
 「え」
 急に聞きたかったことの核心に触れる話題が出て、俺は淡々と話す青吾を凝視する。
 「塾の先生って言っても、去年入ったばかりの若い先生で、年も近いからけっこう生徒も遠慮なくいろいろ質問したりしててね。長く付き合ってる人がいるとか別れたとか、そんな話も授業中にするから、今、彼女がいないっていうのはみんな知ってて」
 「うん」
 「すごくいい先生だし、生徒にもよく寄り添ってくれるし、見た目も、まあ、けっこうかっこよくて人気があるから、何か月か前に別れたって噂もすぐ広まって、たぶん告白した人もいたんじゃないかな」
 「もしかして、俺が井沢と森と一緒に塾に行ったときに話してた、あの先生?」
 「あぁ、うん、そう。よく分かったね」
 「いや、なんか、かっこいい人だなって思ってたから。大人って感じだし、まあ……好きになるのも分かる気はする」
 さりげなく鎌をかけた俺の返事に、青吾はちょっと固まったあと、俺を見て「そうかな」と言いながら笑った。しかし、笑っているはずなのに、ふとその目に涙が浮かんできたのを見て、俺は息を呑んだ。
 青吾も慌てたように「ごめん」と目を拭ってうつむく。しかし、一度流れ出した涙を止めるのは容易ではないらしく、チノパンに涙の染みがポツポツと歪なドット柄を作っていく。メロンソーダのペットボトルをベンチに置き、両手で顔を覆った青吾の肩が震える。
 あぁ、確定だ、となぜかやけに冷静に思った。この友達の話は、やっぱり青吾の話なのだ。
 差し出すようなハンカチなど持ち歩いておらず、どうしようもなく背中にそっと手をあてると、拒否するように青吾が立ち上がった。
 「ごめん、帰る」
 「待って、青吾、ごめん、俺、なんかいろいろ余計なこと言って」
 「いや、こっちこそごめん。意味わかんないよな。気にしないでほしい。俺の問題だから」
 「気にしないわけにいかないだろ」
 青吾の手首を右手でつかんで引き留めるが、これ以上泣かせてしまうことを恐れた俺は何も言い出せず、二人の間には子供たちの声だけが明るく響いた。
 「あのさ」
 しばらくして、口を開いたのは青吾のほうだった。涙はとまっていたけれど、いつも青みがかって見える綺麗な目は赤いままで、見ていて切なくなる。こんな顔をさせたくなどなかった。
 「彬は、自分の好きな人に恋人がいたら、どうする」
 彼女がいると知っていても、先生をずっと諦めきれなかった自分のことを思っているのかもしれないと、俺は慎重に答えを探す。
 「どうするか……、分かんないけど、俺は、好きな人が一番大事だから、迷惑になるようなことはしない、と思う」
 「諦める?」
 好きな人本人から、諦めるかと問われている状況に複雑な思いになりながら俺は答える。
 「そう簡単にはいかないと思うけど、少なくとも自分の気持ちは隠し続けると思う」
 「そっか」
 青吾は遠い目をした。次第に傾いてきた夕日を受け、そのまつ毛に残る水滴が光る。
 「じゃあ、そんなときに誰かに好きだって言われたら、彬は付き合う?」
 「誰とでも付き合うことはしない。でも、そうだな。好きな人よりも、もっと好きになれそうな人が現れたら付き合うかもしれない。……青吾は?」
 「どうだろ。ほかの人を好きになるっていうことが、想像できない」
 迷子のように頼りなげに佇む青吾の口からこぼれ出た言葉を聞いた途端、たまらなくなる。青吾に一途に好かれている相手が、羨ましくて妬ましくて、苦しくなる。
 言うつもりはなかった。でも、もう、我慢はできなかった。
 「青吾」
 俺の真剣な声に、視線が俺に向けられる。
 「じゃあ、俺と、付き合おう」
 怪訝な顔をした青吾をすがるような思いで見る。緊張で青吾の腕をつかんだ手に汗をかくのを感じる、
 「今は好きだとは思えなくても、一緒にいるうちに気持ちは変わることだってあるかもしれないし、付き合ってみようよ。年上よりも、同級生のほうが安心して付き合えると思うし。付き合っていけば、青吾も好きな人を忘れられるかもしれない。俺も頑張るから、だから」
 「……待って、彬」
 目の前で、青吾は目を瞬かせた。
 「ごめん、待って、俺の好きな人って」
 「あの、塾の先生が好きなんだろ」
 青吾が「え」と言うのに対し、畳みかける。
 「あの塾の先生のことが好きで、それを友達の話として、俺に相談してたって、分かってる。ちょっと前からそうじゃないかなって思ってた。ピアスを塾にしていったり、大人っぽい格好をしたかったりするのも、あの先生に釣り合いたいからってことだよな」
 「待ってって。だから、塾の先生を好きなのは、俺の友達の話で」
 心臓がとまった気がした。全身から、血の気が引いていく。
 勘違い? すべて俺の勝手な思い込み? 
 「なんで俺が先生を好きって話になってんの?」
 本当に、友達の話だった?
 じゃあ、さっきの涙は?
 呆然とする俺の前で、青吾は静かに続けた。
 「あれは本当に友達の話だよ。塾の同じコースの女の子。男子の意見が聞きたいからって、俺、相談に乗ってたんだけど」
 「そう、なんだ」
 「つまり、彬は、友達じゃなくて俺が先生を好きだけど振られたって勝手に思い込んで、俺に同情して付き合おうって言ったってことか」
 「ちがう、そんなつもりじゃなくて、俺は」
 「ちょうどいいって思った? 彬もあの人への片思いに疲れてた?」
 どういうことだ。あの人って誰だ、頭の中がぐちゃぐちゃで何を言うべきかも分からない。
 「好きじゃなくても付き合おうと思ってくれたのは光栄だけど」
 口を開いたまま喉がつまったように声を出せずにいる俺を見下ろした青吾は、手首をつかんでいた俺の手を振り払った。
 「馬鹿にするなよ」
 その声があまりにも冷たくて、俺は「ごめん」という言葉だけ、なんとか絞り出す。
 青吾は、俺を振り返ることなく、公園から出ていった。メロンソーダと一緒にベンチに取り残された俺は、ただ茫然とその背中を見ていることしかできなかった。

 ☆

 月曜日の朝、こんなに学校に行きたくないのは中一のときぶりだ、と思いながら俺はいつもより早く家を出た。
 本当は、さぼろうかと思った。だって、青吾と同じ大学に行くためだけに俺は勉強を頑張っていたのだから、もう高校に行く意味はない。
 勉強だけじゃない。すべての努力も、もう必要ない。青吾の隣にいるために、青吾の価値を落とさないようにというのがすべての行動原理だったのだから。もう、何もかもに意味はないのだ。
 でも、もし俺が学校に行かなくなったら。もし俺が自暴自棄になってしまったら。
 青吾は自分のせいだと、自身を責めるかもしれない。傷つくかもしれない。青吾は、何も悪くないのに。例え、俺に対して怒りを覚えていたとしても、どうなったっていいと思えるような人ではないから。
 だから、せめて高校にはいかなければと思う。大丈夫だと、青吾に見せなければと思う。
 大きなため息をつき、俺は重い足を学校へと向けた。
 空は今日も晴れ渡っていた。でも、青吾という要を失って崩れ落ちた俺の世界は、今にも雨を零しそうな鼠色の雲に覆われていた。この先、俺の世界が整うことは、もう二度とない。それは、俺の世界の創造神である青吾を手に入れようなどという、身の程をわきまえない望みを持ってしまったことへの天罰。
 学校では、一日中教室の中で過ごした。休み時間は寝たふりをし、昼はイヤホンをつけて一人で弁当を食べた。青吾と自分が別のクラスだというのが、唯一の救いになるというのは皮肉な話だった。会いにいかなければ青吾の顔を見ずに済む。青吾にも、こんな男の顔を見せなくて、済む。ただ機械的に授業を受け、チャイムと同時に教室を飛び出した。
 走りながら、このままどこかへ行ってしまいたいと思う。走って走って、走り続けて、誰もいない場所へ。でも、そんなことは到底無理で、息が切れた俺は足をゆっくりととめる。
 青吾と手をつないで走ったときはもっと遠くまで走れたのに、と思った瞬間、涙が出てきた。青吾がいなくなっただけで、俺は、こんなに駄目になる。
 なんで、あんなことを言ってしまったのだろう。青吾は、嘘をつくような人じゃない。青吾が友達の話だと言うなら、それは友達の話なのだ。分かっていたはずなのに。それなのに、小さな「もしかしたら」を妄想で大きく膨らませ、その妄想越しに青吾を見てその言動すべてをゆがんだまま受け取ってしまった。本当に、なんて最低なことを。
 汗をぬぐうふりをしながら、涙をぬぐい歩き出す。とりあえず今日一日頑張った自分を、少しだけは許してやろうと思った。

 そのまま、あっという間に一週間が過ぎ去っていった。もちろん、隣のクラスだから青吾を見かけることはあったけど、できるだけ目をそらし、存在を自分の中から追い出した。
 さすがに、周りもおかしいと思っていただろうけれど、触れてくれるなと言う俺の無言のバリケードを突破してくるほど勇気がある同級生はおらず、放っておかれていた。
 井沢だけは一度話しかけにきた。
 イヤホンをつけた俺の前に座って両手をふるから、さすがに無視できずに片耳のイヤホンをとると、いつもの能天気な声で『弁当食べにこねーの?』と言ってきた。
 『いかない』
 『そっかー。青吾が最近ぜーんぜん飯食わなくてさ。彬が来てくれたら食べるかなって思ったんだけど』
 自分が原因なのは確実だったけれど、だからといって俺が行っても結局嫌な思いをさせるわけだから『ごめん』とだけ言って、俺はまたイヤホンをつけた。
 家でも、俺の様子が変だということは家族も気づいていただろうけど、やはり何も言わずに放っておいてくれた。梢は、一度だけ俺に抱き着いて「にいに、Love you to the moon and backだよ」と言ってくれた。その優しさと、青吾にその言葉を言える未来が本当に無くなってしまった事実に泣きそうになるのを、俺はぐっと堪えた。
 古賀先生は、きっと終始無言の俺の様子に何かあったことは察しただろうけれど、何も言わずに淡々と教えてくれた。勉強なんて、本当に今の自分には意味がないものだったけれど、少なくとも問題を解いている間は青吾のことを考えずにいられるのは、有難かった。

 真っ暗なままの心には、翌週になっても光がともる気配はなかった。青吾を怒らせてしまった、青吾に嫌われてしまった、もう一緒にいることができない、その事実はあまりにもあまりにも重く、俺はあの日の出来事から目を逸らし続け、思考を停止する日々が続いていた。
 しかし、例年より遅めの梅雨入り宣言があった日の夜、自分の部屋の窓に点線を書きながら流れる雨粒を見ていた俺は、なぜ青吾はあのとき泣いたのだろうとふと思った。
 俺は青吾の反応を見たくて、塾の先生のことを『好きになるのも分かる気がする』と言った。そうしたら、青吾が泣き出したから、俺の言葉で失恋したことを意識してしまったのだろうと思ったし、だからこそあのとき、青吾が先生を好きなのだと確信してしまった。
 でも、青吾は先生のことを好きなわけではなさそうだった。むしろそう思われたことへ、怒りすら覚えていたようだった。
 じゃあ、なんで。泣くような要素なんて、何もない気がするのに。
 あぁ、けれど、ほかの人を好きになるのが想像できないって言っていたから、誰かしら好きな人はいるのか。
 もしかしたら、先生を好きだった女友達に、青吾が片思いしていたとか。だから、先生を好きになるのも分かる、という言葉に反応してしまったとか。いや、先生はモテると言っていたから、先生を好きなのがその子だけとは限らないか。つまり青吾が先生を好きな誰かに片思いをしている可能性もある。
 でも、青吾が先生のことを好きだと感じた理由もあるわけで。ピアスとか。大人っぽい格好とか。あれはなんだったんだろう。
 ――いや、ダメだ
 俺は頭を軽く振って、カーテンを閉める。こうして、勝手に憶測をして、また見当違いなことを言うようなことはしたくない。青吾の口から出たことだけが、真実なのだから。
 ただ、他にも気になることがあったな、と思い出す。
 『あの人への片思いに疲れてた?』と言われたけれど、あの人とはいったい誰のことなのか。青吾の方でも、何か思い込んでいることがあるのかもしれない。
 客観的な目線で、一緒に考えてアドバイスをくれる人が必要だ、と思う。もちろんそのアドバイザーは、古賀先生以外に考えられなかった。

 このままだと勉強に身が入らないので、どうか話を聞いて客観的な意見が欲しい、と切り出した俺を古賀先生は快く受け入れてくれた。
 「いやー、ここ数回僕は絶望してますってずっと顔に書いてあったもんなー。気になって仕方なかったからむしろ聞きたい。例の彬が片思いしてる女の子のこと?」
 「まずそっからなんですけど、俺が片思いしてる相手って、男で」
 「へー、え、え!?」
 笑顔で頷いた直後に、先生が俺を二度見する。
 「え、そうだったの? なんだよ、早く言ってよ」
 「この前のときは別にあえて言う必要はないと思ったんで。でも、今回の話をするにはここをはっきりさせとかないとややこしくなりそうだったから……」
 「なるほどね。オッケーオッケー。で、何? 告白して振られたの?」
 男が好きだということをあっさりと受け流した先生に、前触れもなく痛いところをぐっさりとやられ、少し肩の力が抜けていた俺はもろに喰らってうずくまる。
 「う……まあ、そうですね。付き合おうって言って、馬鹿にするなって言われました」
 「それはまた。なんでそんな返事になんの」
 「俺がその人の好きな人を勘違いしてたうえに、その人を忘れられるように俺と付き合おうって言ったら、同情かって言われて、そっから」
 「ちゃんと好きって言った?」
 問われて、俺はちょっと考える。
 「てんぱってたから……もしかしたら言ってないかも。あと、あの人に片思いしてるのに疲れたのか、とも言われて、なんか誤解されてる可能性もあって」
 「その誤解はといたの?」
 「そんな余裕もなかったです……」
 「好きとも言わず、誤解もとかず落ち込んでんのか。そんなんじゃ、そもそもその子には何も伝わってない可能性もあると思うけどな」
 いや、でも付き合うのを断られているのは現実だし、と凹んでいると「とりあえず、最終的にそうなるに至った流れを聞かせてもらおうか。友達の話からだっけ」と古賀先生が言う。
 「そうです。ちょっと俺も整理したいんで図に書いていいですか」
 机の引き出しの中からルーズリーフを一枚出して、鉛筆を手に持つ。
 「まず、友達の話として相談を受けたって言ったじゃないですか。でも俺、それがその人の話じゃないかって思ってたんですけど」
 「確かにそう言ってたよな。なんだっけ、その友達向けにアドバイスしたことを、その子が実践してたとかって」
 「そうなんです。でも、結論から言えば、友達の話は本当に友達の話だったってことが分かって」
 「あ、そうだったんだ」
 俺は。ルーズリーフの真ん中に丸を書き、その中央に「S」と書き込む。
 「このSが俺の好きな人で、これがSの友達で」
 「S」の隣に「友達」と書き、その上に「先生」と書いて「友達」から矢印を伸ばす。
 「俺はSがこの塾の先生を好きだろうと思っていたんですけど、実際にはこのSの友達の女子が、塾の先生を好きだったそうです」
 「なるほど」
 「で、この塾の先生がけっこう若くて、恋バナを授業中にしたり、生徒に話したりもするみたいで、最近も、彼女はいないけど好きな人がいるって話していたから、この友達は諦めることにしたらしいんですけど」
 「ふーん。まあその先生の話もほんとかどうか分かんないけどな」
 「なにがですか?」
 「若い塾講師は、生徒から見たら恋愛対象になる可能性大だからさ。前も言ったけど、塾ってそういうのに厳しいし、あえてそういうことを話して自分は君たちを恋愛対象として見ていない、っていう予防線を張ってるのかもね」
 「なるほど……」
 チャラいな、と思っていたが、そういう理由も考えられるのかと納得する。
 「それで、Sのほうは別に先生を好きじゃなかったみたいなんですよね。でも、俺が先生を好きなんだろうと思った理由がいくつかあって」
 「S」の横に「ピアス」「大人っぽい服」「去年の失恋?から家庭教師検討」と書く。
 「俺がギャップで話したピアスをなんでか塾に着けて行ってたり、この前俺が古賀先生に選んでもらった服あったじゃないですか。そしたら、子供っぽいのから脱却したいからどこでそういう服を買うのか教えてって言ってきたり」
 「これも前に言ったけどさぁ、そのS君ってやっぱり彬のこと好きなんじゃないの?」
 「いや、でも、去年の春に失恋してるらしいんですよ。前に話したときの感じだと、たぶんまだ同じ人を好きっぽくて、でも俺相手なら失恋してるわけがないし」
 自分で自分の言葉に凹まされながらも、なんとか続ける。
 「それで、その先生が入ってきたのが去年かららしいので、ここも合致するなーって思ったり」
 「なるほどね」
 「あと、この前、実はこの先生の話から、まあ、なんていうか、修復不可能な感じになっちゃったんですけど……」
 「すげーテンション下がるじゃん」
 「そりゃ下がりますよ……」
 俺は思い出したくないあの日の出来事を頑張って脳内から引っ張り出す。
 「俺、このSの先生に対する気持ちをちょっと知りたいなぁって思って、大人っぽいし、好きになるのも分かる気がするって言ったんですね。そうしたら、泣いちゃって」
 「え、なんで」
 「俺もそれが分からないから相談してるんですけど」
 「それはそうか」
 「S」の隣に「先生を好きになるのも分かると言われて泣く」と書く。
 古賀先生は腕組みをしながら紙を眺め「この家庭教師検討っていうのは?」と聞いてくる。
 「これは友達からの情報なんですけど、去年の夏前にSに彼女の友達を紹介しようとしたら、失恋したばかりで、まだその人が好きだからって断られたって言ってたんですね。で、その時期に何かあったっけなって考えてて思い出したんですけど、家庭教師についてSからいろいろ聞かれたのがその時期だったなって。だから、もしかしたら塾の先生に彼女がいるって分かって失恋して、通うのがつらいから家庭教師にしようかって一時的に考えてたのかもなって今さながらに思ったというか」
 「あのさぁ」
 古賀先生が「S」を指さす。
 「もしかしてこの子、一回、この家で勉強教えたらお金払おうとした子?」
 どきっとするが、話しているうちにバレるだろうという覚悟もしていたので、黙って頷く。
 「あー、あの子か。彬の家庭教師を始めたばっかりの頃にもさ、本屋で会ったよな。俺もあのとき、家庭教師って参考書選びにまで付き合ってくれるんですか、とか聞かれたなって思い出して。しかもさ、俺、この子と一カ月くらい前の週末に会ってんのよ」
 「え、どこで?」
 「うちの大学の近くの喫茶店。まあ会ったっていうかお互いに見かけたっていうほうが正しいかもしれないけど。向こうは家族と一緒っぽかったし、俺も彼女といたから、会釈して終わったって感じ。でもなんであそこにいたんだろ。あの子の志望校ももしかしてうち?」
 「そうですけど、そのときは見学とかじゃないと思う。お兄さんも先生と同じ大学に通ってて近くで一人暮らししてるから、会いに行ったのかも」
 「ふーん……あれ、つまり、俺の後輩になりたいイコールあの子と同じ大学を目指してるってこと?」
 「……そうです」
 「なるほどー」
 ニヤニヤしている先生はとりあえず無視して、なんで青吾は話してくれなかったんだろうと考える。先生との間で青吾の話が出ることはないけど、青吾との間ではあのあとも古賀先生の話題が出ているから、そういえば、という感じで話が出る方が自然だ。見たことはあるけど誰だか分らなかったのだろうか。でも、会釈したってことは誰だか分かっていた可能性のほうが高い。
 そして一カ月くらい前と言えば、青吾が元気をなくしていた時期とかぶるのも気にかかる
 「え、本当に先生、何も青吾に言ったりやったりしてないですよね」
 「なんでだよ。してないよ」
 「いや、その頃、青吾の元気がなくてどうしたんだろうって思ってたから」
 「さすがに俺関係ないだろ」
 そう言った先生が「いや、待て」と顎に手をあてて首を傾げる。
 「……あのさ。去年、家庭教師検討してたって言ってたけど、どんなこと聞かれた?」
 「別に普通のことだったと思うけどな。週に何回くらい来るのか、とか、どうやって決めたのか、とか、一対一でも気まずくなったりしないのか、とか」
 「で、なんて答えた」
 「そのまま答えましたけど。週二回で、親の紹介で、教え方もうまいし楽しいみたいな」
 「なるほどな……俺さ、本屋で会ったときに、あの子に彬って警戒心強いんですけど、本当にいいやつなんでよろしくお願いします、みたいなこと言われたんだよな。だから、俺の後輩になるために頑張りたいって言うくらいもう俺に懐いてるから大丈夫だよ、って答えたら、どこの大学なんですかって聞かれて。でも、彬がまだ志望校を親とかにも言いたくないって言ってたから、本人が秘密って言ってるから俺からは言えないんだけどね、って答えたわけ。そうしたらしょんぼりしちゃってさ。あー、この子、彬のこと好きなんだなーって思ったんだよな。もちろん友達として。でもさ」
 古賀先生は考えをまとめるようにゆっくりと瞬きをしたあと、俺の顔を見た。
 「あの子さ、やっぱり彬を好きなんだと思うよ。恋愛的な意味で。そのうえで、彬が俺のことを好きだって勘違いしてる可能性ない?」

 ☆

 朝、下駄箱からスリッパを出そうとした俺は、四つ折りの紙が目立たないように置かれていることに気づいた。
 告白の呼び出しだろうか、と小さくため息をつきながら、紙片をポケットに入れて教室へ向かう。
 自分の恋路のことだけで手いっぱいな今、告白してくれたことに感謝して相手を傷つけないように断るような精神的な余裕は皆無だけど、どうしよう。せめて来週に延期してもらえないか聞いてみようか。いや、告白を延期してほしいって頼むのもおかしいか。
 ぼんやりと考えながら階段をのぼっていると「日下部せんぱーい!」と下から声をかけられる。
 振り向いて小さく手を振ると、一年生の女子が数人、手を振り返してキャーキャー言いながら逃げていった。いつもと変わらないその様子に、この手紙の主も一年生かもなと思う。二年生の間では、先週から俺が周りを拒絶するようにして一人で過ごしているのは周知の事実となっているはずだし、そんな状態の俺にわざわざ告白をしようというチャレンジャーはいないだろう。
 青吾の教室の前を視線を落としたまま通り過ぎ、自分の教室に入る。
 「おはよー」
 「はよー」
 気を使いながらも挨拶をしてくれるクラスメートに挨拶を返し、席に座る。
 一呼吸置いたあと、ポケットから紙を取り出し、机の陰で四つ折りになっているそれを開いた俺は、目を見開いた。
 ――放課後体育館に集合。青吾には声かけてないから。
 雑な字で書かれたその手紙の差出人は森だった。
 心配をかけてるよな、と申し訳ない気持ちになる。ちゃんと青吾との関係を改善しようと思っていることくらいは伝えた方がいいかもしれない。
 さすがに明日、告白しようと思っていることまでは言えないけれど。

 昨日古賀先生と一緒に、青吾は俺が好きで、さらに俺の好きな人が先生であると勘違いしている、という仮説をもとに、疑問が残るところについて考えてみようということになった。
 『彬が年上の俺を好きだと思ってたから、大人っぽくなりたかったんだろうし、塾の先生が大人っぽいから好きになるの分かる、って彬に言われたら、やっぱり自分じゃ無理なのかってショックを受けるかもな』
 あくまでも仮説だけど、と古賀先生は念押ししたうえで続けた。
 『あと、もし本当に俺と会ったあとに元気がなくなったんだとしたら、俺に彼女がいることを知ったからじゃないかな。もちろん俺に彼女がいるなんて、あの子は知らなかったわけだろ。だから彬がショックを受けるんじゃないか、とかさ。もしかしたらあの子と会ったことを俺が喋って、そのとき彼女といたんだけどねって言われた彬が傷つくかもしれない、とか。なんで教えてくれなかったんだって思われるかもしれない、とか。言うべきか言わないべきか、どうするのが正解なのか悩んでたのかもな。彬を好きだからこそ』
 確認するほどに、いろいろと辻褄があっていった。
 俺は、青吾に気持ちがバレないように古賀先生という存在を都合よく使うことも多かったし、それをそのまま受け取った青吾が、俺が古賀先生を好きだと勘違いするというのは十二分にあり得ることだった。
 『マジか……』
 呆然と呟いた俺に、先生は真面目な顔で言った。
 『ただ、さっきから何回も言ってるけど、これは仮説だからな。仮説が絶対正しいって思いこんで実験したらいけないのは分かるだろ。思ったのと違った結果が出るたびに、いや、何かがおかしかったんだって思ったり、自分に都合のいいデータだけを拾ったりしてしまったら、その結果っていうのは歪められたものになるわけでさ。人間関係も同じで、相手の気持ちを勝手にこうだろうって決めつけて、その言動を都合よく受け止めて、それありきで行動してたら絶対に健全な関係性は築けないよな』
 『はい』
 実際に勝手に決めつけた結果、青吾を傷つけた俺は小さくなって頷いた。
 『じゃあ、あの子が青吾のことが好きだと言う仮説を立証するためにはどうすればいいかっていうと』
 古賀先生はぐっと口を閉じてたっぷりと溜めた後、身を乗り出した俺を見て楽しそうに笑った。
 『彬から告白して、それに対する答えを聞くしかないだろうな』
 告白。
 それは、とてもシンプルで、でも、一番確実な方法なのも確かで。
 『ちゃんと彬から好きだって言って、他の人を好きだっていう誤解をといてこい。付き合う、付き合わないって話はそれからだろ』
 納得した俺は、土曜日に電話をして告白をすることを古賀先生に宣言し、数学の問題を一問も解くことなく家庭教師の時間は終わったのだ。

 放課後、体育館に向かいながら、体育館の裏で告白されたこともあったな、と思い出す。
 これまで、いろんな子に、いろんな告白をされてきた。もちろん、電話越しに告白されたこともある。
 でも、それらが自分の告白の参考になるか、と言われたらならない。だって、俺はあの女の子たちではないし、青吾も俺ではないから。俺は俺なりの精一杯の告白をするしかない。
 ただ、告白をしてくれた子たちも、彼女たちにとっての精一杯の告白を考え、実行してくれたのだろうと思うと、今さらながら有難いことだなと感じる。
 「彬」
 体育館の前に座っていた森が俺を見つけて手を挙げる。
 手を挙げ返すと「彬来たよ!」と森が中に向かって叫び、体育館から井沢が走って出てくる。
 「よ」
 たった二週間話していないだけだけど、なんとなく気恥ずかしい気持ちになりながら近寄る。
 「悪いな、急に呼び出して」
 「告白かと思ってこっそり読んだ俺の時間を返してほしい」
 俺の言葉に二人が笑う。
 「ここだと落ち着かないからちょっとあっち行こ」
 井沢が先を歩いて、中庭の方へ向かう。
 「彬もなんかやせた?」
 隣を歩いていた森が聞いてきた。
 「どうだろ。でも、俺もってことは、青吾がやせてるってことだよな」
 俺の口から出た青吾という言葉に、井沢と森が目を見合わせる。しかし、何も答えないまま足を進めた二人は、ベンチの前で立ち止まって俺を座らせたあと、両脇を固めるように座ってきた。
 「青吾、少しは昼を食べるようになったの」
 なかなか話を切り出さない二人に、自分から問いかけると、井沢が肩をすくめた。
 「まあ、持ってきた弁当はなんとか食べてるって感じかな。たぶん青吾の親も心配してるんじゃないの。なんか胃に優しそうなもんばっか入ってるし」
 「そっか」
 もともと細身な青吾がさらに細くなったら、それは心配だろう。改めて罪悪感を覚えていると森が「ってかさ」と口を開いた。
 「二人とも何にも言わないし、なんかあんま俺らがしゃしゃり出てもなって思ってたんだけど、お互い意地になってるみたいにも見えるし、俺らができることとかないかって聞きたくて彬を呼んだんだけど。青吾に聞いても大丈夫の一点張りだし」
 「ごめん、心配かけて。でも、青吾と俺の間でどうにかしないといけないことでさ。週末に青吾に電話をかけて話そうと思ってるから、たぶん、来週からまた昼は一緒に食べられるようになると思う」
 「あ、マジ?」
 二人がほっとしたような顔になる。
 「うん。まあ、話がこじれないことを願ってて」
 「ほんとに願うよ。俺、正直なところ彬より青吾のほうが心配でさ」
 井沢が頭の後ろで手を組みながら言う。
 「青吾にとって、彬ってなんていうの、すごい絶対的な存在じゃん」
 「そんなことないと思うけど……」
 「いやいや、そんなことあるよ。俺、青吾に聞いたことあるんだけどさ」
 森が前かがみの姿勢で俺を見ながら話し始める。
 「小学生の頃とか、青吾ってクラスでけっこう浮いてることが多かったんだって。ほら、あの性格だからさ。真面目過ぎるとか、空気が読めないとか、正論ばっかで融通が利かないとか、そんな感じで面倒くさいやつっていう扱いされてたって」
 思いもしなかった話に眉間に皺がよるのを感じる。あの青吾が?クラスの中で浮いてた?あんなに性格のいい可愛い青吾が?
 「で、中学では、できるだけ大人しくしようと思ってたんだってさ。でも、なんか彬が先生に意地悪なことを言われたときに、青吾が先生に正論をぶつけてちょっとした騒ぎになったんだろ」
 「そう、青吾が俺を庇ってくれて。おかげで俺はすごい救われたんだよな。あの当時、この見た目でいじられることが多くてさ。青吾がいなかったら、俺精神的にやられてたかもしんない」
 「お互いそう思ってんの面白いな」
 「え」
 「青吾の方もそのあとに彬に感謝されて、あんなふうに真っすぐに正しいことを言えるってすごいって言われて、救われたらしいよ。どっちかっていうと、やっちゃったって落ち込んでたらしいから」
 「なんも落ち込む必要ないのにな。あれが青吾のいいところなのに」
 「だから、そんなふうにさ」
 ちょっと語気が強くなった俺を見て森が笑う。
 「彬が青吾のことを全肯定するから、青吾は本当に毎日楽に過ごせるようになったんだって。自分のままでいても大丈夫なんだって思えるようになったってさ」
 俺の横で屈託のない笑顔を見せる青吾がふいに脳裏をよぎって、胸がぐっと詰まる。
 そんなことを思っていたのか。俺と一緒にいることで安心して過ごせていたのか。俺にとって青吾が光であったように、青吾にとっての俺も、もしかしたら光だったのだろうか。
 森の言葉のあとを引き継いで、井沢がのんびりと喋りだす。
 「一緒にいて救われたって思える相手って、そうそういないよなー。しかもお互いにとか。やっぱさ、彬と青吾は一緒にいるのがいいってことだよ。まあでも、明日電話するなら、もう大丈夫か。良かった良かった」
 「……それなんだけどさ」
 俺は、両脇に座る井沢と森を見る。
 こんなこと言われても、二人とも困るかもしれない。でも、こんなにも俺らのことを心配してくれていた二人に嘘をつき続けるのも、違う気がした。
 「俺、二人のことマジで親友だと思ってるし、マジで信用してるから言うけど」
 「お、彬がデレた。なになに」
 「俺さ、青吾のこと好きなんだわ」
 「知ってるけど」
 「いや、もちろん友達としてもだけど、なんつーの、恋愛対象として」
 「んえ!!?」
 「待って、マジ!?」
 「うるさ」
 同時に叫ばれて、俺はわざとらしく耳を両手でふさぐ。
 「ちょっと待ってよ、俺、いつも塩な彬に親友って言われた喜びと、青吾がって驚きとでよく分かんない感情になってんだけど」
 「あー、まあでも、それなら彬の過保護っぷりも納得するっていうか」
 「ちょ、ってことは、もしかして今、痴話喧嘩してるってこと!? 犬も食わないってやつ!?」
 「違う。俺は青吾のことを好きだけど、別に付き合ってるとかじゃない。青吾は俺のことそういう意味で好きかどうかわかんないし。ちなみに今のこの状況は、俺が青吾へのアプローチ方法を間違った結果」
 「なにやってんだよ」
 「それなら彬が悪いんじゃん」
 「弁解の余地もないっす」
 俺は思いっきり空にむかってのびをする。
 「ま、明日、ちゃんと青吾に告白する予定だからさ。うまくいけば恋人として、うまくいかなかったとしても親友として、俺はまた青吾の隣にいるようにするよ」
 「……そっか」
 「青吾も同じ気持ちだったらいいな」
 「どうだろうね」
 俺は笑って立ち上がり、ベンチの方を向くと、二人に向かって深々と頭を下げた。
 「ってことで、心配かけてごめん。あと、ほんと有難う、二人とも」
 「よせやい」
 「よせやいって本当に言ってる人初めて見たわ」
 井沢と森が笑って、俺も笑う。湿気を含んだ風が笑い声を運んでいく。
 来週は四人でこんな風に笑えているといい。心の底から、そう思った。

 ☆

 スマホを前に正座をしてから、十分以上経っていた。
 今日の電話では、自分の気持ちをきちんと正直に伝えるというのが一番の目標だ。
 青吾のことが中学生のときからずっと好きだったこと。
 塾の先生を好きなのではないかとずっと不安で嫉妬していたこと。
 あのとき、勢いで付き合おう、みたいに言ってしまったけど、青吾と付き合いたいと本気で思っていたこと。
 もちろん、青吾にその気がなかったら振ってもらって構わないこと。勝手かもしれないけど、それでも、親友としてこれからも一緒にいてほしいこと。
 何度もシミュレーションしたし、あとは伝えるだけ。それだけなんだけれど、いざとなるとやはり緊張してしまい、さっきからずっとスマホとにらめっこしたまま時間が過ぎている。
 ――よし、電話しよう
 このままじゃ何も変わらないと、気合を入れて手を伸ばしかけたところで着信音がなった。勢いを削がれ、なんだよ、と心の中で舌打ちしながらスマホに手を伸ばす。
 スマホにはメッセの通知が表示されていて、その送り主を見て、俺は息をとめた。今から電話をしようと思っていたのに、先手を打たれてしまった。
 どうしよう。何を言われるんだろう。気持ちを伝える前にすべてが終わってしまったりしたらどうしよう。でも、もう逃げるわけにはいかない。
 俺は意を決してスマホのロックを外し、メッセージに目を通した。
 『友達の話だけど』
 メッセはそう始まっていた。思っていたのとは違う内容に、俺はほっとため息をついて読み進める。そして、こんな気まずい状況でもきちんと報告してくれる青吾の律義さを、やっぱりとても好きだと改めて思う。
 『相談に乗ってもらったから、報告しておこうと思って。昨日、友達が直接先生に、好きな人について聞きにいった。先生の好きな人は同じ系列の他の塾で働いている人だって。友達は失恋したけど、はっきりしてよかったって言ってた。彬が言ってくれたおかげ。ありがとう。』
 そっか、と思う。はっきりさせて、きちんと失恋したのか。
 でも、それでよかったと言える友達は、すごいと素直に思う。俺は、言わない方がよかったって、あとで後悔するんじゃないかってこの期に及んでまだ本当はビビってるから。
 でも、せっかく青吾から連絡をくれたのだから、井沢にも森にも、古賀先生にも宣言したんだから、進まなければいけない。
 急に電話する前に、一言返した方がいいだろうかと、スマホを見ていると、シュポッと新しいメッセージが現れた。
 『次に俺たちの話だけど』
 びくりとする。ここで、改めて振られるようなことがあったら、なけなしの勇気が蹴散ららされてしまう。
 慌てて、ちょっと待って、俺も言いたいことがあるから電話しよう、と打ち込んでいる間に、また新しいメッセージがシュポッと現れた。
 『ずっと彬が好きだった』
 思わぬ一言に手をとめた俺の前に、また新しいメッセージが現れる。
 『でも、好きだってことがなかなか認められなかった』
 『友達なら、一生続くけど、それ以上の気持ちを持ってたら、今のままでいられなくなるって思ったし、そのせいで彬が離れていったりしたら耐えられないって思ったから』
 打ち込んでいた文字をそっと消して、訥々と送られてくる告白を、俺は黙って見続けた。両想いだったのがこれではっきりしたけれど、嬉しい、というより、なんだか泣きたいような気持ちだった。青吾もきっと俺と同じようにたくさん考えて、一生懸命に伝えようとしてくれている、そのことが何よりも愛しかった。
 『でも、親友って言われるのを悲しく思うようになったり、彬と二人きりになると緊張するようになったり、誰かが彬に告白したって聞くと焦るようになったりして、自分でもさすがにこれ以上ごまかすのは無理かもって思い始めていたときに彬と古賀先生と会って』
 『彬が先生のことを好きなんだって気づいて、すごくショックで、つらくて、彬のこと好きだったんだってようやく自分自身でも認めるしかなくなった』
 『でも、彬が先生を好きなら俺なんかじゃ太刀打ちできないし、仕方ないから、せめて親友として一緒にいようって思ってたけど、やっぱり好きで、だから、友達に相談されたときに、それを彬に相談するふりして、彬の恋愛観とか聞きだそうとしてた。彬の優しさを利用してごめん』
 『ただ、まさかそのせいで、俺が塾の先生を好きで失恋したって、勘違いされることになるとは思わなかったし、俺のこと心配して、付き合おうとまで言ってくれてるなんて想像もしてなかったから、俺もあのときはちょっとパニックになって、ひどいこと言った』
 『彬も、年上の人にずっと片思いをしていて、つらかったのも分かる。だから、今は好きとは思えなくても俺となら付き合えるかもっていう気持ちを、俺が受け止められれば、良かったのかもしれない』
 あれ、と思う。
 これ、青吾が俺を好きじゃなくても、という意味で言ったんだけど、誤解が重なった結果、俺が青吾を好きじゃなくても、という意味で捉えられていたということだろうか。
 『でもやっぱり、同情とかお試しとかで付き合ってもらうっていうのは、悲しいし、無理だと思った。ごめん、小さい男で。それだけ、言っておきたかった』
 そこでメッセージは途切れた。
 しばらく画面を眺めたあとに、はっとする。
 俺に告白をするためにメッセージを送ってきてくれていたのかと思っていたけど、違う。
 これは、あの公園で付き合おうと言った俺に対して、きちんと理由を述べたうえでの断りの連絡だ。
 急いでスマホの連絡先を出して、青吾のアイコンをタップした。着信拒否されていたらどうしよう。こんなところで終わらせるわけにはいかない。
 呼び出し音がなっても、なかなか通話にはならず、本当に着信拒否されているのでは、と不安になったところでようやく繋がる。
 『……もしもし』
 「あのさ、俺がずっと好きなのは先生じゃなくて青吾なんだけど」
 『え?』
 「ほんと、なんかもう、どっから話せばいいのか分かないけど、まず、確かに俺の言い方が良くなかったとは思うけど、付き合ってって言ったとき、俺が伝えたかったのは、青吾が俺を好きじゃなくても、俺が好きにさせるからみたいな、そういう意味で。全然、青吾が思ってるのと真逆」
 『……俺が送ったメッセ見て気を使わせてない?』
 「なんで。俺、中学生のときから、青吾のことしか好きじゃないのに」
 電話の向こうからは何も返ってこずそわそわする。表情が見えない電話って不便だ。黙られてしまうと何を考えているのかさっぱり分からない。
 やっぱり直接会って話したほうがいいと判断した俺は、スマホをスピーカーにして立ち上がり、部屋着を脱ぎ捨てる。
 「まずさ、好きな人の誤解をといていい? 俺が古賀先生を好きだとか、どっから来たの? それ」
 『……彬は、あの先生と同じ大学に行きたいんだろ。先生にもそう言ったって』
 「それだけで?」
 『中学生のとき、彬が言ってたから』
 「なにを?」
 『自分は、あれがやりたいこれがやりたいっていうのはあんまりないから、好きな人と同じ大学に行きたいって』
 「えー……? そんなこと言ったっけ?」
 『言ったよ。俺がお父さんと同じ大学に行きたいって話をしたとき』
 Tシャツをかぶった頭の中にふわっと記憶が蘇る。そうだ。あのときは、大学なんてまだまだずっと先の話で、考えたこともなく、だけど青吾が目指す大学に自分も行けたら楽しいだろうという気持ちで、そんな答え方をしたのだ。そして、その気持ちはいまだに変わっていない。
 「確かにそうなんだけど、それは古賀先生の大学が青吾の第一志望だからで、つまり青吾が好きだから一緒の大学にいきたいって話。ただ、カテキョを始めたばかりの頃は、俺の学力でそれを言うのは恥ずかしかったから、先生にも黙ってもらってて」
 知らなかった、と青吾が小さな声で呟く。
 「でも、最近成績があがってきたから、次の進路指導では親にも先生にもここ目指してますって言うつもりだし、そのために夏も頑張るから」
 よし、これで誤解は解けたか?と棚から取り出したデニムを履いていると、『でも』と聞こえてくる。
 『古賀先生の話よくするし、会うときにおしゃれしたり、やっぱり古賀先生が特別なんだろうって感じるけど』
 「おしゃれしてたって言っても、あの塾に迎えにいった一回だけだよね」
 『……まあ』
 「あの日はさ、青吾を塾に迎えにいくときに、周りを牽制するつもりであの服を着ていっただけ。先生と出かけるからって言うのは嘘」
 『牽制?』
 「俺の方はね、あの塾の先生を青吾が好きなんだと思ってたし、万が一先生のほうも青吾を好きになったら困るなとか、もしかしたら相談してる友達って言うのも青吾目当てかもしれないとか思ってたし、とりあえず青吾には俺がいるっていう存在をアピールしたかったっていうか。だから、あの日の服は、俺の目的を知ってた古賀先生と店の人に見立ててもらったのをそのまま着ていっただけだし、あんな服はほかに持ってない」
 『そう、なんだ』
 「あと、念のために言っておくけど、古賀先生に彼女がいることはとっくに知ってるから。古賀先生とこの前会ったんだろ? でも教えてくれなかったのって、そのせいもあったりした?」
 『あぁ、うん……そう。その前の日に古賀先生に釣り合うために背伸びしたとか言ってたから、やっぱり好きなんだなって思ってたところだったし、ショック受けるかもって。でも、取り越し苦労だったってことだよね』
 なんか俺、馬鹿みたいだなと言う青吾に「それを言ったら俺もさ、取り越し苦労だと思うけど、気になってたことがあって」とベルトをつけながら話しかける。
 「青吾の方は、なんで塾でだけピアスつけてたの? 俺、あの先生にギャップを見せたいのかって思っちゃってたんだけど、そうじゃないんだよね?」
 『それは……』
 青吾の声がやや小さくなる。
 『だって、彬の前でつけたら、いかにもすぎるし。でも、塾につけていったら、帰り道とかで彬と会える可能性もあるしさ、そうしたらさりげなくギャップを見せられるかなって。でもまさか初日から見せることになるとは思ってなかったから焦った』
 「なにその可愛い理由」
 心の声が漏れ出してしまった。
 まあもう遠慮する必要はないか、と最後に靴下をはいた俺は、財布をボディーバッグに投げ入れてそれを担ぐとスピーカーをオフにしたスマホを耳にあてて部屋を飛び出す。
 「ほかにも何か、俺に聞きたいことない? 不安なこととか、なんでも」
 『年上が好きって言ってたのは?』
 「言ってなくない? ってかあの噂のこと? だとしたらいつだったか一緒に帰ったときに、俺否定したはずだけど」
 『年上の女の人、って言うのは否定してたけど、年上じゃないとは言ってなかった』
 「いや、俺は両方否定したつもりだったんだけどな……」
 階段を駆け下り、リビングのドアを開けて覗き込むと、粘土を両手に持った父さんと梢がこっちを見た。
 「ちょっと青吾の家に行ってくる!」
 「気を付けてね」
 「えー! 梢も一緒にお出かけしたーい!」
 「今日はどうしても無理。ごめんな」
 「梢のこと置いていくの、やだー」
 「コズはパパと遊ぼう?」
 父さんになだめられながらも下唇を突き出して泣きそうになる梢に「コズ、I love you to the moon and back! 帰ってきたら遊ぼうな」と声をかけて俺はドアを閉める。
 妹は可愛いし大事だが、今の最優先事項は青吾のもとへ行くことだ。
 「ってことで、今から行くから」
 『さっきの、なんて言ったの?』
 電話の向こうから尋ねられ「あぁ、さっきの英語?」と返す。
 「Love you to the moon and back、日本語に訳すと、月に行って帰ってくるくらい大好きだよっていう意味」
 『そうなんだ。なんか、そういう言葉を日常的にさらっと使うの、かっこいいな』
 「俺、愛情を全部言葉にして伝えてくる父親に育てられてるから、青吾にも一生こういうこと言いまくるよ。覚悟しといて」
 一瞬沈黙が流れ、さすがに飛ばしすぎたか、とちょっとだけ反省していると、青吾がおずおずと聞いてくる。
 『あのさ……言われたらなんて答えるべき?』
 「ありがとうで十分だよ」
 真面目な青吾らしい質問に、俺は笑いながら靴を履き、扉を大きくあけた。明るい日差しが玄関に差し込む。目をすがめて真っ青な空を見上げるのと同時に、ずっとくすんでいた自分の心の中も晴れ渡っていく。
 言えるはずがないと思っていた言葉も、これからはなんでも伝えていける。これまで以上にたくさん大事にしていける。遠慮なく甘やかしていける。これまで、俺の世界は青吾を中心に回っていたけど、これからは二人で俺たちの世界の中心になっていくのだ。
 「青吾、会ってから、もっとたくさんいろんな話をしよう。友達の話じゃなくて、俺たちの話」
 それだけ告げてスマホをポケットに入れた俺は、青吾のもとへと駆けだす。本当に月まで行って帰って来られるのではないかと思ってしまうほど足は軽く、どこまでもどこまでも駆けていけそうだった。

 End